未来の魔法使いたちへ

第五話 遺跡の中

 足音を殺そうとしても乾いた音だけは完全に消えなかった。冬の夜を思わせるような冷たく乾いた風が、音もなく頬をさっとかすめる。それは手のひらににじんだ汗さえ吸い取ってしまった。
 奥はどうなってるんだろう?
 薄闇に慣れた目を凝らしても、入口から離れれば奥がどうなっているかは見えなかった。本当に真っ暗闇で何もわからない。
 明かり、どうしようかな? 魔法使っても大丈夫かな?
 私はおそるおそる手のひらを頭の高さまで掲げた。小声で呪文を唱えれば、小さな光の球がゆっくりと現れる。見習い魔法使いにも許されている、数少ない魔法の一つだ。町中でも普及していて安全だとされている。
 黄色く光る球のおかげで、遺跡の中は先ほどよりもはっきりと見えた。石の階段を下りればしばらくは細い通路が続いている。人がやっと三人通れるくらいの幅だ。石の敷き詰められた壁は、手のひらで触れると冷たかった。
「誰かいませんかー?」
 声を出すべきかどうか迷ったけれど、別に危険な犯罪者がいるわけでもないんだからと呼んでみた。自分の言葉が反響している。結構長い通路みたいだ。
「広いのかなあ?」
 少し早足で進んだけれど、なかなか分かれ道さえ見つからなかった。それでも声の通りから考えるとかなり大きな遺跡みたいだ。ひょっとして校庭の下いっぱいに広がっているのだろうか?
「だったら本当に迷ってたりとかするかもね。やっぱり魔法使いでもお腹すいたら動けないのかなあ?」
 尻込みする気持ちを紛らわせるように、私は歩きながらつぶやいた。でも歩けども歩けども先は見えてこない。人の気配もなかった。不安と希望が入り混じって複雑な気分になる。
 セペフルは先生を呼びに行ったけれど、校舎には誰もいないはずだった。たぶんやってくるまでには時間がかかるだろう。焦らなくてもきっと間に合う。大丈夫、何もないってすぐにわかるはずだ。
 けれども私の足は、あるところまで行って止まった。目の前に見えたのは突き当たりの壁だった。左側に扉があり、右側にはさらに通路が続いている。でも止まったのはそれが理由じゃない。聞こえたのだ、ひたりと裸足で歩いたような足音が。
 誰かいるのだろうか? 調査団の人だろうか?
 そう思うのに足がすくんで動けない。背中を冷たい汗が落ちていった。理由のわからない恐怖が、体を包み込む。
 裸足みたいな足音。
 調査団の人がこんなところで靴を脱ぐ?
 頭を巡る言葉。奥へ行くのは危険だと話し合う、魔法使いたちの声がよみがえる。近くならまだいい、けれども奥には何かがあると。
「ひーっ!」
 刹那、奥の方から悲鳴が聞こえた。それは男の人の高い声だった。続けて耳にしたくない何かを切り裂く音がして、つんと鼻につく臭いが漂ってくる。
 私はその場に座り込んだ。悲鳴を、音を聞かないように必死に耳を押さえてうずくまった。それでも同時に鼻をつまむことはできないから臭いだけは消せなかった。むせかえるような血の臭いが、曲がった先の通路から漂ってくる。
 誰かが殺された。そのことをかろうじて頭が理解した。耳を必死に押さえているのにひたりと、足音が近づいてくる気配がする。
 明かりを消さなくちゃ。
 そう思うのに上手く唇が動かなくて呪文が唱えられなかった。時間がたてば勝手に消えるけれど、今すぐ消すには呪文が必要だ。でも口さえ思うようにならない。
 どんどん足音が近づいてくる。ゆっくりゆっくり、道を踏みしめるような足音が。
 セペフルの言う通り、止めればよかった。
 後悔してももう遅かった。恐怖でにじんだ涙が頬を伝っていくけれど、その場を逃げ出すこともできない。足音はゆっくりだから、走れば間に合うかもしれないのに。
 私は固く目を閉じた。けれども瞼を通してさらに強い光が入ってきた。この薄暗い通路には似つかわしくないそれは、人工的なものではない。でも決して私の使った魔法の効果でもなかった。
「子ども」
