「冬の始まりに」

 紅葉の見頃もとうに終わり、灰色の道を枯れ葉が覆い隠していた。歩くたびにがさりと音が鳴り、それが酷く耳につく。がさり、がさり、がさり。講義の時間が迫っているためか、大学へと続く道には人の列が生まれていた。寒さから身を守るためだろう、身を寄せ合う女子のとりとめのない会話がひっきりなしに続いている。その甲高い声は耳にうるさい。
「寒い……」
 吐き出した息とともに小さなぼやきが彼の口をついて出た。白く濁った息はすぐに周りの空気に溶け込み、色を失う。それはまるで消えゆく命のようで、どこか儚く美しかった。そこはかとなく甘美な様に瞳を細めると、手の先が赤く色づいていることに彼は気づく。慌てて手を摺り合わせるとじんわりと温かさがにじんだ。
 もう、冬か……。
 胸の奥にどうしようもない重さを感じて、彼は瞼を伏せた。同時に体を支配しようとする気怠さがその足を鈍らせる。すると苛立った吐息とともに、後ろの人が彼の横をどんどんと擦り抜けていった。寒さのためか皆足早だ。
 ぎりぎりと体の芯を揺さぶるような冷気、そして黄色に紅に染められた葉、赤みを帯びた人々の頬。それら全てが彼の底から凍り付かせるような思いを、苛立たせるような何かを引きずり出した。思わずポケットをまさぐり、彼はそこにあるはずの小さな袋を探す。
 あった。
 すり切れそうな、ざらざらとした手触りの小さな巾着袋を、彼の手は探り当てた。ポケットから取り出すと味気ないその姿が露わになる。くすんだ紺色の袋をのぞき込むと、銀色の鎖がちらりと見えた。不思議と胸の鼓動が落ち着いていく。
「買ってもらったばかりだったのに……無駄にするなよな」
 彼は自嘲気味につぶやきながら口元に苦い笑みを浮かべた。がさりがさり、がさりがさり。彼の横を通り抜けていく学生たちの足が、少しずつ加速していく。死にかけのような力無い風が、彼の黒く短い髪をかすかに揺らした。
「あ、時間か」
 壊れかけの腕時計に目を落とすと、講義の時間まであと一分というところだった。神経質な教授の顔を思い出し、彼は心底げんなりとする。巾着袋をポケットにねじ込むと、急ぐ学生たちの波に彼は紛れ込んだ。
 踏みしめられる落ち葉が味気ない悲鳴を上げていた。



 私語厳禁と書かれた紙の横でお喋りをする女子学生。携帯をいじる男子学生。至極当たり前となった光景から目をそらして彼はぼんやりと黒板を眺めた。そこでは、額にしわを寄せた初老の教授が、ぼそぼそと聞き取れない声で授業とも言えないような何かを進行している。黒板の前には数人の生徒が忙しくペンを走らせていた。そのほとんどが時代遅れな服装に身を包み、分厚い眼鏡をかけている。教授が時折見ているのは、その生徒たちだけだ。この広い教室にいるその他大勢のことなど眼中にないのだろう。だがそれでいいと彼は思っていた。その他大勢の生徒たちだって、教授のことなど目に入っていないのだ。結局はそう、お互い様。この腐れ切った空気に埋もれた腐れ切った人間たちだけが、ここには存在しているのだ。
 あいつ、またあそこの席にいる。
 彼は黒板の前に座る一人の少女に視線を移した。大学生というにはやや幼い、小柄な少女だ。肩を過ぎる程のウェーブのかかった髪はやや茶色い。しかし染めているわけでもパーマをかけているわけでもなさそうだった。どことなく野暮ったい後ろ姿は、しかし周りの生徒たちとは不思議と違う。そのせいか、彼はその背中をぼんやりと眺めるのが日常となっていた。今日の服はいつも以上に子どもっぽいだとか、友達と喧嘩したらしいとか、そうしたくだらない違いを見つけるだけなのだが、つまらない授業をつぶす手段の一つとしては丁度よい。
