ウィスタリア

第三章 第八話「使えるものであれば」

 再び雪がちらつき始めた。風こそさほど強くはないが、冷え込みは徐々にゼイツたちの体温を奪っていく。指先の感覚はもうとうにない。それでも彼らは小走りで庭の中を進んだ。柔らかい雪を蹴散らしながら聖堂の裏を抜け、ウルナたちの部屋の方へ駆けていく。
 途中、ゼイツは何度か足を取られそうになった。長いマント姿のフェマーも危うい足取りだった。ウルナとルネテーラはさすがといったところだが、それでも寒さのためか辛そうにしている。
 切迫感に襲われ、ゼイツは瞳をすがめた。強ばった手が痛い。そよ風さえ頬に突き刺さるようで、息を吸う度に喉の奥に違和感が生まれる。このままでは皆すぐに体力が尽きてしまう。早くクロミオを見つけなければと、心ばかりが先走った。
 だがウルナたちの部屋の裏まで辿り着くのに、そう時間はかからなかった。考えてみれば、このフェマーが走ってこられるくらいの距離だ。そう遠いはずもない。薄暗くとも開かれた扉から黒い煙が上がっているため、区別するのは容易かった。
 いや、それだけではない。立ち上る煙の向こうたたずむラディアスの姿を、ゼイツの双眸は捉えた。もう対応班を連れてきてくれたのか。早い。これで火は消し止められるだろうと、ゼイツは少しだけ安堵した。彼らの足音に気がついたらしく、ラディアスはやおら振り返る。
「ゼイツ! ウルナ!」
 疲れの滲んだラディアスの瞳に、ほんの少し活力が戻ってくるのが見て取れる。ゼイツたちはラディアスの方へと走り寄った。幸か不幸か、熱気を含んだ煙のおかげでその辺りはほんの少し暖かい。ただ黒々とした煙を直接吸い込むのは憚られた。黒煙の流れを避けつつ、ゼイツはラディアスの横に並ぶ。
「ラディアスっ、間に合ったのか!?」
「消火中だ。火の手そのものは大したことがなさそうだが、煙がひどくてな。何が燃えていたのかわからないんだが……どうも奥の棟にあった物ではなさそうな気がする。この燃え方はおかしい」
「何だって?」
 ゼイツは建物の方を仰いだ。扉から吐き出された煙の勢いは衰えることがない。今も行き場を求めて空へ立ち上っている。ちらついている雪も、その前では無力だ。しかし煙の割に火の手は見えなかった。黒々とした世界の向こうに、赤いものは見え隠れもしていない。
 ゼイツは再びラディアスへと視線を向けた。気難しい顔をしたラディアスの横顔には、懸念の色がある。何者かが侵入している可能性があるという話を、ゼイツは思い出した。まさか誰かが火をつけたのか? 何かを持ち込んだのか?
「クロミオは、やっぱりいないの?」
 言葉を失っている彼らの方へ、ウルナたちも近づいてきた。ラディアスは彼女へ一瞥をくれると、おもむろにコートを脱ぎ出す。火にも耐えられるようにという作りなのか、普段着ている物よりも重たげだ。分厚い深緑のそれを、ラディアスはウルナとルネテーラの頭に被せた。そして近くにフェマーがいることを確認しつつ、首を縦に振る。
「ああ、俺たちが来た時には部屋にはもういなかった。そちらにも?」
「いなかったの」
「そうか」
 頭を振るウルナを見て、ラディアスはますます沈鬱な面持ちとなった。ゼイツはそんな二人の様子を見守り、唇を噛む。最悪の状況ではないが、依然として一番気がかりなクロミオの情報が手に入らない。するとラディアスははっとしたように忽然と後ろを振り返った。跳ねる黒い髪を見つめ、ゼイツは首を捻る。
「ラディアス?」
「足跡も……真新しいのはなかったな」
「え?」
「俺たちが来たのはあちらからだ。クロミオが部屋を飛び出した時間は、そんなに前じゃあないだろう。なのにそれらしき足跡がなかった」
 ラディアスが指さしたのは、ゼイツたちが来たのとは逆方向だ。つまり、これから探そうとしていた所にあたる。いくら小さなクロミオの足でも、全く跡が残らないということはないだろう。風もそこまで強くはないし、すぐさま足跡を覆ってしまうほどの雪でもない。それではクロミオはどこに行ったのか? ゼイツは怖々と茂みの方へ目を向けた。まさか、この中を突っ切っていったのか?
