「花びら一つ、あなたに」

 あら、足音が聞こえると思ったらこんなところに人が。その格好は見張りの方ではないですよね。どなたですか? こんな地下に、まさか迷い込んだんですか?
 ここは空気も何もかもが濁っていますし、早く外へ出た方がいいですよ。そのうち見張りの方も戻ってきます。
 え、私ですか? 私はこの通り牢の中の身。歩くこともままなりませんし、逃げ出すなど無理な話ですよ。
 しかもここには水もありません。処刑日を待たずにこの命は尽きるでしょうね。それが狙いなのでしょう。――ああ、そんな顔をしないでください。仕方のないことなんです、どうしようもないことなんです。あなたが悲しむようなことではないんです。
 まだ何か聞きたいことがあるんですか? 私がこんなところにいる理由?
 では、そのかわり一つ教えてください。王子は元気にしていますか? そう、あの末の王子です。私の大切な方なんです。私がこんなことになって、優しい王子が心を痛めてるんじゃないかと気になってるんです。王子は何も悪くないというのに。
 え、聞いた話と違う? ひょっとしてあなたもあの噂を知っているんですか? そう、私なんです。王子を色香で惑わしたと罰せられたのは。驚きましたでしょう? 信じられませんよね。こんな私にそんなことができるわけないですもの。こんな情けなくてみすぼらしい私に……。
 ――私を目にした者はみんな笑いますよ。笑いながら泣きそうになりますよ。誰もがそうでした。私がどうやって王子と出会ったのかと、みな首を傾げていました。いや、疑問に思ったのはそれだけではないんでしょうね。
 やっぱりあなたもそうなんですか? これっぽっちも楽しい話ではないんですが、そんなに聞きたいんですか? 後悔してもしりませんからね。
 あれは、まだ王子が小さな頃でした。肺を患っていた王子は「大きくなればよくなります」というお医者さまの言葉通りにはいかず、寝込むことが多くなるばかりでした。元気なお兄様たち、お姉様たちとは違い、何度か死の淵をさまよいました。それでこのままでは大変だと、空気の綺麗な田舎で養生することになったんです。
 そこは私の故郷でもありました。緑しかない、水も空気も澄んだ田舎でした。でもそれが王子にはあっていたみたいです。花と木と動物に囲まれた王子はたちまち元気になり、子どもらしく従者に内緒で探検をするまでになりました。
 その日も王子は珍しい動物を探して林の中を駆け回っていて、それで私のいる洞窟へとたどり着いたんです。
 私は誰も気に留めないような、そんな存在でした。そもそも私がそこにいるということを知っている者が限られていました。
 日の当たらない冷たい洞窟の中は、私にとっては心地よくても他の者にはそうではありません。たまに訪れる動物たちとお喋りをして戯れるくらいで、私はいつも独り。暗い洞窟に独りでした。
 でもそんな私の側に、王子は来てくれました。王子も独りだったんです。年の離れた従者たちは遊び相手にも話し相手にもなってくれません。王子の身体を案ずるばかりです。
 私はこの通り不自由な身ですが、動物たちから色んな話を聞いていました。毎日のようにやってくる王子へと、私は伝え聞いた冒険譚をお話ししただけなのです。けれども、それさえも王子には新鮮だったようでした。
 王子と過ごした時間は私にとってもかけがえのないものでした。王子は一度も私に触れることはありませんでしたが、そのまなざしは温かくて。いつまでもこうしていられたらと、なんど願ったことでしょう。独りに戻るのは、とても怖いことでした。
 ですがそれは所詮幻のようなもの。十五の誕生日を迎えた王子は、王宮へと戻りました。すっかり王子は元気になっていましたから、自然な流れでしょう。
 別れを告げる時の王子の顔を、今でも私は思い出すことができます。泣き出しそうな王子を見たのはそれが最初で最後でした。
 きっと王子とは二度と会えないでしょう。そもそも出会ったことが奇跡だったのです。
 それでも優しい王子を安心させたくて、私は仲のよい小鳥に頼んで花びらを託しました。王子と出会った洞窟やその周りには珍しい花がたくさん咲いていましたので、それを届けてもらえたらきっと王子は気づいてくれると思ったんです。ただ私が元気でいることを伝えたかったんです。本当に、それだけの気持ちでした。
 ですが、それは間違いだったのかもしれません。王子のためにはならなかったのかもしれません。王宮へと戻った王子は、次第に部屋に閉じこもるようになったと聞きました。王宮の生活は王子にとっては辛いものだったのでしょうか? 堪えられないものだったのでしょうか?
