white minds 第一部 ―邂逅到達―

第五章「打ち崩された平穏」1

 やや薄暗い室内では、天井で明滅する光に合わせて床が輝いている。否、床そのものではなく散らばった硝子の破片だ。今し方男に踏みつけられ粉々になった瓶の欠片が、青黒い床に散在している。
 部屋の片隅には男が立っていた。危うげでひょろ長いという印象を与える、黒衣の男だ。その縮れた朱色の髪には、所々血のような赤い色が混じっている。そういった色の違う一束を無造作に指に巻き付け、男は笑った。どこか不安定な声が、無機質な壁や床で反響する。
「聞いたよ。君の予測通りだった」
 瓶の名残をとどめていた唯一の一片を、男は強く踏んだ。ぱきんと甲高い音と共に、それは輝く粒子と化す。霧のような白い光の残渣が、長い足を包むよう微かに揺らめいた。それでも男は足下を一顧だにせず、隅に置かれた黒い箱に手を置く。長い上着の裾がたおやかに揺れた。
「素晴らしい。あいつの動きが止まったみたいだね」
『――はい、そのようです』
「何かあったのかな?」
『今、調べさせているところですが。情報はまだ何も』
「そう、急いでね」
 室内にいるのは男のみだ。彼は目の前にある箱に向かって話しかけていた。黒々とした画面は何も映していないが、その脇にある五つの点が不規則に点滅している。時に青く、時に赤く、白く。箱から声が響くと、光は強くなる。
「止まった振りかもしれない。ここは慎重にいかないと、僕らも危ないよ」
『心しておきます』
 箱から神妙な声が返ったことに満足した様子で、男はくつくつと笑った。指に巻き付けた髪を解放すると、それはくるくると捻れながら生き物のように踊る。機嫌良くした男は、リズミカルに靴を鳴らした。
「素直で結構。君のその姿勢は好ましく思うよ」
 大きく首を縦に振り、男は元々細い瞳をさらにすがめた。そして黒い箱の側面を撫でる。『はっ』とだけ返ってきた声の主の顔を想像した男は、ついで緩やかに頭を傾けた。同時に、ぴたりと靴音も止んだ。
「ところで、誰かが僕の罠に引っかかったっていう噂を聞いたんだけど」
 男は歓喜の予感に身を震わせながら、声だけは冷静に聞こえるよう繕った。この機械越しでは気が伝わらないことは、よく知っている。悔しいほどに理解していた。伝達できるのは音のみだ。だから偽るのは声だけでいい。
『罠、ですか。どの罠のことでしょうか?』
「嫌だなぁ、あれだよあれ。ほら、あれ」
『はぁ』
 困惑する声に、男は笑みを深める。そして何も映さぬ黒い画面に手のひらで触れた。徐々に熱を帯びつつある金属の固まりは、少し力加減を間違うだけで壊れてしまいそうだ。実際、何度もそうしてしまったことがある。繊細なものは弱い。弱いが、感度は高い。
「君の弟が関わっていた奴」
 たっぷり間をとってから、男は悠々と答えた。反応は、すぐには返らなかった。この場に声の主がいたら、放たれた負の感情が美味しくいただけたことだろう。その純度を想像するだけで、男の心は晴れた。そして同じくらい、この場に一人きりであることが残念に思われた。それもこれも『あいつ』のせいだと、機械には届かない程度の声量で男は独りごちる。
『……それは、初耳です』
「そう。君の耳には入らないように、みんな配慮したのかな。誰かが引っかかって、でも強引に罠を破って逃げたみたいだね。僕も詳細は知らないんだ」
 男はわざと申し訳なさそうな声音で告げた。相手が知りたがっていないことを把握しながらもなぶるようなこの行為を、一体何度咎められたことだろう。男は指折り数えてみたい衝動と戦った。
 負の感情を求めるなら、別の者からにしろと、部下を苦しめるなと幾度となく忠告されてきた。それでも男は止めない。そこらにいる小物の感情など美味しくもない。清らかで、精錬された、強い感情を、男は求めている。相手が部下であれ、放つのが負の気であれ、純度さえ高ければかまわない。