「茂みを抜けたのかもしれないな。夏はよくやっている」
 ゼイツの思考を読み取るかのように、ラディアスが告げた。そうだとすると探し出すのは難儀しそうだ。この迷路のような庭の全貌をゼイツは把握していない。しかもこの雪だ。見つけられる気がしなかった。
「あの子……一体、どこへ行ったの?」
 震えるウルナの声が、ゼイツの胸を突く。答えを知る者はこの場にはいなかった。煙に驚いて外に飛び出したのだとすれば、正常な判断が働いていないのかもしれない。しかも比較的しっかりしているとはいえ、まだ子どもだ。想像もつかないような理由で走り回っている可能性もある。
「くそっ」
 ゼイツは思わず舌打ちした。途方に暮れてしまいそうだった。いくら雪に慣れ親しんでいるクロミオでも、何の用意もなく長時間放浪しているのは危険だ。おそらく、コートも着ていないだろう。感覚の鈍くなった指先を、ゼイツは見下ろす。
「これでは女神をあぶり出すどころか、縋るしかなくなりましたね」
 その時、ぼんやりとフェマーが呟くのをゼイツの耳は拾った。一瞬同意しかけ、しかし聞き捨てならない言葉に眼を見開き、ゼイツは勢いよく振り返る。フェマーはウルナたちの後方で、肩をすくめながら顎に手を当てていた。雪面を見つめる物憂げな表情からは、いつもの余裕が感じ取れない。
「おい、フェマー」
 呼びかけるゼイツの声が低くなる。聞こえているとは気づかなかったのか、それとも無意識だったのか。びくりと大きく身を震わせてから、フェマーは頭をもたげた。一瞬だけだったが、その瞳に浮かんだのは「まずい」という感情のように見えた。すぐに取り繕った笑みを浮かべたフェマーを、ゼイツは睥睨する。
「あぶり出すって、どういうことだ?」
「え、ああ、気にしないでください。言い間違いです」
「言い間違い? 何の言い間違いだよ」
「動揺していただけです、すみません」
「フェマー」
 鋭く、ゆっくりと、ゼイツは名を呼んだ。そして一歩一歩雪を踏みしめながらフェマーへと近づいていった。ラディアス、ウルナ、ルネテーラは動かない。その場にたたずんだまま、二人へと視線を送ってきている。ゼイツは頭に積もった雪を手で払いつつ、フェマーの前で立ち止まった。
「何を企んでるんだ? まさかこの火事もお前が――」
「ち、違いますよっ! 火事が起きたと思われる頃、ほら、ちょうどあなたたちと立ち話してたじゃないですか!?」
「ああ、あの時か。でも短時間だ。フェマー、関わってたことは確かなんだろう?」
 ゼイツの中で徐々に確信だけが強まっていく。フェマーは頻繁にクロミオと接触していたし、女神の話も聞いていた。クロミオの部屋がどこにあるのかも把握していた。珍しくも奥の棟で火事があり、しかもそこにあるはずもない物が燃えていたなら、誰かの意図があると考えた方がいい。
「クロミオをどこへやったんだ」
「し、知りません! 私だって知りたいくらいですよ! クロミオ君の部屋からは直接庭へ出られないものですから、まさかそちらに行くとは思わなくて……」
 慌てて首を横に振ったフェマーは、ついで大袈裟にうなだれた。この一言は決定的だった。今の言い様から推測するに、フェマーは火事の時、部屋から飛び出してくるだろうクロミオを待ち受けていたことになる。なるほど、それでしばらく待っても出てこなかったから、慌てて探し始めたのか。だからクロミオの部屋から外へ出たと説明したのか。
「フェマー」
「仕方がないんですよ! 使える力は全て使わなくてはっ。そうでなければ私たちは、この星は、終わってしまうっ」
 フェマーは顔を伏せたまま声を張り上げた。雪に反射して響いた言葉を、ゼイツは口の中で繰り返す。ニーミナでも、ジブルでもなく、この星。切羽詰まっているという一言を、再度ゼイツは思い出した。この追い詰められ方は尋常ではない。
「もう、ここまで言ってしまったから、正直に話しますが」
 諦念の声音でフェマーは続ける。ようやく事情を説明する気になったらしい。ゼイツが黙していると、ラディアスたちが少し近づいてくる気配がした。ゼイツはその方は振り返らずに、嘆息するフェマーを見つめる。
「もはや機密なんて言っていられる状況でもないかもしれないですしね」