 高校生だろ、あれは。
 彼はいつもと同じようにその言葉を胸の内で吐き捨てた。授業が終わるとどこからともなくやってきた友達と笑い合うその姿も、試験前に真剣な顔でノートにかじりつく姿も、彼にはそうとしか思えなかった。だが不思議と心のどこかが温められ、まるで春に芽を出す花のような気分になるのも事実だった。苦々しくやるせなく切なく虚しい気持ちが、雪解け水に混じり流れていくように。不思議と、不思議と、奥底の灰色の部分がどこへともなく消えてゆくのだ。
 そりゃ高校の時はまだこんなには腐りきってなかったもんな。
 彼の口元に皮肉な笑いが浮かぶ。ここの空気はどこか甘く怠惰で、思考をおかしているのではないかと思う程に堕落した何かを含んでいる。
 体からやる気というやる気を奪い取る授業が終わりを迎え、彼は立ち上がった。先ほど周りの学生が噂していた、次の講義は休講だと。となると彼にとって今日はもはやこの大学は用済みだった。これなら寝ていればよかったと、心の隅で思ったりする。
 重たいコートを乱暴に着ると、ぱさりという素っ気ない音を立てて何かが床に落ちた。顔をしかめて彼は机の下をのぞき込む。落ちていたのは薄汚い紺色の巾着袋だった。だがしかし、それはそんな音を立てるはずがない。その中にはあのペンダントが入っているはずなのだから。
 彼はひったくるように巾着袋を拾った。案の定、そこにあるはずの重さは感じられなかった。恐る恐る中をのぞき込むと、紺色の布だけが目に飛び込んでくる。
 落とした――――。
 鼓動が、早くなった。
 来る道の途中だろうか、それとも教室の中だろうか。彼は思い出そうと努力してみるが、頭の中はただ白い空間に埋め尽くされ思考という思考を全て失ってしまっている。
 周りの怪訝そうな視線にもかまわず、彼は床を這いつくばって探した。銀色の光を求めて、目を凝らした。視界の端に映る冷たい足が恨めしい。
「何か落とし物?」
 その足の一つが、彼の横で立ち止まった。淡い水色の可愛らしい靴が彼の目に入る。かけられた声は高く軽やかで、よどみがなかった。この状況で声をかけてくる人などいるはずがないと思いつつ、彼は顔を上げる。
 そこにいたのは、いつも彼が見ていたあの少女だった。頭をやや傾け心配そうに見下ろしているその様は、やはり大学生には見えない。
「……あ、ああ。なかなか見つからないんだ」
 彼は抑揚のない声で答えた。見つからない苛立ちと、馬鹿みたいに声かけてきた彼女への軽蔑とで、彼の胸の内をよくわからないぐつぐつとしたものが動き回る。しかし彼女はその言葉の冷たさなど気づかないかのような顔をしていた。立ち去る気配もない。
「何を探してるの?」
「……ペンダント」
 当たり前のごとく口にされた問いに、彼は呆れ果てて事実を告げる。男が必死になってペンダントを探すなど、普通はあり得ない。一体彼女はどんな反応をするだろうかと、彼は内心期待した。だが彼女からは予想に反した透き通った声が帰ってきた。
「これ……?」
 差し出された手のひらから、ペンダントが姿を現す。花をかたどった可愛らしいデザインで、淡い桜色をしている。鎖はまるで買ったばかりのようにきらきらと銀色に輝いていた。
「そ、そう、これ!」
 彼は奪うようにそれを受け取った。何度も瞬きをしてみるが、間違いない、彼の……否、妹のだ。春に相応しいその色合い、輝きに、彼はふっと肩の力を抜き瞳を細める。その様子がおかしかったのか、彼女はくすりと笑い声をもらし鞄をゆっくりと床に下ろした。
「女の子のだと思ってた。そこの椅子の下に落ちてたの。彼女さんからでも預かってたの?」
「……いないよ、そんなの。妹の、なんだ」
