white minds
第二十七章 生きるための力‐10
近づく限界を意識していないわけではなかった。忍び寄る小さな痛みたちが、体中を少しずつ浸食している。
でもまだ行ける。
レーナは口の端をかすかに上げた。自分の『本当の限界』を推し量ることくらい造作もないことだった。幾度となく越えてきた見せかけの限界、そしてその後にやってくる本当の限界――すなわち死、それを彼女は知っていた。
神も魔族も、精神で体を支配することができる。体はこの世界に存在するための、繋ぎ止めるためのものだったが、だがそれは『存在』そのものではなかった。『核』さえあれば生きていけるのだ。ただしそれが目に見える形でとは限らないが。
だから体の限界を知っていれば、無理はできる。
ラグナの剣をひらりとかわし、プレインの放った光弾をやりすごして、彼女は不敵に微笑んだ。戦闘が長引く程彼女が不利になることぐらい、この二人ならわかっているだろう。それ故渾身の一撃を狙っていることも、無論知っているはずだ。
だがそれでも二人は恐れている。
そのことを確信してるからこそ彼女は微笑み続けていた。得体の知れないものに対する恐怖は、判断を鈍らせる。
彼女の体を覆う薄紫色の光は、今は大分薄れていた。だがそれでもかつて『レーナ』として認識されていた少女とは思えない力が、そこにはあった。その理由がわからないだけに、二人の疑念と恐怖がぬぐいさられることはない。
「このっ、化け物娘が」
苦い顔をしたラグナの口から、憎々しげな言葉がもれる。彼女は笑みを絶やさず大きく飛び上がると、彼から後退した。いつもは冷たい表情しか浮かばないプレインにも、苦痛の色が見える。
「五腹心にそんな風に言われるなんて、光栄だな」
彼女の瞳に不可思議な光が宿った。不敵とも思える強さにも、儚さにも見えるその強い光はさらに二人の心にざわめきを生み出したようだ。
オリジナルたちが危ない。
だが実際、彼女はそのことを感じ取って内心焦っていた。ただそれを決して表には出さずに余裕を漂わせていた。
皆の体に負担がかかっている。転生神が皆動けなくなるのも時間の問題だ。だが弱みを見せれば負けるのも、限界を知られれば負けるのも、明白な事実だった。今最も強力な味方なのは、敵が抱く未知への恐怖なのだから。
だから彼女は悠然と構えていた。いずれ彼女自身にも限界が訪れるから、その前に決着をつけなければならない。しかし焦りを悟られてはいけなかった。歪んだ顔のラグナとプレインを、彼女は見据える。
その時強い風が一陣、彼らの間を吹き抜けた。そして突如、変化は起きた。
アルティードが動き出した!
レシガや青葉、梅花たちのいる方へと、アルティードが疾走するのがわかった。まるで世界が揺れるように、周囲に動揺が広がっていく。
今だ。
彼女は地を蹴った。
撤退を決意させるには、今しかない。
彼女は右手に白い刃を携えたままプレインへと向かった。一瞬気を取られていたプレインは反応が遅れ、その服の先を彼女の刃が絡め取る。
「なっ……」
「悪いなっ」
プレインの右腕を白い刃がかすめていった。だが彼がそう簡単にやられるわけもなく、その手刀が彼女の左手首を叩く。
鈍い音がした。けれども悲鳴もうめき声ももれなかった。見開かれた彼の瞳と、細くなった彼女の瞳が互いを捉える。
「ちっ」
彼は飛び上がった。灰色の髪をなびかせ茶色い双眸を歪ませた彼を、彼女は一瞥する。そしてすぐさまラグナの方へと向き直った。
今しかない。
彼女は心の中で何度も唱える。
今しかないのだから、何があっても動じてはいけない。その後どうなろうとも、かまわない。全てをかけてもいい。
ここを乗り切らねば、全てが無に帰ってしまうのだから。
ラグナの放った黒い矢が彼女へと迫った。だが彼女はそれを自由にならない左手で無理矢理叩き落とした。
彼は地を蹴り、黒い刃を手前に振りかざす。細かい軌跡を描くそれに、しかし彼女は臆することなく飛び込んだ。
「あ……」
二人の影が重なる。
生暖かい何かがしたたり落ち、青々とした草に染みを付けた。
「お前……」
懐にいる彼女をラグナは目を見開いて見下ろした。彼の刃は彼女の右脇腹を薙いでいた。そして彼女の右手が、彼の太い首へと伸びていた。
彼女はゆっくりと頭をもたげ、春の花のように微笑む。結わえていた髪がほどけ、強い風に乗って空を舞った。
「触れるだけでいいんだ、簡単だろ?」
