white minds 第一部 ―邂逅到達―

第一章「影の呼び声」10

 息を呑む暇はない。体勢を立て直そうとした青葉の目の前へと、さらにレーナは詰め寄ってきた。まるで空気を踏み台にしているような軽やかな動きで、白い刃を振るう。
 慌てて青葉が張った結界は不完全だった。剣の余波をとどめることができず、胸元に圧迫感を覚える。それでもあえて後方へと飛んだおかげで、吹っ飛ばされて地面を転がることはなかった。勘で白い地面を探り当てた彼は、左手と片膝をついて着地する。
「勝負あったな」
 顔を上げた青葉の前で、レーナは立ち止まった。白い不定の刃が、彼の目の前にぴたりと据えられていた。固い唾が喉を落ちていく。完敗だった。先ほど肩に受けた衝撃の名残で、肌の上には不快な痺れも広がっている。どくどくと脈打つ心臓が痛い。耳の奥でそれがさらに響き、全身から一気に汗が噴き出した。
「この程度とは情けないな。弱い」
 余裕を感じさせる笑みを浮かべ、レーナは言った。勝ち誇るともまた違う、不思議な気を放っていた。あくまで穏やかなのだ。「青葉!」とまた遠くでアサキが叫んでいる。しかし青葉は答えることも動くこともできない。目の前に立ちはだかるレーナを睨みつけることも不可能だった。ただただ呆然とするしかない。しかし不思議なことに、彼女の刃がそれ以上動くこともなかった。
「強くなれ」
 笑顔を絶やすことなくレーナは言い放った。ついで、白い刃が瞬く間に消える。彼女が何を言いたいのかわからず、青葉は気の抜けた声を漏らした。
「……は?」
「いいから強くなれ。死にたくはないだろう? このままではお前たちは死ぬ」
 弱すぎて相手をしたくないとでも言いたいのか? だが青葉を見下ろすレーナの眼差しには、侮蔑とは違う何かが潜んでいた。それを裏付けるのが彼女の気だ。不甲斐ないと嘆き、嘲り、呆れる者の放つ気ではない。底の見えない黒い双眸を、ただただ彼は凝視した。
「強くならなければ何も始まらない」
 破顔したレーナは身を翻す。揺れる黒い髪、そして額に巻かれた白い布の端を、青葉は目で追った。「おいおいレーナ」と慌てるカイキの声が白い空間に響く。イレイの叫び声も続く。ちらりと左手を見やると、立ち尽くすアサキを置いてイレイが駆け出していた。ぽよんぽよんとした走りでレーナとカイキの方へ近寄っていく。
「ねえねえレーナ止めちゃうの? もういいのー?」
「今日はこんなところにしよう、イレイ。亜空間の方は成功したし。それに――」
「それに?」
「動きすぎるとまたアースに叱られる」
 レーナ、イレイ、カイキの後ろ姿を、青葉はただ見つめることしかできなかった。すぐに立ち上がることさえ、今は不可能だと思われた。ともすれば体から力が抜けそうになる。
 三人の姿が消えたと思ったら、視界がぐにゃりと曲がった。再び目眩と吐き気に襲われ、全てが白に覆われていく。青葉は額を押さえた。アサキの呼び声まで甲高い耳鳴りに掻き消される。頭が痛い。
 青葉は何度か瞳を瞬かせた。すると急速に、あらゆる色と音が戻って来た。耳鳴りが止んだと同時に風の鳴き声が鼓膜を振るわせる。彼はもう一度瞼を閉じ、開いた。そこはもう白い空間ではなかった。彼の目の前に広がっているのは覚えのある公園だった。首を巡らせれば見慣れた特別車、そしてテーブルと椅子が置いてある。亜空間から戻って来たのだろう。彼は静かに立ち上がった。
「何がどうなってるんだ?」
「青葉、大丈夫でぇーすか!?」
 耳を押さえた青葉へと、ふらふらとした足取りでアサキが駆け寄ってくる。まだ目眩でも残っているのか。おもむろに振り返った青葉は曖昧な笑みを浮かべた。左肩の痛みと痺れは残っているが、それ以上の傷はない。ただ動揺はしている。まだ脳裏には先ほどのレーナの笑顔がこびりついていた。
「ああ、それなりにな。アサキこそ平気か?」
「アサキは大丈夫でぇーす。レーナが戦い始めたら、イレイの動きも止まったんでぇーす」
 確かに、疲れた様子ではあるが、アサキの動きにぎこちなさは認めない。青葉は安堵のため息を漏らした。しかし弱いと言われた衝撃は拭い去られていなかった。いくら相手があの顔だったとはいえ、ほとんど手も足も出なかったのだ。
「レーナ、強かったでぇーすねぇー」
