white minds 第一部 ―邂逅到達―

第一章「影の呼び声」4

「誰もいないな」
 傾きかけた陽が差し込む路地裏で、シンは立ち止まった。まだ夕刻には早いものの、建物が密集しているせいか、日中の暖かさは遠のいてしまっている。陰の内へと足を踏み入れたらなおのことだ。どことなく湿った空気が肌を撫で、不快な感情を引き寄せる。
「おっかしいわねぇ。ついさっきまで気配があったと思ったんだけど」
 足を止めたシンのもとへ、軽やかな靴音が近づいてきた。彼は耳の後ろを掻きながら、駆け寄ってきた女性――リンの方を振り返る。首を傾げながら眉をひそめた彼女の髪が、スカートの裾が、春を象徴する風に煽られる。緩く波打つ黒髪が上下するのを、彼女は軽く指先で押さえた。
「一歩遅かったってところ?」
「ああ、違法者どころか普通の人間もいないな」
 嘆息したシンの足下を、小さな袋が擦り抜けていった。リンは不審を露わにした表情で周囲を見回している。彼も彼女に倣って辺りへと視線をやった。人気のない路地裏には、空のペットボトルが転がっているのが目立つくらいだ。店の裏口と思われる扉はどれも固く閉ざされており、その前に置かれている錆び付いた自転車もしばらく動かした様子がない。
「技の気配も……残ってるって感じじゃあないわね。実際には使わなかったのかしら」
「本当にここであってるのか?」
 念のため、シンはそう問いかけた。リンが異変を察知したのはつい先ほどのことだ。買い物へ出かけようとした矢先に、突然彼女は「気を感じる」と言って走り出した。無論、彼もすぐに異様な気には気づいた。ただ事ではないのが明らかだった。
 技使いがただそこに存在しているという、そういう気配ではない。あれは技を使おうとする時の膨れあがり方だ。しかもちょっと水を出すだけだとか、傷を治すだけとか、そういったささやかな技ではない。他者に危害を加えるような、明確な意思でもって攻撃しようとする類の、強い技の兆候だ。そんなものを使おうとする違法者などいるはずないが、いるのだとすればシンたち神技隊は見逃すわけにもいかない。
「ちょっとシン、私の感覚を疑ってるの? 間違いなくこの辺りだったわ」
「隣の路地は?」
「さっき見てきた。誰もいなかった」
 だから慌てて駆けつけてきたのに、これはどういうことなのか。人が集まるような騒ぎになっていないのは幸いだが、腑に落ちない。ここまで静かなのは変だと、シンは首を捻った。
「まるで人払いでもしたみたいだな」
 自らが口にした言葉に違和感を覚え、シンは思い切り眉根を寄せた。妙に背筋が冷たくなる。リンは辺りを見回しながら「そうね」と同意を示してきた。誰もいないというのも妙なのだ。大通りほどではないが、仕事だのなんだのとこの道を通り抜けていく人間もいるはずだろう。早朝や真夜中というわけでもないのだから、無人というのも不思議だ。
「確かに、この静けさは変ね」
「誰か結界でも張ってたとか?」
「そういう気配はなかったわね。もし私たちに気づかれないよう密かに張ってたんだとしたら……手練れとかそういう範疇じゃあないわよ」
 リンは心底嫌そうに顔をしかめた。シンも同感だ。そんな違法者が存在するなど想像したくもない。考えると悪寒がする。
 彼らが神技隊に選ばれこの無世界に派遣されてから、三年目に入った。今まで捕らえてきた違法者の中にそんな強者はいなかった。そもそも、派手なことをしようとする違法者は極めて稀だ。彼らはひたすら神技隊に見つからないように、ひっそりと暮らしていきたいのだ。生活を楽にするために技を使うことはあっても、騒ぎを起こそうとすることはまずない。神技隊に見つかった際、技を使ってでも逃げようとすることはあったが。そういう例外を除けば誰もが人前で技を使うことは避ける。
 では、神技隊に気づかれないよう大技を使う者がいたら? それができるだけの実力がある違法者がいたら? 考えるだけでおぞましいが、可能性は限りなく低かった。何故なら、現在も活動している神技隊にはあの元ヤマトの若長までいるからだ。それ以上の実力者が無世界に飛び出したのだとしたら、さすがに『上』も警戒しろと連絡してくるだろう。
 シンは「そりゃそうだな」と相槌を打った。もっとも、秘密主義の上が何らかの理由でそういった情報を隠匿していたのだとしたら、話は別だ。そんなことはあって欲しくないが。――そこまで思考したところで、シンはますます顔を曇らせた。否定できないところが悲しい。目の奥がずんと重く感じられた。
