white minds 第一部 ―邂逅到達―

第五章「打ち崩された平穏」2

 一体、何が起きているのか。シンが奥歯を噛み締めていると、後方から呻き声が聞こえた。はっとして振り返れば、歪んだ世界の中で北斗が後ろに倒れ込もうとしているのが見える。その動きは何故だかひどくゆっくりとしていた。
「北斗!」
 咄嗟に声を張り上げるが、体は動かない。かろうじて一歩を踏み出すも、リンに腕を掴まれていることを思い出すと足が止まった。北斗は何か叫んでいるらしく口を動かしているが、シンには全く聞こえない。どうなっているのか。
 傾いだ北斗の体は、不思議なことに徐々に遠ざかっているようだった。その傍にいたローラインは、必死に北斗の体にしがみつこうとしている。そんな二人の姿が、まるで水の中から外を眺めているように揺らいだ。
 まずいと直感が告げた。このままでは完全に離ればなれになる。強く打つ胸の鼓動に合わせて、時間が流れていくような錯覚に陥った。シンは息を呑む。
「北斗! ローラインっ!」
 リンの叫びが鼓膜を揺らした。いや、そう認識すると同時に、彼女は動いた。シンの腕を掴んだまま、土を蹴り上げ大きく跳躍する。体格差があるのでさすがに引きずられるようなことはないが、それでも体勢が崩れた。想定していなかった衝撃に頭が揺れる。
「掴まって!」
 リンはあいている方の手を伸ばした。その言葉が届いたのかどうかは定かでないが、彼女の手に向かってローラインの腕が伸びてくる。無論、そんなことをしても触れられる距離ではなさそうだ。北斗とローラインの姿はさらに遠ざかっている。
「――え?」
 次の瞬間、シンは目を疑った。彼女の手の先がぐにゃりと曲がったと思った途端、その指先がローラインまで届いた。ついで、引きずられるような感触がシンの体を襲う。何が起きたのか理解できないが、こちらまで巻き込まれては意味がない。シンは慌てて足に力を込めて踏ん張り――それだけでは足りないと後方に倒れる勢いで体勢を変えた。そしてリンの体ごと引き寄せようとする。
 体中の筋肉が悲鳴を上げた。三人分の体重を支えるのは厳しい。歯を食いしばっていると、胴に腕が巻き付いてくる感触があった。その主に思考が及ぶと同時に、後ろへ引き倒される。
 あやふやな視界の中、木々が揺れ、緑の葉が散った。重なった悲鳴はどれが誰のものであったのか。あらゆる感覚が当てにならなかったが、それでもかろうじて伸ばした左手が地面を捉えたようだった。それを支えに、シンは転ぶことだけは避ける。
「ぐえっ」
 すると、すぐ傍で潰れたような声が漏れた。地面とは違う何かが下にあることに気がつき、慌ててシンは立ち上がろうとする。だがそれは能わなかった。視界が暗くなったと思ったら、シンの上に勢いよく三人の体がのしかかってくる。
 今度こそ、上体ごと草の上に倒れ込んだ。圧迫感のせいでうまく息ができない。深く呼吸をしようとすると、喉から変な声がこぼれる。体を捻ろうにも思うようにいかず、指先だけが何かを求めて動いた。引っ掻いた土が、爪の間に入り込む。
 仕方がなくシンは視線を巡らせようとし――そこで重要な事実を認識した。揺らいでいた世界がいつの間にか元に戻っていた。見上げた先には青々とした草と葉、曇天がある。どれも歪んではいない。
「シン、おい、足、足っ!」
 瞬きをして見間違いではないことを確認していると、脇からサツバの声がした。ちらと横を見遣ると、片膝を立てたサツバが顔を歪めて手をばたつかせている。そのもう一方の足先が自分の下にありそうだということを察し、シンは慌てた。けれどもやはり身動きは取れなかった。
「悪い、サツバ。退きたいのは山々なんだが」
「北斗さん、大丈夫ですか!?」
「あの、ちょっと、二人とも、重いから。早く、退いて」
 シンの詫びる言葉は、途中でローラインたちに遮られた。体にかかる重みが減ったことに気づき少しだけ頭を上げると、ちょうどローラインが立ち上がろうとしている様子が目に入る。彼はふらふらしながら北斗の両腕を引っ張ろうとしていた。二人とも動きはぎこちないが、一見したところ明らかな怪我はなさそうだ。