 顔を伏せているため表情はわからないが、フェマーの口調には苦いものが滲み出ていた。ゼイツは何か口にしたい衝動に駆られたが、話を遮るべきではないだろうと唇を引き結ぶ。行き場を失った重い吐息が、喉の奥で冷たく震えた。
「実は夏頃から、ナイダートが宇宙より怪しい信号を受け取るようになったんです。はじめは信号ということさえわからなかったようですが、調べていくうちに気がついたそうです。それが宇宙船から送られたものであると結論づけられたのが、ちょうどゼイツ、あなたがジブルを出た頃。宇宙船はどうやら、この星へ向かっているようでした」
 俯いたままフェマーは話し出した。想像もしなかった単語が飛び出し、ゼイツは息を呑む。得体の知れない信号。そして宇宙船。単に宇宙船と聞くと穴の中で見たあの白い戦艦が思い浮かんだが、それとは全く異なる類のものだろう。他の星の技術力をもってしても、あれだけ古い物を難なく動かしているとは思えない。
 この星には、まともに動く宇宙船は残されていない。しかし他の星もというわけではない。技術の面でも資源の面でもまだ『外』の方が豊かだと言われてはいる。もちろん、現在の『外』の状況を知る者は、この星にはいない。だが数百年で目を見張るほど進歩している可能性は低かった。
「誰もが慌てました。けれども、送られている信号の解読ができなくて。仕方なくナイダートの古代機器を使い、こちらからもどうにか信号を送ってみたんです。しかしそれに対して返答らしきものはありませんでした。依然として同様の信号が送られてくるのみ。もしかするとこれは宣戦布告の証ではないか、もしくは降伏の勧告ではないかという見方が次第に強くなりました。そうでなくとも、こちらの話を聞くつもりはないのだろうと」
 フェマーは淡々と続けた。抑揚のない声音なだけに、内容が際立つ。ゼイツはつい空を見上げた。大きな雪がひらりひらりと落ちるこの空の向こうに、一体何が待っているというのか? その先に見たこともない宇宙船が存在するのか? 全く実感が湧かなかった。彼方に存在すると言われる宇宙というものさえ、彼には想像もつかない。
「我々が信号を無視したとみなされたら……事態は最悪な方向へと傾くでしょう。あちらの狙いはわかりませんが、まさか施しをくださるわけでもないでしょうし。どうして今になってこの星に目をつけたのかなんて知りませんが、何の理由もなく向かってくるなど考えられません。この星を得たとしても何の得にもならないとは思いますが、土地ならありますしね」
 またため息を吐いたフェマーへと、ゼイツは目を向けた。まさか多くの国々は、他の星がこの地球を侵略しに来ると、本当に思っているのだろうか? それこそまるでおとぎ話の中の出来事のようだった。恐ろしい宇宙船の到来に怯え、狼狽える人々の物語。
「しかし、私たちはただ待ち受けているわけにもいきません。少しでも交渉する機会があるなら、その時のために準備をしておかなければ。だから力が必要なんです。時間は、ないんです。少しでも早く、できることをやっておかないと。彼らがいつやってくるのかはわかりません。今日かもしれない、明日かもしれない、春かもしれない、次の冬かもしれない」
 吐き捨てられた言葉が雪面で跳ね返る。脱力しかけていたフェマーは、そこで静かに顔を上げた。ある一線を越えてしまった者のみが宿す鮮烈な光を、その双眸は宿していた。挑みかかるような視線を受けて、ゼイツは固唾を呑む。疑問は解けた。これでジブルやナイダートまでが焦っている理由がわかった。いまだゼイツには現実味のない話だが、前代未聞な事態ではある。
「使えるものであれば何でも使います。禁忌の力だろうが、女神だろうが何でも。手段を選んでいるような余裕なんてないんですよ。私は簡単に蹂躙されるつもりはありません。他国も同意見です。どうもカーパル殿には理解していただけないようですが」
 フェマーの言うことも、わからないわけではなかった。理屈も常識もどうでもよくなる瞬間というのはある。この星のためという大義名分があるならなおさらだ。しかし、本当にそれでいいのか? どこか間違えてはいないか?