 声が、した。高めの男性の声とも、低い女性の声ともつかない中世的な声が頭の骨を通して直接響いた。
 私はおそるおそる瞼を開けて、そして顔を上げた。
 瞬きも息も何もかもが止まりそうになる。
「子ども」
 そうつぶやいているのは、黄色い光に包まれた何かだった。人の形をしているけれど顔がない。目のあるべきところはうっすらと黄色に輝いていて、鼻はかろうじて隆起しているとわかる程度だった。薄い唇も黄色で、それが言葉を紡ぎ出している。
 人間じゃない。
 それは理解できる。その右手が血の色に染まっているのも、理解できる。きっと先ほどの悲鳴はこの何者かが誰かを殺したのだということも。殺されたのは多分調査団の一人だろうということも。
 殺される。私も殺される。
 歯の根がガチガチといって止めようにも止まらなかった。ゆっくりと黄色い人形は近づいてきて、足音が大きくなる。私はぎゅっと目を閉じた。死ぬのならせめて、一瞬で死にたい。痛い思いはしたくなかった。
「……あれ?」
 けれども覚悟した痛みは、いくら待ってもやってこなかった。ひたり、ひたりとした足音が、黄色い光が次第に遠ざかっていく。
「え?」
 私はゆっくりと目を開けた。予想外にも見えたのは黄色い人形の後ろ姿で、それは私を通り過ぎて出入り口の方へと向かっていた。状況が理解できなくて頭の中がこんがらがっていく。魔法使いは殺しても魔法使い見習いは殺さないのだろうか? それとも私が女の子だからだろうか?
「ナハル!」
 そこで声が、安堵する声が私の硬直を解き放った。通路を通して聞こえてきたのはハスティー先生の呼び声だった。
 こんなに早く?
 疑問に思うけれど体は勝手に動きだしていた。それまで全然動けなかったのが嘘のように、すっと立ち上がることができる。
「ハスティー先生っ!」
 泣くのを堪えて私は大声を上げた。黄色い人形が立ち止まり、ハスティー先生の駆け寄ってくる乾いた足音だけが聞こえてくる。
 すると黄色い人形の右手が動き、そこから小さな光の球が生まれた。それは私の使う明かりの魔法とは別物だ。見習いだって見ればわかる、それは攻撃するための高度な魔法だった。
「先生っ!?」
 叫んだけれど声が聞こえたかはわからなかった。黄色い球は先生めがけて飛んでいき、そして炎を上げて爆発する。焦げた臭いが私のところまで漂ってきた。先生がどうなったか確認したいのに、煙が目にしみてそれもままならない。
 爆発はかなりの威力みたいだった。それに通路は狭くて避けられるわけがなかった。先生は、丸焦げになっちゃったのだろうか? それとも何か魔法で防げたんだろうか? 背筋がぞっと冷たくなる。
「ナハルっ」
 けれども立ちつくした私のすぐ側で、温かい声がした。慌てて顔を上げれば先生が目の前にいて、力強く私の手を引っ張ってきた。
 ほうきで飛んできたわけでもないのに、まるで瞬間移動みたいだ。そんな魔法があっただろうかと思うけれど記憶にはない。先生は私の肩を掴んだ。私は何度か瞬きしてみたけれどそれはどう考えても幻ではなかった。この笑顔も強引な振る舞いもハスティー先生そのものだ。
「せ、先生?」
「あいつ無茶するわー。こんなところであんな魔法使ったら、崩れてくるに決まってるのに」
 そう言う先生の背中越しに黄色い人形が見えた。こちらを向いて立ち止まっているそのさらに後ろは、床も壁も焼けこげて黒くなっている。先ほどの魔法のせいだ。
「ナハル、走れる?」
「え?」
「逃げるのよ、ここにいたら危ないわ。もうすぐ調査団の人も来てくれるし」
 言われて私は慌てて辺りを見回した。確かに、来た時と違って所々から砂が盛れだしてきている。でも足がすくんで走れるかどうかはわからなかった。なのに先生は答えを聞く前に走り出す。手がぐいっと引かれてよろけそうになりながらも、私は懸命についていった。
 でもここを抜けるには、あの黄色い人形の横を通らなければならない。また魔法を使ってきたらどうするのだろうか? 無事逃げられるのだろうか?
