ファラールの舞曲

第三話 「触れた手は温かくて」

 屋敷の中を歩き回るのは久しぶりのことで、ゼジッテリカはやや浮き足立っていた。隣を笑顔で歩くのはシィラだ。護衛なのだから当然なのだが、そんな些細なことが何だか恥ずかしい。
「そんなに部屋にこもりきりだったんですか?」
 歩き始めてすぐ、辺りを見回すゼジッテリカにシィラはそう問いかけてきた。部屋の外に出ることはある。だができる限りそういう機会を避けていたことは、新しい使用人でさえ知っている事実だった。
 ゼジッテリカは狙われている。父サキロイカが亡くなる前でもそれは同じで、魔物に狙われる以前も似たような状況だった。割と安全な星と言われているファラールでも、金持ちはやはり狙われやすい。それが幼い少女となれば、なおのことだった。だからゼジッテリカは幽閉されるがごとくかくまわれてきた。一番安全なはずの部屋に、ずっとこもってきたのだ。
「ずっと、ってわけじゃあないけど。でもできる限り部屋にいたよ」
 答えながらも視線を彷徨わせたゼジッテリカは、同時に周囲から視線が降り注いでいることも知っていた。使用人は仰天しているだろう。護衛の者たちも驚いているだろう。ゼジッテリカが廊下を歩くというのは、つまりそういうことなのだ。しかもその隣にいるのが一見ひ弱なシィラなのだから、怪訝な顔をされるのも仕方ない。不快だが。
 不思議に思うなら話しかければいいのに。聞けばいいのに。
 それがゼジッテリカにとっては大いなる疑問だった。大人はいつもそうだ。顔に出したり、そうでなくともそういった空気を醸し出すわりには、内心を口に出すことは決してない。言いたいことがあるなら言ってくれればいいのにと、何度思ったことか。
 今だって通り過ぎる者たちの誰一人として声をかけてこない。シィラは平気そうな顔をしているが、ゼジッテリカは気持ち悪くて仕方なかった。まとわりつく視線に汚されている気分になる。
「あ、いた!」
 だがそこで、ようやく声をかけてくる者が現れた。二人が同時に振り返ると、その先には背の高い女性が息を整えながらたたずむ姿がある。癖のある赤毛を短く整えた、快活そうな女性だ。けれどもゼジッテリカはその女性を知らない。会ったことがない。だから答えを求めるようシィラを見上げると、彼女は微笑んで頭を傾けていた。
「あら、マランさん」
「噂聞いて、まさかと思って飛んできたのよ。なんで、どうして、護衛されるべき人がこんな所歩いてるの!? というか何であんたが引き連れてるの!?」
 彼女はシィラの知り合いらしい。いや、身動きしやすそうな軽い防具を身につけているところを見ると、護衛の一人なのだろう。彼女は足音を立てながら近づいてくると、シィラの目の前で立ち止まった。ゼジッテリカがその顔を見上げようとすると、首の角度がかなり急になる。
「リカ様が今までずっと部屋にいらっしゃったというので。あ、リカ様、こちらがマラーヤさん。私はマランさんとお呼びしてますが」
「話そらすな、そんなの理由になってないわよ」
「そうですか? だって部屋の中にずっといたらつまらないじゃないですか。私がいるから心配ないですよ」
 シィラはふわりと音がしそうな微笑みを浮かべた。ゼジッテリカの心を解かす、春のような笑顔だ。するとどうやらマラーヤの方も解かされたらしく、口をもごもごとさせて顔をしかめていた。美人は罪だとゼジッテリカは思う。相手が女でもこの効果だ。
「でも、だからって……いや、せめて屋敷内護衛の方にも連絡してよね。こっちの体制にも影響出てくるんだから」
 マラーヤはそう声を絞り出すと視線を逸らした。話からすると彼女は屋敷内護衛の担当らしい。だからシィラとも知り合いなのだろうか?
