薄鈍色のパラダイム

プロローグ

「見つけた。こんなところに、こんな近くにいた」
 今はもう使われていない雑居ビルの屋上から、私は前方を見下ろした。突然降り出した雨に濡れ、癖のある髪はさらにうねり、頬に首元にと張り付いている。寒い。冷たい風が吹きすさぶ中、こんな場所に立つなんて馬鹿のすることだ。でも私はその場を動かず息を潜めていた。ろくに瞬きもできない。
 目の前にある小さなビルの屋上に、二人の男がいた。一人は短い上着を羽織った筋肉質な男で、もう一人はダークグレーのスーツに身を包んだ男。雨足が強まるのも気にすることなく、彼らは屋上で話をしていた。雨音のせいで会話は聞こえないが、その表情から重大な何かであることは予想できる。
「ソウト……」
 私はそっと、もう二度と会えない弟の名を呟いた。ある日消えた弟が無残な姿で帰ってきたのは、つい一年ほど前のことだ。あれからずっと、私はその犯人を追い求めてきた。手かがりは玄関に落ちていた上着のみだったけれど、それでも探し続けてきた。
「あのコートは、絶対にそう」
 声になるかならないかという程度の呟きが、雨に飲み込まれていく。あの筋肉質な男が着ているのは、一見するとただの灰色のコートだ。
 けれども直に手にしてみれば違和感に気づく。とにかく異様に軽く、よく伸びる。それが防刃繊維でできているとわかったのはしばらく経ってからのことだった。あれはそこら辺で売っている物ではない。おそらくは特別に作られた物。
 ソウトの死に、あの二人がどの程度関与しているのかはわからない。しかし無関係ではないだろう。直接関わりはなくとも、そこからさらに犯人へと辿ることができるはずだ。私はついに、手がかりを見つけたんだ。たった一つのコートから見つけ出したんだ。
「見つけた、のに――」
 奥歯に力が入った。見えない糸を掴もうと必死になって、それでようやくそれらしき物を見つけたというのに。なのに少しも心が弾まない。それどころか喉の奥が痛いし吐き気がする。呼吸をするのさえ、意識しなければ止めてしまいそうだった。ずきんと痛む頭を叩きつけたくなる。けれども、大事なカチューシャが外れては困るのでそれは堪えた。
 かすかに目眩を覚えるのは、冷たい雨のせいだけではないはずだ。瞬きしても変わることのない光景に、握った拳が震える。
「あのコートは絶対にそう。ってことは、つまり、オキヒロも関わってるってこと?」
 弱々しい問いかけに答えてくれる者はいなかった。二人の男のうち、一方には見覚えがあった。いや、見覚えという一言ですむ話じゃない。彼と私は、幼い頃からの知り合いだった。
 アッシュブロンドに緑の瞳の、近所に住む優しいお兄ちゃん。それが私が彼に対して抱いていた印象だ。宿題を手伝ってくれる、迷子になったソウトを一緒に捜してくれる、頼りになる存在だった。数年前に、何の前触れもなくいなくなるまでは。
「まさか、ねえ、本当なの?」
 声がかすれる。頭痛がする。大声を上げたくなる。そんなことをすればこの距離でも見つかる可能性があるのに、今すぐ叫び出したかった。
 オキヒロが突然いなくなったことは、ソウトの死と関係あるんだろうか? その後どうしているのかとずっと心配していたけど、もしかして二人は何か事件に巻き込まれていたんだろうか? そのせいで私は家族を失ったんだろうか? わからない。わからないけど、嫌な予感ばかりがして悪寒が走る。
 私はゆっくりその場に膝をついた。寒い。震えが止まらない。オキヒロたちが話を終えたのを見ても、なお体は動かなかった。追いかけなければならないのに、足に力が入らない。
 こんなに弱かったのかと舌打ちをしようとした瞬間、右手がフェンスに触れて激痛が走った。――まさか。私は恐る恐る右の腕へと視線をやる。何の変哲もないように見えるのに、指先を動かそうとするだけでまた電気でも流れたような痛みに襲われた。複雑神経ブロックの効果が切れ始めていた。筋肉の悲鳴は徐々に全身へと広がるだろう。
 両膝をついたまま、私はもう一度屋上を見下ろす。話を終えたオキヒロは一度周りを見回すと、私には気づかず階段へ続くだろう扉へと身を滑らせた。その後ろを、灰色のコートを着た男がついていく。小さなビルの歪んだ扉が、風に吹かれて勢いよく閉まった。それでもその音は、私の元まで届かない。
「あぁ」
 行ってしまう。でも追いかけられない。雨に濡れた華奢な服が、その重量以上の力で私の体をこの場へと縫い止める。何かに引きずり下ろされるように、私は座り込んだ。だるくて寒くて凍えそうだ。
 視界がかすんでいるのは雨のせいだろうか? それとも今までごまかしていた疲労を意識したせいだろうか? 何にせよ、もうしばらくここを動けそうにない。
「せっかく、見つけたのに」
 二人の姿が見えなくなると、私はきつく瞼を閉じた。その裏側に蘇った懐かしい思い出たちは、既に色を失っていた。

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