 体の自由が戻ってきたところで、シンは右手を胸元へ持ってきた。まず指先に触れたのは柔らかい髪。十中八九リンのものだろう。どうしたものかと思いながらも、彼はそのまま慎重に上体を起こした。そしてずり落ちそうになった彼女の肩を右手で支える。
「リン、大丈夫か?」
 先ほどの勢いを考えると、どこか捻ったか折れたかしていても不思議はない。間に挟まれる形となったリンの方が自由がきかなかったはずだ。のろのろと面を上げた彼女は顔を歪めていた。目尻には涙が溜まっている。
「大丈夫だけど、腕、変。何か、うまく動かない」
「おい、だったら不必要に動かすなよ。……北斗とローラインは?」
 唇を噛んでいるリンの肩をさすりつつ、シンはもう一度辺りを見回した。北斗とローラインは不安定な体勢で互いの体を支え合っている。どうも様子が変だ。サツバが足を引き抜いたのを確認しながら、シンは首を傾げた。
「二人とも大丈夫か?」
「それが、シンさん、どうも、酔ったみたいな感じがしてまして」
「オレは体の感覚が変なんだ。さっきは、全身がばらばらになるかと思ったし」
 口元を押さえたローラインの横で、北斗は虚ろな眼差しを彷徨わせている。どちらにしろ不安になる症状だ。まだ何か起こっているのかと周囲をうかがってみたが、先ほど見た光景は幻だったのではないかというほど、静かな森が広がっている。元通りのように思えた。
「今のがもしかして、空間の歪みだったのか?」
 かすかに喉が震えた。まさか巻き込まれるところだったのか? あの時リンの反応が少しでも遅かったらどうなっていたのか、考えたくもない。シンが顔をしかめていると、リンは怖々と頭を動かして少し距離を取った。彼がさすっていた手を離せば、彼女は恐る恐るといった調子で肩を上下させる。それから辺りを見回した。
「変な気配、いなくなってる」
 怪訝そうな声がシンの鼓膜を揺らした。地面に座り込んだリンがじっと見つめたのは、先ほど指さした方角だ。彼もそちらへ目を凝らしてみたが、何も見えない。気も感じられなかった。
「確かに、誰かがいたのよ。視界がおかしくなる直前に」
「誰か? 神技隊じゃあないのか?」
「うん。それも、一人じゃなかった。……普通の人間の気じゃなかった」
 一言一言、区切るようにはっきりとリンは述べる。その意味をシンが考えあぐねていると、横にいたサツバがのろのろと立ち上がった。左足に力を掛けないようにと気を遣った、不自然な姿勢だ。シンが下敷きにしたのは左足らしい。サツバは赤く染めた髪を掻きむしりながら口を曲げた。
「オレたち以外の、一体誰がいるっていうんだよ」
「さあ」
「気のせいじゃないのか?」
「それならいいんだけど」
 サツバの軽口には、虚勢が含まれているように感じ取れた。シンは一呼吸置くと、リンの体を支えつつやおら起き上がる。体のあちこちが軋んでいるような気がするが、錯覚と思うことにした。いつまでもここに留まっていたくはない。また同じような目に遭ってはたまらなかった。
「とにかくこの場から離れよう。それから怪我の確認だな」
 シンの提案に、異を唱える者はいなかった。再度慎重に辺りの気配を探ってから、彼らは揃って歩き出した。



 鬱蒼とした森の中を突き進んでいくと、一際大きな木が見えてきた。レンカの言った通りだと滝は感心する。遠目でも、巨木の幹に灰色の箱状の物が取り付けられているのがわかる。あれが目印となる装置だろう。滝たちが目指していた右手奥のものかどうかまではわからないが、他の神技隊は辿り着いてない様子なのでよいことにする。
「本当にあったな。さっすがレンカ」
「でしょうー。僕らのレンカはすごいんだよ!」
 つい歩調が早まりそうになるのを堪えていると、後ろで嬉々としたラフトとミツバの声が響いた。
 フライングとは、今し方何故か合流したばかりだった。途中で道を分かれて進んでいたはずなのだが、空間がねじれていたのか、それともどこかで進む方向を間違えたのか。フライングの『子守役』であるカエリが疲れた顔をしていたので、滝はひとまず一つ目の装置までは同行することにした。幸いにも、こうしてすぐに見つかった。