 純度の高い正の感情など滅多に得られるわけがないのだから、こちらの方が効率的だろう。そう何度説明しても理解が得られないのが、男にとっては腑に落ちないことであった。人間相手には同じ理屈で能率を重視しているのに、と。感情に振り回され合理的な手段を投げ捨てる姿勢は、男からするとひどく愚かに見える。
 気で感情まで察知されないのをよいことに思考の海に潜っていると、ようやく黒い箱の光が明滅し始めた。
『そうだった、のですか。しかし、あやつは――』
「そう、君の弟が消えたのは、誰かが罠に掛かるもっと前のことだったね。期待していたのに残念だったよ」
 言い訳の機会も与えずに、男は微笑んだ。ぐっと息を殺す様子さえ、機械越しに伝わってくるようだ。満足した男は再びくつくつと笑った。それでも実際に空腹が満たされたわけではない。その事実を意識すると、男はいつも乱暴に頭を掻きむしりたくなった。
 一人きりでこんな部屋にいつまでも閉じこもっているのは不可能だ。早く誰かに会わねば。純粋な感情に触れなければ飢えてしまう。男は軽く目蓋を下ろし、口角を上げた。
「でも心配いらない。その分も、君が、頑張ってくれている」
 何の慰めにもならぬ言葉が部屋の中に響く。画面の横で、青い光が幾つも点滅した。時間だ。手を離した男は機械に背を向ける。翻った黒の長衣がばさりと音を立てた。
「頼むよ。そうでないと僕はいつまでもここから出られない」
 この声が届いたのかどうか、男は意に介しなかった。つい掻きむしりそうになった髪を片手で整えつつ、出入り口へ向かう。黒い靴に弾かれた硝子の破片が、壁にぶつかって跳ねた。男はその様を尻目に肩をすくめ、重々しい扉に触れた。



 歪んでいる空間を目にした時の、この得も言われぬ感覚は何なのだろう。目の前に立ちはだかるリシヤの森を見つめ、シンは眉根を寄せた。背筋を這い上がってくるぞくりとした悪寒は、生理的なものなのだろうか。目で捉えられる範囲でも薄気味悪い森といった印象だが、気を加えるとさらに嫌悪感が増す。また、どうしても以前の亜空間での出来事を思い出してしまい、ますます気分は重くなるばかりだった。あんな経験は二度とごめんだ。
「これが簡単な地図です」
 森を睨み付けていると、梅花から地図を手渡された。ちらと横目で見遣れば、彼女は各神技隊のリーダーに配り歩いている。
 リシヤの森の結界を修復すること。それが神技隊らに言い渡された任務だった。結界の修復と言ってもシンたちにその経験はない。しかし梅花の言葉によれば、結界を張る要領でいいらしい。ただし要所となる場所が存在するため、そこまで出向かなければならなかった。今の問題はそこだ。森の入り口でたたずんだ神技隊らは、ただただ不穏な森を眺めている。夜が明けたというのに厚い雲が張り出しているため、辺りは薄暗い。
「ただし、先日森に入った印象ですと、ほとんど役に立ちません。空間の歪みはいっそうひどいことになっているみたいです。先ほどの説明の通り、目印代わりになる装置が置いてあるので、それを目指してください。ある程度近づけば気が感じられると思います」
 ラフトと滝に地図を手渡したところで、梅花は森を背にするよう振り返った。淡々とした口ぶりと感情の見えにくい表情からは、この事態を彼女がどう思っているか判然としない。それでも快く受け入れていないことは、気からかろうじて察せられた。
 一方、彼女を見据える他の神技隊らの思いは容易に読み取れた。強制的に集められた段階でも胸中は複雑であったが、押しつけられたのが難題であることで、ますます拒否感は強まる一方だ。どうしてこんな事態に陥っているのか、シンも誰かに説明を求めたくなる。もっとも、だからといってこの場で彼女に問うても意味はないのだが。
「ある程度って……それまでは行き当たりばったりってことか?」