「そんな奴がいたら厄介だけど。まあ、警戒しておくことに越したことはないか」
「同感」
 ため息混じりのシンの言葉に、リンは微苦笑しつつ頷く。油断すると痛い目を見ることは、彼らもよく理解していた。「あり得ない」なんてことはない。この無世界では、彼らの常識が通用しないことばかりだ。丸二年以上ずっと翻弄されてきた。技のない世界の文明には喫驚するばかりだ。
「……ん?」
 念のためもう一度辺りを見回ろうか。そう思案した次の瞬間、シンは二つの気配を拾った。彼らの方に近づいてくる技使いの気。隠れようという意識の見えないそれらが、大通りからこの路地へと向かってきている。近づいてくる速度を考えると走っているのだろう。今シンたちは特に気を隠していないのだから、違法者がわざわざ近づいてくるというのも妙だ。
「おいリン、誰かが――」
「ジュリ!?」
 異変を感じ取りシンが口を開くのと、リンが声を上げるのはほぼ同時だった。勢いよく振り返った彼女には、彼の言葉など耳に入らなかったらしい。彼は首を傾げながら、彼女の視線の先へと目を向けた。二つの『気』がやってくる方向――曲がり角の向こうから、足音が響いてくる。
 姿を見せたのは、男女二人組だった。二人とも長身だ。緩やかに波打つ赤茶色の髪の女と、短い銀髪の男。服装はその辺にいる若者といった感じだが、男の髪色がここらでは珍しい。しかし何より二人から放たれる気が、ただの人間ではないことを如実に表している。
「リンさん!」
 女の方がリンの名を呼んだ。知り合いなのか。ということは、彼女の名前が「ジュリ」なのか? シンは説明を求めるように、隣にいるリンへと双眸を向ける。右手を振り上げたリンは、今まで見たことがないような満面の笑みを浮かべていた。
「ジュリー! 久しぶりっ!」
 男女二人がシンたちのもとへ駆けてくる。微笑みながら寄ってきた女性――ジュリを、リンは思い切り両手で抱きしめた。ジュリの方が身長が高い分、抱きついたと表現した方が適切かもしれない。リンの知り合いが違法者ということも考えにくいので、派遣された神技隊ということになるのか。見たところジュリも二十歳前後といった風体なので、リンの友人であっても不思議はない。
 そんな推測をしたところで、シンはもう一人の男の方をちらりと見やった。ジュリの後ろでおろおろしている男は、シンよりもさらに背が高かった。百九十近くはあるかもしれない。がっしりとした体躯には不釣り合いである、不安そうな表情が印象的だ。彼もこの状況についていけないらしく、何度もリンとジュリを見比べている。
 いつになったら説明が聞けるのだろう? シンはもう一度周囲の気配をうかがった。だが他の人間が近づいてくる様子はなく、風が悲鳴を上げるばかりだ。するとリンの手が緩められ、長い抱擁が終わった。顔を上げたジュリが大きく頷く。
「はい、お久しぶりですねリンさん」
「ジュリも神技隊に選ばれてたのね」
「そうなんです。この春から派遣されました」
「この春? じゃあ来たばかりじゃない!」
 再会を喜ぶ会話が狭い通路に響く。派遣されてきたばかりということは、第十九隊か。シンたちは第十七隊であり、通称スピリットと呼ばれている。どの隊にもこの通称はついており、わかる人にだけわかる暗号めいた扱いとなっていた。彼は各々の意味について詳しくは知らないが、古語の一種だと聞く。
「おい、リン」
 このままではいつになっても説明が得られそうにないと、シンは仕方なく声を掛ける。そこでようやく我に返ったらしく、振り返ったリンは照れ笑いを浮かべた。いつもならもう少し早く気がついてもよさそうなものだが。
「ごめんごめん、つい懐かしくて」
「知り合いなんだな?」
「そう。ジュリっていうの。後輩ってことになるのかしら? ウィンでずっと一緒だったのよ」
 シンへと向き直ったリンは、そう簡潔に紹介した。ジュリはわずかに微笑んで軽く頭を下げる。神魔世界でもウィンは比較的技使いが多い地域だと言われていたから、同郷者が神技隊に選ばれていてもおかしくはないのか。
「第十九隊ピークスのジュリです。よろしくお願いします。えっと、彼も同じくピークスのコブシです」
「よ、よろしくお願いします」