「これでもこの森で育った人間だもの。まあ、ずいぶんと様変わりしちゃってるけれど」
 滝の前を行くレンカが、振り返って微苦笑を浮かべる。彼女の言葉通り、記憶にあるリシヤの森とは別物になっていた。こんなに人を拒むような森ではなかったし、生き物も暮らしていた。下生えの長さもここまでではなく、もう少し歩きやすい小道が残っていた。彼女が神魔世界を離れて数年になるから、その間の変化なのかもしれないが。
「でも装置が見つかればこっちのもんだろ」
 すぐ背後から意気揚々としたダンの声が続く。つい先ほどまで歩き疲れてげんなりとした様子だったが、目的の物が見つかったことで気力を取り戻したらしい。滝は頷いた。運任せの任務であったが、どうにか完了させることができそうだった。帰るだけならば空へ上ればいいので楽なものだ。
 もっとも、そう油断した時に足下をすくわれることが多いので、気を引き締めなければならない。滝は上空へ一瞥をくれてから、もう一度周囲の気を探る。彼が知っていた頃のリシヤとは違い、どう頑張ってみても人間の気は感じ取れなくなっている。わかるのはすぐ傍にいる仲間たちくらいだ。「何かありそう」だと、装置の気配を察知したレンカは別格だと思った方がいいだろう。
 目指した木には、間もなく辿り着いた。真っ直ぐ天へ伸びる幹に、灰色の小箱が取り付けられている。これがよく見えたなと自分でも感心する程度の大きさだった。よく磨かれた金属質な表面が、光を反射していたのだろうか。日差しが降り注ぐような天気とも思えないが。
「これね」
 先頭にいたレンカが、装置の前にたたずみ腕組みをする。うーんと唸る彼女の長い髪が腰の辺りで揺れた。単なる金属の箱のようにしか見えないこれは、目印代わりでしかないのだという。設置した時についでに結界も補強すればよかったのではと思ったりもしたが、負担が大きいのだろうか。
「結界の要所って聞いてたけど、特に他の場所との違いはわからないわね」
 辺りへ視線をやった後、振り向いたレンカがそう言った。彼女にもわからないのであれば滝に感じ取れるわけもない。それでも「修復」はしなければならない。彼は周囲を見回し、全員が傍にいることを確認してから再度空を見上げた。木々の向こうに見える曇り空に、誰かが浮かんでくる様子はない。
「今のところ、大きく問題はなさそうだな。それじゃあ始めるか」
「そうそう! あのレーナたちが邪魔しにこないうちにねっ」
 滝の言葉に、鼻を鳴らしたミツバがそう続ける。無世界での言動にまだ腹を立てていたのか。苦笑した滝は、気合いを入れ直すために口元を引き締めた。ミツバとダンの賑やかな声を制するように、軽く右手だけを挙げる。
 だが次の瞬間、異変は生じた。何かを叩かれるような、いや、引き延ばされるような、そんな感覚が衝撃として襲ってきた。五感はもちろんのこと、あらゆる感覚に一気に押し寄せてくる「何か」。視界が突然黒く塗りつぶされたような錯覚に襲われ、滝は眼を見開く。
 あまりの情報量に「混乱」しているのだと気づいたのは、地に膝をついてからだった。少しでも頭を動かそうとすると、力任せに揺さぶられているような感覚に陥る。気持ちが悪い。誰かが何かを叫んだような気がしたが、内容までは聞き取れなかった。視界の中で明滅している光を追いやろうと、滝は一瞬固く目を閉じる。
 一体、何が起こったのか。触れた地面の手触りは普通であることを意識し、彼は瞳をすがめた。ゆっくり、できる限りゆっくり首を捻り、辺りの様子を目に入れる。ミツバはすぐ横で尻餅をついていた。目を回した様子で「うわぁ」と声を漏らし、口をぱくぱくさせている。この「異変」に襲われたのは滝だけではないようだ。
 ミツバの向こうにいるダンを見遣った時、ドサリと何かが落ちる音がした。それは逆側からだった。弾かれるように振り返った滝は、その拍子に目眩を覚えて額を押さえる。視界の中であらゆるものがとぐろを巻いていた。
「レンカ?」
