薄鈍色のパラダイム

第一話 「錆び付いた診療所」

 痺れた左腕を抱えて、私は裏口から診療所へと入った。かすかに残る消毒の臭いが鼻をつくも、慣れてしまったせいか不快感もない。みすぼらしい診療所の床は砂っぽく、所々罅の入った壁には何時ついたのかわからない染みがある。衛生面は最悪だ。それでも私にはここしかないから、何かある度にこうして訪れることになる。
 トウガはいないのだろうか? 耳を澄ましてみても人の気配はなかった。看護師も事務の人間もいない小さな診療所には、医師らしからぬ医師だけが住んでいる。それ以外の人がいるとなると、それはわけあり患者だ。ここにしか縋ることのできない者だけが、彼を頼ってやってくる。
 乾いた足音が狭い廊下に響く。くたびれた靴が砂を踏む嫌な感触がする。ぎこちないリズムに苦笑が浮かびそうになるのを堪えて、私は診察室を目指した。彼がいるとすればそこだ。といっても診察中ということはまずなく、その隅にある診察台で寝ていることの方が多いのだけれど。
「トウガ?」
 私は躊躇せず診察室の扉を開いた。案の定、彼はそこにいた。スツールに腰掛けたまま、診察台に突っ伏して眠っている。適当にハサミを入れただけの黒髪が、白いシーツの上に広がっていた。
 彼の手の先には、コピーした論文らしきものが束になって置かれている。また読んでいるうちに眠気に襲われたんだろう。ため息を吐くと、私はのろのろとその側に近づいた。そしてスツールの足を軽く蹴る。
 耳障りな金属音が室内に響いた。それでも落ちることなく器用に座り続けていたトウガは、顔だけを私の方へとおもむろに向けた。眉根を寄せて不機嫌なのを隠すこともせず、彼はゆっくりと上体を起こす。眠っていたのか疑わしいくらいに、寝ぼけた様子もなかった。
「……イブキか。相変わらず乱暴だな」
「じゃあ大声で名前でも呼んで欲しいの?」
「そんなことをしたらお前も困ることになるぞ」
「そうよ。だからしないのよ」
 伸びた襟足に指を差し入れ、トウガは皮肉たっぷりに口の端を上げる。でもそんな表情ももう見慣れた。私は机の前にあるもう一つのスツールに、断りなく浅く腰掛ける。
 別に蹴りたくて蹴ってるわけじゃあない。ただ私がここに来る時はどちらかの手が動かないことがほとんどだから、自然とそうなるだけだ。それは彼も知っているはず。でも私が言わないから、あえて指摘してこないだけだろう。そういう人だ。
「それで、今日は収穫はあったのか?」
 皺の着いた白衣を診察台の上に投げ置くと、トウガは妙な姿勢で固まった体をほぐすように肩を回す。私は垂れ下がった左手はそのままに、右手で一本に結わえていた髪を解いた。
 日に焼けてますます明るくなった茶色い髪が、数本指に絡みつく。それでも白いカチューシャは元の位置のままだ。心の準備もなくこれがずれると、かなりの吐き気に襲われる。『脳改造』の注意点の一つだ。
「収穫? 全然」
 首を横に振ると、肩から左手へと鋭い痛みが走り抜けた。思わず呻きそうになった私は、歯を食いしばると意識して深呼吸する。今日は特に無理をしたつもりはないのに、これだから苛立つ。
 彼が施した複雑神経ブロックの反動だ。いいや、正確に言うと違う。痛覚のみをブロックした状態で無理をしすぎたために、痛めつけられた筋肉が悲鳴を上げているだけだ。ブロックそのものの副作用というわけではない。要するに私のせいだ。
「またか」
「久しぶりにあいつの顔見れたと思ったのに、部下に邪魔されたわ。見失っちゃった」
 結果だけを簡単に説明すると、私はよれたショートパンツを叩いて砂を払った。トウガは嫌そうな顔をしたけど気にはしない。どうせこの診察室だって似たようなものだ。床に落ちればみな同じ。
「あの二人、いつも一緒にいるのよね」
 弟の死の真相を突き止めようと、私はずっと一人で歩き回っていた。そして手がかりから辿り着いた先にあったのは、一つの会社だった。表向きは医療機器の開発をしているが、裏では臓器売買を行っていると噂される会社。その真偽についてはわからない。ただ一つだけ、明らかなことがある。