 彼は小さな巾着袋を取りだし、中にペンダントを入れた。そのいつもの重さに安堵を覚え、そのままポケットに静かに入れる。高まっていた鼓動が、少しずつだが落ち着いていった。
「妹思いなんだね、プレゼントとか?」
 苦笑混じりに、それでも澄んだ声で尋ねる彼女に悪気はなさそうだった。だからこそ彼は胸の中をかき混ぜられたような感覚に襲われる。
 詮索するなよ、という言葉を彼は胸にしまい込んだ。何かが引っかかった。それが何なのかよく考えてみると、彼女の瞳が、妹がよくおねだりしてきた時のものとそっくりだということに彼は気づいた。期待に輝く瞳は痛い程正の感情を露わにしている。彼はまごつき視線を左右にさまよわせた。
「……形見」
 ようやく彼が口にした言葉は、この腐りきったまどろみには似つかわしくない重いものだった。彼女の瞳が見開かれ、小さな息がもれる。そのふっくらとした唇はかすかに震えていた。
「……あ、ごめんなさい」
 絞り出したようなかすれた声。今にも泣き出しそうな彼女の顔は、今まで見たことがないくらい蒼かった。血の気が引いたってこういうのを言うのだなと、彼はぼんやりと思う。
「いいよ、別に。俺が勝手に言ったことだし、拾ってくれたんだし」
 頭の中の言葉と口に出たものとは別だった。なら聞くな、と。そう言い捨てるつもりだった。自分がどうかしてしまったのか内心動揺を覚えながら、彼は一度瞼を閉じる。浮かんでくるのは変わり果てた妹の姿と、壊れた人形のように崩れ落ちる母親の後ろ姿。そして顔を赤黒くさせて震える、父親の姿だった。怒りにまかせて壁を叩きつけるその横顔は、今まで見た何よりも恐ろしかった。間近で見た、憎しみというものだったから。
「えっと、あの……」
 黙り込んだことに不安を覚えたのだろう、彼女が視線をさまよわせながらおずおずと口を開く。そんな彼女の申し訳なさそうな視線が彼には痛かった。目を少し伏せながらもうかがうように見上げてくる瞳は、見覚えがあった。
 あ、これも妹か。
 何でもそのことに結びつけてしまう自分に、情けない程引きずっている自分に彼は心の奥で失笑した。今日は、本当どうかしていると思いたかった。不思議とこみ上げてくる何か切ないものに思わず瞳が揺れる。
「とにかく、ありがとう」
 無理矢理絞り出した彼の声はかすかに震え、かすれていた。彼は踵を返してそのまま教室を出ていく。呼び止める彼女の声もかまわず、彼はひたすら歩き、歩き、人混みに紛れていった。
 振り返ることもせずに。



 次の日も彼はつまらない講義を受け続けた。その次の日も受け続けた。腐りきった空気に浸かりながら気怠げに辺りをうかがう彼は、しかし一つ暇つぶしを失っていた。あの小柄な少女をぼんやりと眺めるという日常が、日常ではなくなってしまっていた。時折は、見ている。だがぼんやりと眺めることはなくなった。彼は彼女と目を合わせるのを恐れていたから、一瞥するだけにとどまっていた。
 しばしば、彼女の視線を感じる。
 妹の形見について話したことを、弱みを見せてしまったことを、彼は心底後悔してならなかった。あの純朴そうで野暮ったい彼女がこんな話を聞けば、その後も気にするに決まっている。
 本当、俺はどうかしていた……。
 憐れみを受けたいわけじゃない。同情されたいわけじゃない。そんなものはいらない。
 ぐつぐつと煮えたぎる心は目に映る全てのものを灰色に変え、いや、世界を赤黒く染めていく。頭を腐敗させるだけのくだらない授業を受け流しながら、それでも彼の心によみがえるのはただ赤黒い景色。忘れてたいと思ったことなどなかったが、でも忘れようとしていたのかもしれない。彼の口から自嘲めいた笑いがもれる。