 学のない私には何もわかりませんが、あの田舎での生活と比べてしまっては窮屈だったのかもしれません。誰もが王子の幼い頃を知っていますが、笑い転げながら戯ける王子を知る者はいません。煌めくような髪を振り乱して走る王子を知る者はいません。
 あの田舎での暮らしなど、思い出してしまってはいけなかったのでしょう。小鳥が花びらを運ぶたびに、沈んでいた王子は澄んだ瞳を輝かせたと聞きます。渡した花びら一枚一枚を大切な宝物のように仕舞い込んでいたと、小鳥は教えてくれました。
 一度だけにすればよかったのです。いえ、一度でもだめだったのです。
 私は浅はかでした。あの優しい王子はきっと王宮でもみんなに愛されるはずだと、あの笑顔をみなに見せているはずだと、そう信じ切っていました。
 気づいた時には手遅れだったんです。何度も止めようと思いました。けれどもそうすれば王子はどう思うでしょう? 諦めて部屋から外へと出てくれるでしょうか?
 私にはわかりませんでした。でも、もし悲しんだ王子が鬱ぎ込むようなことになったらと思うと、この愚かな行為を打ち切ることができませんでした。
 優しいはずの王子の言動がおかしくなっても、そう小鳥から聞いても、私は花びらを送り続けました。大きな赤い花、薄紅色の花、太陽のような――私は目にしたことはありませんが――目映い黄色の花、洞窟奥の湖のように深い群青色の花。なんどもなんども送りました。
 それはどれもみな、動けない私に見せようと王子が持ってきてくれたものだったんです。それと同じものを、私は送りました。
 王子が返事のかわりに小鳥に託してくるのは、歌のみでした。最初は田舎で王子が口ずさんでいた歌でした。心躍るような軽やかな旋律に、私は聴き惚れたものです。
 ですが次第に意味のわからない歌が増えていきました。歌詞はわかるんですが内容が理解できなくなりました。激しい旋律にのせられた言葉は、小鳥に言わせれば呪詛のようだと。夜ごと襲い来る悪夢を呪う言葉だと、そう言っていました。
 ――あの、もうこのくらいにしませんか? 心躍るような話ではありませんし。それでも聞きたいんですか? あなたも変わった人ですね。
 それはいつもと同じように小鳥が花びらを届けた、この春のことでした。
 王子をずっと心配していたお姉様の一人が、その様子をたまたま庭から見てしまったのです。閉じこもっている王子が窓から顔を出したのを、偶然見つけてしまったのでしょう。それはきっと誰か――王子の心を奪った者からの手紙に違いないと、そのお姉様は思ったようでした。そして次に小鳥が現れた時、そのあとをつけるようにと従者に言いつけたのです。
 これでどうして私がここにいるのか、わかっていただけましたか? そうなんです、あの洞窟を離れられない私を、彼らはこのようにむりやり引きずり出しました。王子を惑わした罪は重いと、そう言って。
 彼らは私のせいで王子が狂ったと思いたいんです。いえ、それは事実なのかもしれません。ですがもっと大事なことを忘れているのに気づいていないんです。誰も王子に閉じこもる理由を問いかけたりなどしていないのですから。
 だから王子はいつも小鳥に向かって嘆いていたそうです。かわいそうな王子。思い出を否定されてしまった、かわいそうな王子。うなされてばかりの独りぼっちな王子。
 もういいでしょう? こんな話を長々と聞いてくださりありがとうございました。
 あら? どうしました? 香り? ああ、これは私の匂いです。死にかけていてもまだ香るんですね。ええ、いい匂いだと王子も褒めてくれたんですよ。この白く縮れたような花びらに、今にも爛れんばかりに伸びた花びらにぴったりの、ほんのりと甘酸っぱい香り。他の花のように強烈な主張はしませんが、何だかくせになりそうでしょう? 私の数少ない取り柄のようなものなんです。無駄に長生きしている私の、唯一の美点と言っていいのかもしれません。
 え? 眠くなってきました? だめですよ、ここで眠っては。香りをかぎすぎたんですね。たまにそんな方がいるんです。体質、というのでしょうか? でもこの香りに包まれて眠ると、とてもよい夢を見ることができるんだそうです。そう王子が話してくれました。私の香りのおかげでよく眠れると。
 ……帰りますか? その方がいいですね、どうかお気をつけて。ああ、もし迷惑でなければこの花びらを一枚持っていってくれませんか? そして、どこか塀の上にでも置いてください。
 王子に届けることはきっと叶わないでしょうが、それでも私は、ほんの少しの可能性に賭けたいんです。
 ――こんなに後悔しているのに愚かなことだと思いますか? そうですよね。でもどうかお願いします。死にゆくもののわがままだと思ってください。
 あなたは優しい方ですね、どうもありがとうございます。ほら、見張りが戻ってこないうちに早く外へ。
 おかしいですよね、私のような動けないものに対しても、形だけそういった見張りの人間がいるんですよ。そんなことをしなくてもどうせ逃げられないというのに、笑ってしまいますよね。
 さようなら、どうかお元気で。本当にありがとうございます。私もこれで眠れます。ゆっくりと、いつまでも。きっと楽しい夢が見られるでしょう。

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