 ゼジッテリカがおもむろにシィラへ視線を向けると、同時に見下ろしてきたシィラの視線と重なった。見下ろされるのは嫌いなのにシィラがあまりに優しい目をするものだから、途端に体中がこそばゆくなる。いっそ逃げ出してしまいたかった。
 すると前触れなくシィラの腕が伸びてきて、ゼジッテリカの手を掴まえた。手を握られたことのないゼジッテリカは、驚いて目を丸くする。これはどういう意味だろう? どういった意思の表れだろう? けれどもシィラの双眸は既にマラーヤへと向けられていた。ぶつぶつと文句を繰り返すマラーヤに、気のない返事をしている。
「マラーヤさん!」
 するとマラーヤのさらに後ろから、呼びかける声があった。その主は癖のない金髪に翡翠色の瞳を持つ、細身の好青年だ。身につけた防具は簡素ながら、鈍く光る様が高価そうに見える。防具の触れ合う音をさせながら、彼は走り寄ってきた。
「あ、シェルダさん」
 マラーヤが彼の名をつぶやいた。傍まで来て立ち止まった彼は、軽く眉根を寄せるとその場にいる面々を順繰りと見る。状況が飲み込めていないらしい。特にシィラを見て怪訝そうにしながらも、彼はゼジッテリカに一礼した。
「これはゼジッテリカ様、失礼しました。まさかこんな所にいらしているとは思いませんでしたので。しかし護衛もつけずにというのは、少し危険ではないですか?」
 最低限の礼儀は身につけているというところか。しかし彼は大きな勘違いをしている。とてつもない勘違いだ。どう答えようかゼジッテリカが迷っていると、先にマラーヤの手が動いて彼の肩を叩いた。
「シェルダさん、護衛はちゃんとついてるわよ」
「え? ですがマラーヤさん、あなたはたまたま会っただけでしょう?」
「だから護衛、彼女が護衛。この見た目か弱そうな女の子がシィラ、あの噂の直接護衛なのよ」
 繰り返すマラーヤの顔を見て、それからシィラの顔を見つめて、数秒間シェルダは停止した。どう考えても彼の頭は現状理解を拒んでいた。しかし当のシィラはというとそんな失礼な勘違いにも慣れているのか、相変わらず微笑したまま成り行きを見守っている。
「え、そ、そんなまさか……」
「シェルダさん、屋敷内護衛の隊長なのに顔合わせもしてなかったの?」
「それは、まだ、直接護衛だけは悩んでいると、そうテキア様に聞かされていたので」
 ようやく現実へと戻ってきたシェルダに、マラーヤは呆れ顔でそう問いかけた。実は彼は屋敷内護衛の隊長だったらしい。そんな彼がこんなところで立ちつくしているのもどうかと思うが、ゼジッテリカは何も言わなかった。それを言えば自分も同じことを言い返されてしまう。
「よろしくお願いします、シェルダさん」
 混乱するシェルダに向かって、シィラは笑顔で頭を下げた。けれども彼が疑うのももっともだった。シィラの恰好は他の護衛とは明らかに違う。まず防具を身につけていないし、それどころか武器さえ身につけていない。簡素な服に華奢な体となれば、護衛ですと言っても信じてもらえるわけがなかった。ゼジッテリカは技使いのことはよく知らないが、相当変な護衛であることは確かだろう。
「わ、わかりました。疑って申し訳ありません、シィラさん。しかし直接護衛がゼジッテリカ様を連れ出すとはどういうことですか? こちらは部屋を重点的に守るよう体制を整えているのですが」
 どうやらシェルダの思考は徐々に働きつつあるらしい。もっともなことを口にした彼は、黙ったままのゼジッテリカを一瞥してきた。穏やかそうな瞳だが、そこにも鋭い光が宿っている。
 仕事のことになると、大人はこうやって別人になる。
 ゼジッテリカは唇を結んだ。無意識に力が入ったのか、握られていた手の上を軽く指先が撫でていく。シィラの指だ。細くて温かいそれに触れられていると、風邪をひいた時の母親の手を思い出した。どうしてあれは無条件に信じられたのだろう。今さらながら不思議になってくる。
「すいません、これから報告に行くところだったんです。私一人が行くわけにもいきませんでしょう?」
「それはそうですが……。しかし何故部屋を?」
「つまらなさそう、だからですって」
 さらに首を傾げるシェルダに、マラーヤの単刀直入な説明が衝撃を与えた。間の抜けた声を漏らした彼は、目を白黒とさせている。
 そう、誰もがゼジッテリカは部屋に居続けるものだと思いこんでいた。小さな子どもが部屋にこもることを、当然だと思っていた。それが他の護衛とシィラの違いだ。いや、単にシィラが変なのだ。お金で雇われた護衛なのに余計なことをするなんて。
「私が傍にいる限り、リカ様は大丈夫ですよ」