 うまくゼイツが答えられずにいると、フェマーはふっと息を漏らした。何かを嘲笑うような苦笑には、普段見せつけている余裕がない。するとウルナが一歩、踏み出すのがゼイツには見えた。被っていたコートをルネテーラに預け、ウルナは頭を傾ける。
「そのために、クロミオを? 部屋を燃やしたのですか?」
 問いかける彼女の声は静謐であるのに、どこか有無を言わせぬ響きを纏っていた。フェマーは彼女を見やると、「私ではなく仲間ですがね」と答える。やはりフェマーはジブルから仲間を連れてきていたのか。胸の奥底に重しが増え、ゼイツは歯噛みした。すると彼の視界の隅で、ウルナが右の瞳を細める。
「どうして?」
「力を引き出すのには悲劇が必要なようですからね。クロミオ君はうってつけです。色々な意味で」
 開き直ったフェマーはそう告げて鼻を鳴らした。その言い様があまりにひどくて、ウルナが激高するのではとゼイツは焦る。しかし彼女は怒声を上げるどころか狼狽えもしなかった。ただ「愚かな人」とだけ囁き、微笑を浮かべる。不意に彼女が遠くなったように、ゼイツには思えた。彼女を包み込む空気そのものが希薄になる。
「愚かですか。それでも結構です。足掻けるのならば、いくらでも足掻く。それだけですよ。ああ、この危機に、果たして女神様は助けに来てくださるんですかねぇ?」
 フェマーは微苦笑を漏らしながら、煙を吐き出す教会を見やった。女神の力でも使うと言った割に、その実在を信じていない口ぶりだった。いや、そう見せかけているだけか?
 フェマーの胸中がゼイツにはわからない。ここで無闇にニーミナの人間を刺激してもよいことはないだろう。それなのにあえてそうするとは腑に落ちなかった。クロミオが見つからず気が立っている人々の前で、何故そんな言い方をするのか。
 ゼイツはどうにか口を挟もうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。何を言っても表面的なものとしか響かないように思えて、重いものが舌に絡みつく。周囲の様子をうかがうと、ウルナが悲しげに微笑むのが見えた。どこか哀れんでいるようにも、嘆いているようにも感じられる。ルネテーラは分厚いコートを頭から被っているため、表情ははっきりとしなかった。
「馬鹿なことを言うな。女神などいないと、皆わかっているんだ。都合よく助けてくれる女神などいないとっ」
 少しの間を置いて、まず反応したのはラディアスだった。それまで黙っていたラディアスが突然口を開いた。まなじりをつり上げるその横顔へと、ゼイツは一瞥をくれる。
 先日、同じことをラディアスは呟いていた。そうだ、誰が死んでも悲しんでも嘆いても、女神は助けてはくれない。それがニーミナの人間の認識だ。それでいて女神の名を呼ぶ姿は、ゼイツにとっては不可思議に映る。すると同じことを思ったのか、ラディアスへと顔を向けてフェマーは首を捻った。
「それでは何故、あなたたちは祈るのですか? 助けてくれないとわかっていて縋るのですか? それこそ愚かでしょう」
「それは女神の実在を信じているからです。そして女神の心を」
 答えは、思いも寄らぬ方向から聞こえた。それは煙を吐き出す扉の向こうから響いた。その場にいた全員が、一斉に建物へと目を向ける。先ほどよりも薄くなった黒煙が不自然に揺らめいている。ゼイツが瞬きをした次の瞬間、煙の向こうから人影が現れた。灰色の世界で、樺色の衣服がやおら浮き立つ。
「叔母様!?」