 落ちたのではない、倒れたのだ。ぐにゃりと歪んだ視界の中でその事実を認識し、滝はよろめきながら立ち上がる。腑の底をかき混ぜられたとでも表現したくなる嘔気に耐え、彼は一歩一歩進んだ。瞳を瞬かせていると徐々に視界が正常に戻ってくる。やはり、地に倒れ伏しているのはレンカだ。ふわりと広がった茶色い髪が、白い上衣に覆い被さっている。
「おい、レンカ」
 傍まで寄った滝は両膝をついた。唇を引き結んで呼吸を整えると、慎重にレンカの肩を叩く。返答も反応もなかった。気を失っているのか? 動かしてよいものか躊躇っているうちに、その他の感覚も元に戻ってきた。背後では誰か彼かの呻き声が幾重にも折り重なっている。吹き付けてきた風に、彼の上着の裾が揺れた。
 そこまで把握できたところで、周囲の様子がおかしいことに気がついた。どこがおかしいのかわからないが、先ほどとは決定的に何かが違う。怪訝に思いながらも滝は再度レンカの肩を叩いた。だが、やはり身じろぎもしない。
「神技隊!」
 そこで、突然男の声が響いた。この呼びかけ、聞き覚えのある声はラウジングだ。そう思って精神を集中させると、装置のある巨木の向こうから一つの気が迫ってくるのがわかる。ついで、茂みの向こう側がわさわさと揺れた。
「ラウジングさん」
 茂みを掻き分けてラウジングが姿を見せた。混乱に一筋の光が差し込んだ心境になり、滝は少しだけ安堵する。しかし何故森の奥からやってきたのか? 湧き上がった疑問を、滝はとりあえず胸の奥にしまい込んだ。今はそれよりもこの現状の方が問題だ。立ち止まったラウジングは、周囲へ視線を巡らしてからレンカを見下ろす。彼の深い緑の双眸に宿っているのは疑問だった。滝は首を横に振る。
「何が何だかオレたちにも……。突然レンカが倒れて」
「歪みが唐突に修復されたと思って慌てて来てみたら、こんなことになっているとはな」
 肩を落としたラウジングはため息を吐いた。頷きかけた滝は、そこで聞き捨てならない言葉に気がつき瞠目する。歪みが修復された? はっとした滝は、先ほど感じた違和感の正体を理解した。ラウジングの言う通り、先ほどまで全ての感覚を狂わせていた空間の歪みがない。
「どういう、ことですか……?」
 戸惑いそのままに呟いても、ラウジングは頭を振るばかりだ。先ほどの異変は歪みが正された時のものだったのか? そうだとしたら何故忽然と元に戻ったのか? 動揺したまま、滝は静かにレンカを見下ろす。彼女はこの異変に巻き込まれたのだろうか? 彼らが感知していなかった何かに気づいたのか?
「ここに留まるのは危険だと思うんだが」
 そう囁いたラウジングは言葉尻を濁した。額に皺が寄ったのが、滝の目にも明らかだった。
「精神が乱れているな」
「……え?」
「あまり、よい状態とは言えない」
 歯切れの悪いラウジングの言い様に、嫌な汗が噴き出てくる。固い唾を飲み込むのにも苦労した。よい状態ではない、というのは具体的に何を意味しているのか。顔を強ばらせていると、背後からゆっくり近づいてくる足音がする。この気はホシワだ。大柄な彼がすぐ後ろに立つ気配があり、滝は肩越しに振り返った。
「ホシワ――」
「大丈夫か? 滝。顔色が悪いぞ」
 大きなホシワの手が滝の肩を掴む。こんな時、普段と変わりない落ち着き払った彼の言動には救われる。いつもそうだ。レンカに何かがあった時、一番力になってくれるのはストロング最年長のホシワだった。相槌を打った滝は、もう一度ラウジングの方へ向き直る。そして深呼吸してから口を開いた。
「精神が乱れてるとはどういうことですか?」
「私にもよくわからないが、気が不安定になっている。無理やり揺さぶられたような状態だな。リシヤの結界に影響を受けたのか……」
 ラウジングも困惑気味だ。落ち着かなさそうに辺りを見回す様を見ていると、あまり頼りにならない印象を受ける。滝は歯噛みした。歪みが正されたのであれば、目的は果たされたのだから帰るべきではないか? しかしこの状況のレンカを連れて帰れるのか。

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