 ジュリの挨拶に続いてようやく、始終おどおどしていた男――コブシが声を発する。第十九隊の通称はピークスというらしい。それにしてもコブシは人見知りする性格なのだろうかと、シンは内心気の毒に思った。それでは神技隊としてやっていくのも大変だろう。見知らぬ世界、異なる文化の中、その世界の人間であるかのように振る舞うのは骨が折れる。度胸とはったりも必要だ。
 シンもどちらかと言えば見知らぬ人と馴れ合うのは苦手な方だったので、初めのうちはとにかく疲れた。リーダーとしての責務も重荷だった。リンがいなければ疲弊しきっていただろうという妙な自信が、今も彼にはある。
「ところでリンさんがここにいるってことは、あの技の気配に気づいたってことですよね?」
 そこでジュリが即座に本題へと切り込んできた。おっとりとした空気を纏ってはいるが、再会の高揚感にも飲み込まれない冷静さの持ち主らしい。「あの技の気配」と言ったところをみると、彼女たちも異変を感じ取って様子を見に来たのだろう。リンが頷くのを、シンは横目で見る。
「ええ。ってことはジュリたちもそれを確かめに来たのね」
「そうです。でもよかった、最初に合流できたのがリンさんで」
 ジュリは軽く頭を傾けると安堵の笑みを浮かべた。その言葉に何か含みを感じたらしく、リンが眉をひそめる。通常、神技隊はその隊ごとに行動するため、他の隊と顔を合わせることがない。一つの隊で仕事ができるようにと配慮された構成になっているからだ。怪訝顔のリンと目を合わせてから、シンは口を開いた。
「合流?」
「はい。実は上から他の神技隊と協力するようにって言われていたんです。そして、何かあれば公でも技を使ってかまわないと」
「……え?」
「嘘だろ?」
 とんでもない内容を告げたジュリへ、シンとリンはほぼ同時に疑問の声をぶつけた。聞き間違えではないかと、一瞬耳を疑った。公で技を使ってもかまわないとはどういうことだろう? それでは今まで何のために違法者を取り締まっていたのか? 問いかけばかりが浮かび上がり、次々と頭の中を回っていく。
「ちょっと待てよ、それって――」
「万が一の場合だって強調されましたけど。変な話ですよね。それじゃあどうして違法者を取り締まるのか……。でも何度尋ねても、上は何も答えてくれなくて」
 肩を落としたジュリは、ゆるゆると首を横に振った。不思議に思っているのは彼女も同様ということだ。上の秘密主義は相変わらずらしい。
「何よそれ、薄気味悪い。万が一って、冗談じゃないわよ」
 顔を曇らせたリンが小さくため息を吐いた。急に寒気を覚えて、シンはもう一度辺りを見回す。不安とは微妙に違うこの感覚を、どう表現したらよいのか。何か見逃している気配があるのではと、彼は精神を集中させた。彼にも感じ取れないような結界があるのか? いや、そうであればジュリたちは駆けつけてこられなかっただろう。では誰かが潜んでいる?
「本当ですね。嫌な感じです」
 ジュリが頷いた、次の瞬間だった。突然、上空から強い風が生じた。自然には生じ得ない、鋭い空気の動きだった。シンは咄嗟に後方へと飛び退る。その風が何者かが飛び降りてきたため生まれたと気づいたのは、技の気配を自覚してからだ。瞳を瞬かせたシンは、地面に片膝をついている青年を見下ろす。
「技、使い?」
 尋ねる声がかすれた。集まっていた四人のちょうど真ん中に飛び降りてきたのは、黒ずくめの青年だった。髪も瞳も黒のため、余計にその印象が強まる。挑戦的な笑みを周囲へと向けた青年は、手をひらひらとさせながら歯を見せた。肩ほどある黒髪が春の風に乗って揺れる。まじまじ見つめると、比較的端整な顔立ちをしていた。
「おうよ、技使いには間違いないな。そういうお前たちは神技隊か?」
 確認する青年の問いかけに、シンたちは誰も答えなかった。リンはシンのすぐ横にいる。同じく咄嗟に反応して後退したのだろう。ジュリとコブシは、謎の青年を挟んで向こう側にいた。尻餅をついているコブシの前でジュリが構えている。二人とも表情は険しい。
「黙り? ひどいねぇ。でもまあ神技隊ってのは何だとか聞き返してこないってのは、正解ってことだよな。無言は肯定ってね」
 ゆっくりと立ち上がった青年は、何度か首を縦に振った。神技隊ではないようだが、ただの違法者とは思えない。普通の違法者は神技隊を探したりしない。万が一という単語がシンの脳裏をよぎった。まさか今がその時なのか?