 姿を見せたのはカーパルだった。黒煙をものともせず、彼女は扉から庭へ一歩を踏み出した。緩やかな風に吹かれて長いスカートが揺れる。誰もが絶句しているのを目に留めても、彼女は無表情だった。ただその黒い瞳には神妙な輝きがある。
「けれども力は万能ではない。世界は完全ではない。女神様は全てを知り尽くしているわけでもない。我々個々人の都合にあわせてあらゆる物事を解決するなど、不可能なのです。ましてや、女神はこの星のためだけに存在しているわけでもない。利用する? 愚かしい。女神は単なる力の象徴ではありません。何を勘違いなさっているのか」
 淡々と述べるカーパルの言葉は、フェマーに向けて放たれたものなのか。それとも全員に対してなのか。ゼイツは横目でフェマーの様子をうかがった。今までであればすぐに反論しただろうが、さすがに瞠目し言葉を失っているようだ。一体、カーパルはどの辺りから聞いていたのだろう? ゼイツはもう一度カーパルを見やる。ウルナ以上に、カーパルの表情は読めない。
「そんなことのためにクロミオを危険な目に遭わせるなんて、馬鹿げているわ」
「ではカーパル殿、あなたは我々が黙って滅べばいいと、そう思っていらっしゃるんですか?」
 かすかに苦笑を浮かべたカーパルへと、ようやくフェマーは反撃に出た。それでも声に力はなかった。信じがたいと囁いているがごとく、かろうじてその場にいる者にだけ届く声量だ。カーパルは一歩前へ出る。溶けかけた雪の上に、彼女の小さな足跡が刻まれた。
「そんなことは言っていません。ただし、何をどう努力しても得られないものへ手を伸ばすのは、滑稽でしょう? 時間がないのならなおさらです。女神の力を引き出すのでさえ難しいというのに、女神そのものを利用しようだなんて。思い上がりもいいところです」
 断言するカーパルの口調には、わずかに怒りが含まれているようだった。ある意味で、フェマーは彼女の禁忌に触れたのかもしれない。尊き存在へと手を伸ばそうとする行為は、きっと許されざることに違いない。本気でフェマーが女神を利用しようとしていたのかは定かでないが。
「ですがクロミオ君は――」
「その話であれば聞いています。ウィスタリア様は時折、その片鱗を我々へと見せます。何故かはわかりません。ですがクロミオもこの血筋の一員ですから、不思議ではないでしょう。ただあなたの期待通りにはなりません、フェマー殿。ウィスタリア様は、いつでも私たちの手の届かない所にいるのです」
 うっすらカーパルは微笑んだ。それはいつか茜色に染まった部屋で見たウルナの妖艶な微笑を、ゼイツへと思い起こさせた。彼女たちは本質的には似ているのかもしれない。危うさと信念の中で揺れ動きながらも女神を追う姿は、他人にはなかなか理解しがたい。
「今、クロミオの件をジンデに伝えました。じきに対応班が動きます。私たちは待ちましょう。無闇に走り回っても道を見失うだけです」
 有無を言わせぬカーパルの一言に、誰もが頷くことさえできなかった。ゼイツは胸中でひっそり、クロミオの名を呼んだ。



 積もった雪に覆われていたため、そこが窪んでいることにクロミオは気づかなかった。必死に走っていた彼は足を取られ、顔から雪面へと突っ込む。冷たい。舞い上がった雪を頭から被り、彼は目を瞑った。頭の奥がぼんやりとしていた。赤くなった指先にはもう感覚がない。気力で足を動かしているだけだ。しかし一度転んでしまうとその気力も霧散してしまったようで、起き上がることもできなかった。
「う……ん」