 季節はずれの雪でスリップした車が、妹の命をいとも簡単に奪った。その車はそのままどこかへ去ってしまった。やるせなさにむしばまれた彼はただ動揺して、狂っていく両親を見やることしかできなかった。恨み言ばかり言うようになった母親は病院に通う毎日で、どうしようもない怒りを酒で紛らわすだけの父親はいつ倒れてもおかしくない。志望校に落ちた彼は、今はただ無気力に暮らすだけ。忘れられるはずなどないのに、でも忘れたかったのだろう。ずたずたになった妹は、家族までもずたずたにしてしまった。あの赤黒い世界は、彼らの全てを変えてしまった。
 講義が終わりの時間を迎えると、学生たちはわらわらと立ち上がり帰り支度を始めた。実際は連れだってどこか行くのだろうが、彼にとってはどちらだろうと関係ない。もう暗くなりかけた窓の外は茜色から紫色へと変わり始めていた。気温もかなり下がっているだろう。彼は重たいコートを着込み、ポケットの巾着袋の存在を確かめる。そのざらざらとした手触りに安堵を覚えると、彼は真っ直ぐ教室を出た。
 外は講義から開放された学生たちで埋め尽くされていた。くだらないお喋りに花を咲かせる集団を尻目に、彼はどんどん前へと進んでいく。吐き出した息は薄暗い中でも白く浮き立ち、そしてすぐに儚く消えていった。がさりがさりと音を立てる枯れ葉の上を、彼は歩き続ける。
 紅に黄色に染まった落ち葉は、今は夕闇の中凍り付いたように地面にへばりついていた。彼は何ともなしにそれを見つめながら足を運び、ふと目の前を行く存在に気がつく。見覚えのある足だった。大学生のものとしてはやや可愛らしすぎる淡い水色の靴は、そう、彼女のものだ。
 彼は頭をもたげた。目の前を行く彼女は一人で、いつも一緒にいる友達はいない。このまま行けば彼女に追いついてしまう。
 黙って通り抜けるか? それはおかしいか? 適当に挨拶をするべきか? 気づかなかったふりをするべきか?
 彼は眉をひそめて最前の選択をしようと思案した。自然と、足の運びが重くなっていく。
「あ……」
 彼女の手から、小さな手袋がはらりと落ちた。靴とお揃いの可愛らしい淡い水色の手袋が灰色の地面に浮かび上がる。足下に落下してきたそれを、彼は拾い上げた。
「……ありがとう」
 手渡した人物に一瞬驚き、だが素直に彼女は受け取った。かすかに浮かんだ微笑みははにかんでいるようで、だがどこか憐れんでいるようで彼の心に冷たい水を注ぐ。
 妹は、こんな顔はしなかった。そう、所詮は別人さ。重ねてしまった俺がおかしいんだ。あいつは、もうこの世にはいないんだから。泣き崩れた母さんや、怒り狂った父や、ただ呆然とするしかない俺をおいて行ってしまったんだから。
 そのまま彼は彼女と並んで歩いた。がさり、がさり、がさり。枯れ葉を踏みしめる音の他は、寒いね、とか、そんなとりとめのない言葉だけだった。呼吸する音さえ重く耳に響く。
 二人の向かう先が一緒だったのは、駅までだった。乗る電車は反対方向だった。ほっとする自分に気づき、彼は心の中で苦笑する。こんな些細なことにびくびくしているなど、おかしな話だ。
「じゃあね」
「ああ」
 簡単な別れの言葉だけで彼は彼女に背を向けた。結局互いの名前を聞くことすらしなかった。
 明日は、妹の命日。墓に花を添えて、事故現場に手を合わせに行って、それから犯人が捕まるようひっそりと祈ろう。
 彼はポケットの中の巾着袋を手でもてあそびながら、壊れかけの時計に目を落とす。沈みかけていた太陽は、既にビルの彼方にあった。

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