「どっちが部下なんだか。あいつ、下っ端なのか偉いのかわからないのよね」
 グチグチ言っているとため息が漏れそうになる。わかっていること、それはその怪しい会社に幼馴染みがいるってことだけだ。数年前に突然姿を消したオキヒロが、何故かそこで働いていた。私と二つしか違わないから、今年で二十二歳。そんなに上の立場ではないと思うんだけれど、何故かいつも部下を引き連れている。
 まずは直接会って情報を仕入れたい。探りを入れたい。そう思っているのに、なかなか話ができそうな機会が得られなかった。本当はあの怪しい会社に直接潜り込めたらいいんだけれど、それは何度も失敗に終わっている。
 違法な会社だからだろう。一見普通の建物なのにそこかしこにセンサーが仕込まれていて、奥へと踏み込むことができなかった。複雑神経ブロックや脳改造のおかげで無茶できる体にはなってるが、だからといって超人になってるわけでもない。筋力増強剤も一時的なものだし、うかつなことはできなかった。
「だが、まだ若いんだろう?」
「そうだけど――」
「ずいぶんな出世だな」
 かすかに笑い声を漏らしながら、トウガはスツールに座り直した。そして私の動かない左手へと触れてくる。ぴくりと震えた指先に、また痺れが走った。この感覚は何度経験しても慣れない。痛みとは違う、例えがたい妙な違和感がある。
「まるで恋でもしているみたいだな」
 私の左腕をゆっくりと持ち上げて、トウガが瞳を細める。何を言ってるのかわからず私が首を傾げると、トウガは右の口角だけをつり上げた。鈍い感覚麻痺が残る手の甲を、トウガの指が確かめるように滑っていく。
「……恋?」
「追いかけて追いかけてようやく会えたのに、声を掛けることもできない、ってな」
「――ふざけないで!」
 思わず声を張り上げると、強く手を掴まれた。腕全体に鋭く痛みが走り抜け、喉の奥から引き攣った声が漏れる。それでもトウガは表情を変えることなく、静かに私を見下ろしていた。
「診察中だ、動くな」
「診察するだなんて言ってないじゃない。唐突なのはトウガの悪い癖よ」
「その必要があるのか? ただで診てやってるのに。それに、言わなくてもどうせわかるだろう」
 トウガの悪態に、私は何も言えなくなった。いや、その気になれば言うべきことは色々ある。でもそのどれもが無駄であることを知っているから口を閉ざした。お金を払っていないのは事実だ。ただ、その代わりに差し出しているものがある。果たすべき約束がある。
 その事実についてはトウガもわかっているはずだった。けれども、彼はそれを滅多に口にしない。忘れているのではないかと不安になるくらいに、ほのめかしもしなかった。
「無茶は大概にしろと言ってるはずなんだがな」
 口の悪さとは裏腹にトウガの指は優しい。そっと確かめるように触れて、それからなぞるように肌の上を這うその様は、彼の日頃の行いを知る者なら目を疑うことだろう。でもそれは彼の気遣いからくるものではないと知ってるから、私は何とも思わない。彼が欲しているのは私の子宮だけだ。私が健康な赤ん坊を産めたらいいんだ。
「無理はしてないわよ、今日は」
「いつもよりは、な」
 熱を帯びた左手から意識を引き離すように、私はそっと目を閉じた。それでも気怠さがますます強まるだけで、全く効果はなさそうだった。
 どうしたらいいのだろう。どうすればオキヒロと接触できるのだろう。大事な弟の死の真相を知る、ただそれだけのために何故こんな思いをしなければならないのか。
 つい鬱々とした感情に囚われそうになり、私は奥歯を噛み締めた。嘆いていても何も変わらないのはわかってる。できることをやるしかない。失ったものは、何一つ戻ってこないんだから。
「医者は何でも治せるわけじゃあないんだからな」
 誰でも知ってるような当たり前のことを、静かに、トウガは口にした。どんな顔をしていたのか、目を瞑った私にはもちろんわからなかった。

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