 それでもこのままでは息苦しいと、クロミオは寝返りを打つ。見上げた空は薄灰色で、その中を白い雪がゆっくり降り落ちてきている。彼は瞬きをした。このどんより重苦しい色を見つめていると、部屋の中を覆う黒煙を思い出してしまう。教会は無事なのだろうか? 誰も死んでいないだろうか? 手遅れではないだろうか? 彼は体を震わせた。
「お姉ちゃん」
 北の棟へと向かったはずなのに、クロミオは完全に迷っていた。いつもの抜け道を探そうとしたのだが、雪のせいでわかりにくくなっていた。そのうち自分がどこにいるのかも定かでなくなった。立ち上る煙のおかげでかろうじて方角はわかるのだが、茂みの穴が見つからず、思った方へと進めない。
「ここ、どの辺だろう?」
 ゆっくりと体を起こしたクロミオは、黒煙を求めて視線を彷徨わせる。あった。だがそれは先ほどよりも幾分か遠くに見えた。それなのに黒々とした色だけは濃くなっているように思える。じわりと目尻に涙が滲んだ。自分がこんな所にいる間に皆が消え去ってしまうのではないかと考えると、絶望的な気持ちになる。彼はもう一度顔から雪の中へと突っ伏した。気のせいか、先ほどよりも寒くない。
 目を閉じると、思考はまとまらないのに嫌なことばかりが頭に浮かんだ。もしも自分のせいで火事になったのだとした、誰かが亡くなったとしたら、教会に住めなくなったとしたら。考えれば考えるだけ息が苦しくなった。足先からぞわぞわと這い上がってくるこの悪寒は、今まで経験したあらゆる痛みよりも恐ろしい。
「全部、僕のせい? 僕のせいで、みんないなくなっちゃうの?」
 くぐもった声はそのまま雪に吸い込まれる。涙も出てこなくなった。喉の奥にたまった唾を、飲み込むことも吐き出すこともできない。頭が痛い。胸が痛い。手足が痛い。何もかもが痛い。世界がひたすら遠く、ぐるぐると渦巻いているように感じられる。瞼の裏で、光が瞬いていた。
 深く呼吸をしようとしても思い通りにならない。頭の芯が痺れたようで、あらゆる動きが緩慢になる。怖い。苦しい。痛い。いたいいたいいたい。叫びたくても喉が震えなかった。だから心の中で、彼は大声を上げた。
 どうしてこんなことになったのか? 自分のせいなのか? どうにもならないのか? 自分自身の感情も理解できず、ただ漠然とした罪悪感と恐怖に苛まれる。このまま雪に埋もれ、消えてしまいたいとさえ思った。
 その時ふと、背中に温かいものを感じた。雪とは違う何かだった。布にしては重みがあるが、固いものでもない。ただの毛布やコートの類ではなさそうだ。クロミオはどうにかこうにか上体を起こして、首を巡らせる。そして、眼を見開いた。
「あ、れ……?」
 これは夢だろうか? 何度か瞬きを繰り返し、それでも目の前にいるものが消え去らないことに、クロミオは動揺した。傍に座り込んでいたのは薄紫色の豹だった。夢で会っていたのと同じ、しなやかな肢体に長い尾が印象的だ。気遣わしげな黒々とした瞳が彼を見つめている。
「女神様の、豹?」
 クロミオは首を傾げた。一人きりになった彼のためにやってきてくれたのだろうか? 慰めに来てくれたのだろうか? うっすら光を纏った体へと、彼は怖々と手を伸ばす。薄紫の豹は逃げはしなかった。柔らかい毛並みは心地よく、顔を埋めたい衝動に駆られる。唇を噛んで、彼はゆっくり立ち上がった。それでも豹は、静かにその場に座していた。

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