 悪い想像ばかりが頭に浮かんできて、体が固くなった。足の動きがぎくしゃくとして上手く走れない。無理矢理引っ張られる手首が痛くて顔が歪んだ。
「あっ」
 そしてついに、よろけた私の足は深緑の長いローブの裾を踏んでしまった。勢いのまま思い切り前方へと倒れ込めば、驚いた先生の手が咄嗟に離れる。
「ナハルっ!?」
 両手をついたおかげで顔面激突は避けられた。でもざらざらとした床にすった手のひらが痛かった。涙のにじんだ目で見上げれば、すぐそこに先生の顔がある。でもその後ろにはあの黄色い人形がいた。その右手がさらに強く光り、小さな球が生まれる。
「先生!」
 叫んだけれど、先生は振り返らなかった。私の体を包み込むようにして冷たい床から引きはがし、そのまま強く抱きしめる。
 嫌な音がして、同時に耳がきんとなった。先生の背中越しに光が強くなった。
「やっ、や……先生っ」
 細い腕の中で私は泣いた。肉の焼ける臭いと焦げ付いた臭いが、血の臭いに混じっていた。それなのに先生の腕は温かい。華奢なのに力がこもっていて、簡単には抜け出せそうになかった。確かな意思が籠もった腕。
「ほらナハル、立つ。泣いてちゃうまく走れないでしょう? しっかりしなさい」
 それなのに濡れた視界に移るのは、先生の笑顔だった。白い頬に落ちる赤茶色の髪が綺麗だ。凛とした瞳も綺麗だ。痛みなんて感じてないみたいに。
「ほら、ナハル走る! そして外へ出て調査団の人呼んで来るのよ。私は走れないけど大丈夫。自分の身を守るくらいできるから。ねっ」
 笑顔でそう言う先生に、私はめいいっぱい首を横に振った。そんなの嘘だ。きっと背中はひどいことになってるのに、そんな状態であの人形から逃げられるわけがない。私を逃がすつもりなんだと思うと、溢れ出す涙が止まらなかった。
 やっぱりこんなところ、来なければよかった。
「先生の言うこと信用できないのー? 悪い生徒ね」
 けれども先生は悪戯っぽく笑っていた。いつもと同じ明るい笑顔で、生徒をからかう時みたいに笑ったいた。いやだと答えようとする私のにじんだ視界に、黄色い光が映る。またあの人形は攻撃する気だ。今度直撃したら、もう先生は駄目かもしれない。
「ナハルなら大丈夫、あいつ何もしないから。ほら、早く」
 先生は腕を解いて振り返ると黄色い人形をにらみつけた。黒いローブからじゃあ背中のやけどはよくわからなくて、それが私をほんの少し安心させる。
 私がいたら、先生は思うように魔法を使えない。だったら本当に調査団の人を少しでも早く呼んできた方がいいのかもしれない。
 そう言い聞かせて、怖いけれど私は立ち上がった。さっきは横を素通りしていったんだ、きっと攻撃されないはず。
「行って、ナハル」
 先生の声に、私はうなずいた。そしてよろけながらも走り出した。黄色い人形は私なんて見向きもしないで先生の方を見ている。すんなりと横を通り抜けた私は、長い通路を全力で駆けていった。こんな時ほうきが使えたらきっと早く飛べるのに。見習いなのが、未熟なのが悔しかった。
 背後から、また爆発音が聞こえた。けれども悲鳴は、聞こえなかった。

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