 青葉が唇を引き結ぶと、アサキがぽつりとそう漏らす。実感のこもった言葉に、青葉は首を縦に振った。技の使い方一つ取っても無駄がないし、何よりあの身のこなしは戦い慣れしている。腕力がなく体重も軽いことをわかった上での戦い方だ。
「それにしても、あいつの使ってた技は何系だったんだ? 見慣れなかったが」
 白い刃と小さな光弾を思い出して、青葉は眉をひそめた。いまだにこの左肩がじんじん痺れているのも変だ。動かそうとしても力が入りにくい。それどころか体全体もだるい気がする。雷系でも痺れるが、服も焦げ付くだろう。それとは違う。
「うーん、もしかしたら精神系じゃないでぇーすかねぇー? 梅花って確か精神系の使い手でぇーす」
 青葉が肩へと一瞥をくれていると、顎に手を当てたアサキがそう推測した。青葉は息を呑んだ。技には幾つか種類がある。炎系や水系などは、純粋にその名の通り炎や水を操る系統の技だ。その他にも土系、雷系、氷系などがある。それらの内に当てはまらないのは大抵補助系と呼ばれていて、身を守るための結界などが含まれている。しかしそれ以外にもまだ精神系と呼ばれる技が残っていた。使い手が少ないため、滅多に見る機会はないが。
「そういえば以前にさらりとそんなこと言ってたな」
 精神系ならば見慣れない技であってもおかしくはない。青葉は梅花が補助系の技を使うところくらいしか見たことがなかった。しかし、精神系の使い手というところまで同じなのだろうか? 見た目が同じだけでなく使う技の系統まで一緒なんてことがあり得るのだろうか? 彼は左肩を押さえながら呻いた。
 人がどうして技を使えるようになるのか、いまだわかってはいない。血のつながりとは関係ないと言われているので、親が技使いだからといってその子が技使いになるわけでもなかった。逆に、技使いのいない家系に突然技使いが生まれることもある。
 大抵は十歳になる前に技使いとしての頭角を現すが、どういった系統の技を得意とするのか、どの程度の力を身につけるようになるのか、全く法則性がなかった。無論、訓練だけで身につけられるようなものでもない。どんなに努力を重ねても、大人になってから技を使えるようになる人間はいなかった。
 だから、姿形が似ているからといって同じような技を使えるようになるわけがない。普通なら偶然一致していただけだと考える。ただし炎系や水系ならそれで納得もできるが、たまたま精神系の使い手になるなんてことがあるのだろうか? 疑問は増えるばかりだ。
「梅花が帰ってきたら聞いてみましょーう」
 気遣わしげなアサキの視線が痛かった。青葉は唇を噛んだ。亜空間なんてものを生み出すことができる、戦い慣れしている、精神系の使い手。レーナはその気になれば青葉を殺すこともできたはずだ。けれどもそうしなかった。しかも一般人に見られて騒がれるのを避けているようでもあり、その狙いがはっきりしない。
 一体、何が起こっているのだろう? 青葉は胸中で問いかけた。無論、誰が答えをくれるわけでもない。虚無感に襲われるだけだ。彼は額を押さえ、そのまま前髪を掻き上げた。汗の引いた肌に風の感触が心地よい。少しずつ焦燥感が鎮められていく。
「あ、青葉! アサキも! お前らどこに行ってたんだよ」
 沈黙が広がろうとした最中、背後からサイゾウの声が聞こえた。安堵よりも怒りの感情を強く滲ませた声音に、振り返った青葉は眉根を寄せる。まさか亜空間が生み出されたことにも、戦闘があったことにも気がついていないのか?
「どこにって――」
「受け付け放り出して急にいなくなるなんて何なんだよっ」
「つまり、これっぽっちも、全く、気づいていないんだな」
 眉尻をつり上げているサイゾウを見て、青葉はがくりと肩を落とした。サイゾウが気の察知に疎いとは決して思ってはいない。今までの生活でも、そう感じることはなかった。梅花のような異常な察知力こそ持っていないが、技使いとしてはごくごく一般的だ。そのサイゾウに気づかれずにあんな亜空間を生み出すだけの実力があるのだ。あのレーナには。
「は? どういうことだよ?」
「あ、サイゾウ! 青葉たち見つかった!?」
 サイゾウへと説明する気力を無くしていると、顔を輝かせたようが小走りで駆けつけてきた。ぽよんぽよんとした走りを見ていると、先ほどのイレイの様子が脳裏に蘇る。些細な仕草まで似ているのは不思議だ。体型による影響なのか?