「おいおいおい、そんな怖い顔するなよ。なあ、ほらそこのお嬢ちゃんとか。可愛い顔が台無し。名前は?」
「まずは尋ねる前に名乗りなさいよ」
 青年の口調は軽薄だが、油断できない何かを含み持っている。いや、何よりもその気が警戒心を煽る。わざと怒気混じりの声を発したリンを、シンは密かに敬服した。普段の気を知るシンには、彼女が全く怒っていないことがわかる。この状況で即座に情報を取りに行く冷静さを見習いたい。
「つれないねぇ。オレはカイキだ。よーくお見知りおきを」
 再び青年――カイキはニヤリと笑った。ひらひらと振られた彼の右手に、力が宿るのがわかった。精神を集中していることが、気の膨れあがり具合で把握できる。まずい。カイキは技を使うつもりだ。シンは固唾を呑み、目だけで周囲を確認した。この狭い路地で技を使われたら、こちらも使わざるを得ない。広い場所なら何とかかわすことが可能だが、ここでは逃げ場がない。シンだけがどうにか避けたとしても、他の三人のうち誰かが餌食となりかねなかった。
「正気!?」
 カイキの手を見つめて、リンが声を張り上げる。カイキは何も言わなかった。片方の足に体重をかけ、へらへらとした若者を装った笑顔で、わざとらしく肩をすくめただけだ。ぐっとリンが息を詰めたのが、シンにも伝わってくる。彼女も技を使うつもりか? シンは向こう側にいるジュリたちの様子をうかがった。二人とも緊張した面持ちで成り行きを見守っている。
「さて、お名前。教えてくれるよな?」
「リンよ」
 この状況では黙り込むわけにもいかないだろう。カイキの問いかけに、リンは即答した。満足そうに頷いたカイキが、次はシンへと視線を向けてくる。楽しげな黒い瞳からは真意が読み取れない。シンは意識して声を落としながら口を開いた。
「シンだ」
「素直で結構。それで、後ろの二人は?」
「ジュリとコブシです」
 カイキの双眸が向けられる前に、ジュリが躊躇わずに返答する。その名前をカイキは何度か口の中で繰り返したようだった。名を確認してどうするのだろう? シンはいつでも飛び出せるようにと構えながら考える。
「人数多すぎなんだよなあ。覚えられるかなあ」
 掲げた手はそのままに、カイキは小さくぼやいた。シンは思わず顔をしかめる。四人で人数が多すぎという表現にもならないだろう。ということは、まさか神技隊全員を把握するつもりなのか? 探すつもりなのか? 現在主に動いている神技隊だけでも二十五人にはなるのに。
 万が一という単語が再びシンの脳裏を巡った。そんなことをしでかす度胸のある相手に、技を使わずに対処できる自信がなかった。喉の奥を固い唾が落ちていく。
「カイキ!」
 そこで不意に、上空から声が降り注いだ。若い男の声だった。名を呼ばれたカイキに倣い、シンたちも顔を上げる。カイキと同様に建物の上から飛び降りてきたのは、茶髪の青年だった。ふわりと着地したのは風の技を応用しているためだ。黒を基調とした服装からは、カイキと似たものを感じる。外に跳ねた髪をわしゃわしゃと掻きながら、乱入してきた青年は辺りを見回した。
「カイキ、またやってたのか」
「何だよネオン。用なら後にしろよ」
「伝言がある」
 乱入者――ネオンというらしい――の横顔を、シンは睨みつけた。普通の違法者とは思えないこの二人組は、一体何のためにやってきたのか? 「また」という表現も引っかかる。
「伝言?」
「まだ騒ぎを大きくするなって。派手にやり過ぎるなって」
「派手にって……まだ全然騒ぎにもなってないだろう。どこまでなら大丈夫なんだよ?」
「オレに聞くなよ。知らねーって。確認しとくか?」
 シンたちの存在など無視しているかのように、カイキとネオンは会話を続ける。どうやらこの二人に指示を出している人物がいるらしい。シンたちが黙り込んでいると、二人は顔を見合わせて苦笑し合った。静かな路地裏にその声が染み入る。
「せっかく遊べると思ったのになー。残念」
 そうぼやきながら、カイキはもう一度シンたちの方を見やった。本当に残念そうなのかそう振る舞っているのか、わかりづらい表情だった。何だか全てが演技くさい。だが確かに戦うつもりはなくなったようで、カイキの手から感じられていた気の膨らみが消えた。少なくとも技で応戦する必要はなくなったと、シンはひっそり安堵する。
「仕方ないか。それじゃあ神技隊、また今度な」
 カイキは逆の手を大きくひらりと振り、勢いよく飛び上がった。技を使っての跳躍だ。建物の屋根まで一足飛びしたカイキを、「待てって」と叫びながらネオンが追いかける。二人とも実に自然で躊躇ない技の使い方だ。シンはただ呆然と、二人が立ち去った方を見上げることしかできなかった。

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