 梅花の手前にいたラフトが不機嫌な声を出す。癖のある銀の髪をがしがしと掻く手には、苛立ちが色濃く滲んでいた。ラフトは感情を隠さない類の人間だとわかっているので、この反応も予測範囲内ではある。だからだろう、頷く梅花の顔色は変わらなかった。ただし、その横にいる青葉は明らかに不満そうな目をしていた。「梅花を困らせるな」とでも言いたいのだろう。わかりやすい。
「そうなってしまいます。はっきり言って、かなり面倒な仕事です。一番奥にある地点には、先日森に入った私たちシークレットが向かいます。その手前右はフライング先輩、左はストロング先輩に。入り口傍右手はスピリット先輩、左手はピークスにお願いしたいと思いますが、正直言って近くの地点だからすんなり辿り着けるというわけでもなさそうです。隊ごとに行動して、決してはぐれないでくださいとしか言えませんね」
 地図に描かれた地点を指さしながら梅花はそう付言する。いっそう気持ちが折れそうになる話だ。シンとしては、サツバがいつ文句を言い出すのかと気が気でなかった。神魔世界に連れてくるだけでも一苦労だったことを考えると頭が痛い。
「何だラフト。怖じ気づいたのか? ゲームみたいで面白そうじゃないか」
 だがそこで、空気を変える一言が放たれた。ラフトの横で腕組みしていたゲイニだ。前髪ごと整髪料で固めたような髪型が特徴的な、一見すると強面の男。彼の発言に、苛々していたラフトの顔が一瞬引き攣る。纏う気すら変化したように思えた。ラフトは勢いよくゲイニの方を振り返り、まなじりをつり上げる。
「何だって?」
「勘と気だけが頼りのゲームなんて面白い。まさかラフト、自信がないのか?」
「そんなわけねぇだろ!」
 飛び散る火花までありありと目に映るようだ。睨み合う二人をシンが凝視していると、すぐ近くにいた滝が肩をすくめたのが視界に入った。「また始まった」と呟いたところを見ると、フライングではよくあることなのか。しかしそんな二人おかげで、後ろにいるサツバの怒りの気が萎んだのは確かだ。毒気が抜かれたのだろうか。シンにとっては幸いなことだった。
「もちろん、誰よりも早くオレが見つけてやる」
「おう、望むところだ」
「あの……先輩たち。競うのはかまいませんが、離ればなれにならないでくださいね」
 対峙するラフトとゲイニを見上げて、梅花が小声で忠告した。この二人なら、いきなり別の方向に走り出してもおかしくないと思ったのだろう。その可能性はシンも否定できない。早くも前途多難な兆しだ。
「心配するなって。任せておけよ」
 ラフトは笑って片目を瞑った。その清々しさは逆にこちらを不安にさせる。しかしあからさまに疑ってかかるわけにもいかず、梅花は曖昧な笑みをたたえ相槌を打っていた。段々と気の毒になってきたシンは、珍しく黙ったままであるリンへ一瞥をくれる。普段ならそろそろ口を挟みそうな状況だが、今日は思案顔でじっと黙り込んでいた。
「それじゃあさっさと終わらせて休もうぜ」
 誰よりも早くと言わんばかりに、ラフトは意気揚々と歩き出した。ゲイニもその後に続いた。残りのフライングの面々も、仕方がないとばかりに前へ進む。最後まで渋い顔をしていたのは、フライングでは最年少であるカエリだ。短い髪を掻き上げて嘆息する後ろ姿は、早くも疲労の気配を纏っている。
「梅花、他に注意点は?」
 ついでフライングを追いかけようとした滝が、途中で思いとどまり振り向いた。その流れで、皆の視線がまた梅花へと集中する。彼女はやや考えるように小首を傾げ、おもむろに空を指さした。
「とにかく、困った時には空へ逃げてください。森の中の歪みは強いですが、抜け出てしまえば大丈夫です。歪みに巻き込まれて迷ったり消滅というのが恐ろしいですから、変だなと思ったら空へお願いします」
 梅花は真顔のままそう告げた。さらりと放たれた「消滅」という言葉に、シンの喉は独りでに鳴る。空間の歪みと聞いて先日の亜空間ばかり思い出していたので、危険性と言えばはぐれることくらいしか考えていなかった。しかし、そもそもリシヤの街が消滅したのはその歪みに飲み込まれたからというのが大方の予想だ。