そう言って彼女は、立ちつくす彼からゆらりと離れた。そしてそのまままるで怪我などないかのような足取りで歩き出し、次の目標を求めて視線をさまよわせる。彼が何も言えずに自分を見つめていることは感じ取っていた。だが彼女は振り返りはしなかった。
勝った。
ただその言葉だけを胸中でつぶやき、彼女は力の入らない足を進める。
核を凍らせる。
それは今のところイーストにしかできない芸当のはずだった。だが確かに彼女は触れるだけでラグナの核を凍り付かせた。核が凍り付いた魔族など、何もできない人間と変わらない。
彼女の目指す方には、ブラストがいた。そろそろとどめという状況で、その口元には鋭い笑みが浮かんでいる。
だが事態はラグナの声で一変した。切羽詰まった叫びが辺りに響いた。
「ブラストっ、気をつけろ!」
その叫びを背中に受けて、彼女は口の端をかすかに上げた。声を聞きつけたブラストが顔を強ばらせているのが目に飛び込んでくる。
もう誰も殺したくはない、殺させたくはない。
その思いを自分の内に再確認し、彼女は自嘲気味に含み笑いを浮かべた。無論それが叶わないことなどとうに知っているのだ。だがそれでも諦めたくはない。
「どうか、後ほんの少しだけこの体を世界に繋ぎ止めていてくれ」
白く歪んだ視界の中、体を貫く痛みに耐えながら、彼女は祈るようにそうつぶやいた。
巨大な海がその体を飲み込もうとしているのを、感じていた。
「あともうちょっとだったのに!」
ブラストの叫び声が辺りに響き渡った。苛立った毒づきは滝の耳にもはっきり届き、その異変を意識させる。
滝の横にはレンカが、そして目の前にはイーストがいた。イーストの横にはフェウスがたたずみ、その瞳をぎらぎらと輝かせている。
滝もレンカも疲労は限界ぎりぎりにまで達していた。顔色は悪く、呼吸をするのも苦しい程だ。
だがそれでも二人は事態が彼らを救わんとする方向へ動いていることに、気づいていた。ブラストが慌ててイーストの傍に降り立っても、その確信は変わらない。
ラグナから感じる気が極端に弱まっていた。けれどもレーナの気はいまだに衰えていなかった。それは彼女が勝ったことを意味しているに他ならない。
「イーストっ!」
「わかっているよ、ブラスト。君はラグナとプレインを連れて先に帰っていてくれ。私はレシガと一緒に後処理をすませる」
どこか泣きそうな顔をするブラストに、イーストははっきりとそう告げた。
撤退するのか?
滝の顔に安堵とほんの少しの驚きが浮かんでくる。まさかこうもあっさり決断するとは思わなかった。あともう一歩で転生神を殺せるというところで、引き下がるとは考えられなかった。
「死への覚悟の差が、生への覚悟の差が、こうさせたのか」
つぶやくイーストの横顔が切なげだった。それは何か辛い過去を思い出しているかのようにも見えた。滝は意識を張りつめながら、辺りに隙なく視線を泳がせる。
遥か遠くでも目立つレシガは、アルティードを前にたたずんでいた。悠然と大地に立つアルティードの側には、座り込んだ梅花と彼女を支える青葉の姿がある。
ブラストがやってきた方向からはシンとリンの気が感じられた。どうやら今はよつきやジュリたちと一緒にいるらしく、相手であるオルフェはどうするべきかと動きを止めているようだ。
やや離れたところにいるラグナはプレインとともに苦い顔をしている。
そう、ほとんどの戦闘が、一時中断していた。
ブラストの声と、イーストの宣言と、そして異変を察知して困惑が生まれていた。
皆が感じ取っていた、何かがおかしいのだと。
滝はゆっくりと振り返りその異変の中心を見据える。彼の視界に入ったのは、青々とした草原を微笑みながら近づいてくるレーナの姿だった。
いつもは一本に結わえている髪がほどけ、吹き荒ぶ風に揺られている。白い服も血と土で汚れていたが、しかしまとう気は厳かで儚い色を思わせた。
これが魔族たちを恐怖させた理由か。
滝は心の中で相槌を打つ。
「残念だけどね、ヤマト。私たちは一度戻らなければならないみたいだ。君たちにはまたすごい女神がついているのだね」
自分に降りかかった声に気づいて、滝は顔を上げた。空に浮かび上がったイーストが優雅に微笑み、彼を見下ろしていた。
「女神?」
「生きるということにこだわる、生と死を知り尽くした女神が。羨ましいね、本当に」
独りごちるようにそう告げると、イーストはそのまま音もなく飛び去っていった。向かう先はおそらくレシガのもとだろう。小さくなる背中を滝は黙って見つめる。
それから十分もたたないうちに、魔族その場から引き上げた。
残されたのは疲労しきった神技隊らと、夢うつつの心地だけだった。