「よかった! 何か変な感じがしたからちょっと心配だったんだー」
「……ようは気がついてたのか?」
 胸を撫で下ろしたように向かって、青葉は瞠目した。実はサイゾウよりもようの方が気の察知は得意だったのか。それは知らなかった。首を傾げるサイゾウに向かって、アサキが状況を話し始める。
「実は、今までアサキたちにそっくりな三人に襲われてたんでぇーす」
「どこで!?」
「亜空間でぇーす。成功したとか言っていたから今日初めて試してみたんだと思いまぁーすが。レーナとかいう梅花のそっくりさんが、そんなもの作ってきたんでぇーす。突然何も見えなくなったと思ったら連れていかれて。サイゾウたちも気をつけるでぇーす」
 口調こそ間が抜けたものだが、アサキが口にしたのは重大な内容だ。サイゾウとようは眼を見開く。もっとも、気をつけようがないことを青葉は実感していた。亜空間に引きずり込まれるのを防ぐ手立てなど思い浮かばない。せいぜいできるのは、単独行動はしないようにするくらいか。
「一人では動かない方がいいでぇーすねぇ」
「そ、それは梅花に言っておけよ。オレたちは買い物にだって一人で行くことはないだろう?」
 動揺を押し隠すように、サイゾウは苦笑しながらそう告げる。そしてちらりと青葉の顔を盗み見てきた。苦い顔をしていることを自覚しながら青葉は頷く。そう、一番忠告しなければならないのは梅花だ。しかし肝心の当人は今もまだ神魔世界に行ったまま戻ってきていない。
「……梅花、戻ってこないね」
 不安から寂しがる子どもの声で、ようが呟く。四人は誰からともなく空を見上げた。茜色に染まり始めた雲の流れが、やけにゆっくりと目に映る。青葉はため息を吐いた。
「ああ、もめてるんだろうな」
「まさかレーナたちのことで、梅花も疑われてるんじゃあ?」
「あり得るな。いや、それだけじゃあないかもしれないが。上だったら疑いながらも利用しようとするだろう」
 顔をしかめたサイゾウに向かって、青葉は相槌を打った。この一年ほどで、彼らの上への認識は変わった。以前から謎多き場所だとは思っていたが、それでもつつがなく日常を送る上ではなくてはならない存在だった。よくわからないが、全てを担ってくれている機関という認識だ。
 何か問題が生じた時も、長に伝えたらそこから上へと話が持っていかれる。そしてとりあえずの解決方法が提示される。中で何が行われているかはわからないが、何かあった時は助けてくれる。気にはなるが知らなくてもかまわないか、といった程度の認識だった。上には逆らえないと、皆は言う。しかし無茶な命令をされることもないため、さほど問題意識がなかった。希望が通らなかったり何かが制限されたりとたまに不満に思うことはあるが、大抵は代替の策が講じられる。
 ただし、神技隊という存在だけは違った。自分の身に降りかかるまでは遠い世界での出来事だったが、ヤマトの若長が招集されてからは話が変わった。何に役立っているかわからない存在に、実力のある技使いまで選ばれてしまう。疑念が生じざるを得なかった。しかも梅花から内情を度々小耳に挟むようになってからは、ますます不可解だと思うようになった。
「梅花、大丈夫かな?」
 ようの視線を感じて、青葉はかろうじて微笑を浮かべた。首を縦に振ることはできない。上にとって梅花はなくてはならない存在らしいが、同時に手を余している部分もあるらしい。上は常に、彼女が手中にあることを確認しようとする。この一年間でも何度か『尋問』を受けたと聞いたことがあった。上は彼女に無茶な要求を飲ませることで安心し、同時に余計なことをする暇を与えないようにしている。
「便利な道具でいろってか」
 小さく青葉はぼやいた。口の中だけで響くような声量に抑えたが、苦々しさは押し殺しきれなかった。けれども一方では、そんな彼女を派遣するほどに切羽詰まっている状況についても思考が及ぶ。今まではそれが不思議でならなかった。しかし春からの異変を考えると、これを予期していたのだとしたら話は別だ。
「梅花、早く帰ってくるといいね」
 願いのこもったようの言葉に、青葉は頷く。サイゾウもアサキも静かに同意を示した。今の彼らにできるのは祈るくらいだ。
 しかし彼らの希望が叶うことはなく、その日彼女は帰らなかった。翌日も、翌々日も戻らなかった。

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