 それでも怯むことなく「わかった」と頷いた滝は、颯爽と歩き出した。有無を言わさぬ背中だった。だからというわけでもないだろうが、ストロングの四人は何も言わずにその後をついていく。若長としての貫禄はそう簡単に失われるものではないらしい。そこはかとなく目映さを覚えて、シンは瞳をすがめた。あれはなかなか真似できるものではない。
「私たちも行きましょ」
 と、二の腕のあたりを軽く叩かれた。リンだ。半ば反射的に首を振りつつ横目で見遣れば、視界の端に彼女の笑顔が映る。気負った様子もないその表情を見ていると、躊躇したのが馬鹿らしく思えてきた。どうにかしなければならないことに変わりはない。妙な気配に注意を払っていれば最悪の事態には到らないはずだと、シンは自らに言い聞かせた。
「そうだな、行くか」
 続いてシンたちも森へ入った。だが皆一緒に行動していても意味がないので、すぐにストロングたちとは離れて右手へと向かう。陽光が乏しく森の中は薄暗い。また道らしいものが見当たらないため、適当に草を分け入っていかなければならなかった。生い茂る下生えのせいで地面も見えないので、足下には注意が必要だ。
「ひどいことになっているのねー」
 リンのぼやきを背中に受けつつ、シンは前方をねめつけた。ひたすら木々があるばかりだ。こんな場所をただ歩き続けるのかと考えると、早くも気が重くなる。しかも少しでも距離をあけるとはぐれる可能性があるので、五人で身を寄せるようにしなければならない。速度も上がらないとなれば、ますます時間は掛かるだろう。
 しばし、彼らは無言で進んだ。周囲の気配を探りながらだったが、怪しいところは見当たらなかった。目印となる装置もだ。事前に聞いた話では、太い木の幹に四角い箱状の物を取り付けたとのことだった。しかしそれらしい物は見つからない。首を巡らしながら歩いていると、段々どこへ向かって進んでいいのかもわからなくなる。やや開けたところで立ち止まり現在地を確認しようとしたが、鈍色の雲のせいで太陽の位置も掴めなかった。方角が正しいのかどうかも怪しい。
 やはり手当たり次第でも進むしかないと開き直り、彼らは再び歩き出した。
 不意にシンの服を引く手があったのは、それから間もなくのことだった。肘のあたりを引っ張られ、彼は肩越しに振り返る。すると浮かない顔をしたリンが、周囲へ視線を彷徨わせているのが見えた。サツバが先を行っているので急に立ち止まるわけにもいかず、シンは仕方なく速度を落とす。そして「サツバ」と呼びかけてから、リンに問いかけた。
「リン、何かあったのか?」
「えっと、見えたわけじゃないんだけど、あっちの方に、何か変な気配があったのよ」
 リンは右手を指さした。そう言われてシンも目を凝らしてみたが、特段変わった様子は見受けられない。生い茂る葉と伸びた枝の向こう側で、薄暗い闇が顔を覗かせているだけだ。しかし五人の中では彼女の感覚が一番鋭い。気のせいだとは片付けられなかった。
「何だ、またリンが何か感じたのか?」
 先を行こうとしていたサツバが、首を捻りつつ一歩下がってくる。シンは軽く頷いて、後方にいるローライン、北斗の顔を順に見た。二人とも気配を探るべく視線を巡らせているが、何かを見つけた様子はない。
「そうらしい。――その気配ってのは、今もあるのか?」
「うーん一瞬だったから今は……あっ」
 顔をしかめたリンの声が、不自然に途切れた。指さす方向をさらに右へとずらして、彼女は眼を見開く。そちらへ視線を転じたシンも、すぐさま瞠目した。ぐにゃり、という表現が一番適切だろうか。草木が曲がる。いや、曲がったのは視界の方か。
「なっ」
 一気にあらゆる感覚を浸食するような気の波動に、胃の底が持ち上げられたような違和感が生じる。歯噛みするシンの腕をリンが掴んできた。周囲が徐々に歪みながらぼやけていく光景は、瞬きをすることでは消えてくれない。

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