 そしてこの自信。見た目と反して彼女の口振りからは、常に確かな自信が感じられた。暗示なのだろうかと思ってみたけれど、それが必要な状況だったことは今のところない。無論今だって必要ない。するとその言葉に呆れたのか、マラーヤは大袈裟に肩をすくめてみせた。
「そりゃあまた、ずいぶんなおこと――」
 言いながらマラーヤが首を横に振った瞬間、その動きは不自然に止まった。固まった、と表現してもいい。彼女の視線はゼジッテリカやシィラの背後、廊下の奥へと向けられていた。その眼差しを追うように、ゼジッテリカは振り返る。しかし特に異常は見あたらなかった。磨かれた床に絵の掛けられた壁、高い天井も記憶にあるものと変わらない。
「アースさん?」
 シェルダがつぶやく。彼の言う通り、一つだけ見慣れないものがあった。否、いた。廊下の奥の突き当たりには、一人の男が立っていた。
 ほぼ全身黒ずくめと呼んでもいい恰好の、細身の男性だ。ただ細身とはいっても骨格がしっかりしているのかシェルダ程は華奢には見えない。防具は何一つ身につけていないが、腰には長剣がぶら下げてあった。そしてその長めの前髪から覗く黒い瞳が、鋭い光をたたえたままこちらを凝視している。
 にらまれている、と言った方が正しいかもしれない。温かみの感じられない冷たい表情は、ゼジッテリカの背筋を凍らせた。はっきり言って怖い。魔物の仲間かと思うほどに怖い。するとシィラの手に力がこもり、きつく握られた。ゼジッテリカはほんの少しシィラの傍へと寄る。
 けれどもその男が立ち止まったのはほんの一時のことだった。彼はすぐに自身の前方を見据えると、曲がり角の向こうへと消えていく。その乾いた足音が反響し、彼女たちの元まで届いた。
「……アースって誰? シェルダさん」
 異様な沈黙を破ったのはマラーヤだった。名をつぶやいたくらいなのだから、シェルダはあの男のことを知っているのだろう。するとすっかり混乱から立ち直ったシェルダは、口の端に苦い笑みを浮かべた。
「アースさんは、屋敷外警備の副隊長です」
「え? ええーっ!? あんな感じの悪い奴が!?」
「なんでも実力では隊長クラスだが断ったとか。腕は立つが集団行動を好まないらしいですね」
「そんな奴がこんなところ来るなって感じよね」
 一瞬の出来事だが、既にマラーヤはアースを嫌な奴だと決めつけたようだった。だがその気持ちはゼジッテリカにもわかる。あの男が屋敷外の警備を担っていると考えると、不安さえ沸き起こってきた。実力はあるのだとしても怖すぎる。あの迫力で魔物も追い払ってくれればいいと、そう願いたくなるくらいだ。
「仕方ないでしょう。この破格の依頼料を考えれば、誰だってやってきますよ」
 そう言ってシェルダは肩をすくめて頭を振った。先ほどマラーヤがやった仕草と同じだが、見目の整った彼がやるとそれなりに様になる。彼もアースは苦手なのだろう。
 ならばシィラはどうなのか? 気になったゼジッテリカは、先ほどから黙ったままの彼女を見上げた。シィラはゼジッテリカの手を握ったまま、やや斜め上辺りの天井を静かに見つめている。そこには何もない、ただ白い壁面が続いているだけだ。
「シィラ? ……どうかしたの?」
 何だか不安になってゼジッテリカは思わずそう尋ねた。喉から絞り出した声はかすかに震えている。するとマラーヤたちもシィラの様子に気がついたのか、怪訝そうに首を傾げた。
「お話の途中で残念ですが」
 シィラは天井を凝視したまま、淀みのない声で空気を振るわせた。ゼジッテリカの位置からは、彼女がどんな表情をしているのかわからない。ただ微笑んでいないことだけは確信できた。ずっと耳にしていた温かい声と、今の声とは少し違う。
「早速いらっしゃってしまったようですね」
「誰が?」
「ま、まさか魔物!?」
 そこまでシィラが告げると、すぐにマラーヤは事態を把握したようだった。魔物という言葉にはっとし、シェルダの体にも力が入る。
 ついに来たのだ、魔物が。ゼジッテリカたちの命を狙ってきたのだ。シィラはゼジッテリカの手を引き寄せると、眼差しをシェルダとマラーヤの方へと向ける。ゼジッテリカは大人しくシィラの足下に寄り添い、恐怖に打ち勝とうと努力した。
「はい、魔物が動き出したようです。お仕事開始ですね」
「行くわよ、シェルダさん! あ、シィラはゼジッテリカ様連れて部屋に」
「はい」
「急ぎましょうマラーヤさんっ」
 走り出すマラーヤとシェルダの背中を、ゼジッテリカは震えながら見送った。大丈夫だと自分に言い聞かせても、真っ直ぐ歩けそうにはなかった。

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