ウィスタリア

第三章 第九話「全てを等しく愛するなんて」

「風が、泣いた?」
 カーパルが、不意に空を見上げた。彼女が口にしたのは唐突な言葉だった。意味がわからず、それでもつられてゼイツも頭上を仰ぐ。先ほどと何ら変哲はない。夜に包まれ始めた灰色の空から、しんしんと雪が降り続けているだけだった。時折柔らかい風が通りすぎていくくらいで、吹雪と呼ぶほどでもない。
「風?」
 たたずんでいたウルナが眉根を寄せるのが、ゼイツの視界に入った。ラディアスやルネテーラは、不思議そうに辺りを見回している。瞳を伏せていたフェマーも、ゆっくり顔を上げた。誰もカーパルの発言を理解できていないようだった。それでも意に介した風でもなく、いつか見た心ここにあらずな様子で、カーパルは白い庭へと進み出てくる。
「風が、空気が。この感じ、間違いないわ――」
「叔母様?」
「今、風が悲鳴を上げた! 空が震えた!」
 依然としてカーパルの双眸は遠くへと向けられていた。力のこもった声で告げられた内容は、やはりゼイツには理解できない。しかしラディアスやウルナ、ルネテーラは違うようだった。即座に体を、顔を強ばらせる。ゼイツと同様に取り残されているのはフェマーくらいか。一体、何が起こっているのだろう? ウルナたちの表情を見ると、よくない兆候のようには思える。
「ウィスタリア様が、泣いているの?」
 辺りへと視線を彷徨わせ、ルネテーラが囁いた。紫の瞳は落ち着かない様子で揺れているが、確信の色を帯びてはいない。カーパルが口にした『異変』を感じ取っているわけではないらしい。言葉に反応しただけなのか。それは女神に関係することなのだろうか? ゼイツはカーパルの横顔へと視線をやった。
「ウィスタリア様よ」
 断言するカーパルの口元が緩む。それは、ある種の恍惚を含んだ表情と呼んでもよいかもしれない、フェマーが慌てて周囲を見回しているのが、何だかゼイツには滑稽に感じられた。あれだけのことを言われても、まだ女神を利用するつもりなのだろうか? すると突然、ゼイツの横でウルナが両膝をついた。何事かとゼイツが眼を見開くと、ウルナは両手を固く合わせて身を震わせる。
「ウルナ?」
「お願いです、ウィスタリア様。どうかクロミオを」
 今にも泣き出しそうな声で、ウルナが囁く。単純で、愚かで、必死な、切なる祈りだ。ここに来てなお懇願する姿勢が、ゼイツには理解できなかった。個人のためには動かぬと言われた女神に、それでも最後は縋る。ただ心の平穏のために祈っているとは思えない。ゼイツは彼女の傍に寄ると、片膝をついた。
「ウルナ」
「まだ、終わりになんてしないで。ねえお願い、ウィスタリア様」
「落ち着けよウルナ。クロミオならきっと大丈夫だ。あいつは賢い。目的もなく外へ飛び出すわけがないだろう? この庭を一番よく知ってるのもクロミオだ。だから大丈夫」
 血が滲みそうなくらいに唇を噛んだウルナへと、ゼイツは必死に言葉を掛けた。根拠としては限りなく弱いし、ほんの少しの慰めにもならないかもしれない。それでも何かを言わずにはいられなかった。解かれた彼女の右手が、彼の服の裾を掴んでくる。彼はその細い指先に手のひらを乗せた。
「クロミオを信じてやろう。対応班も動いてるっていうし」
「――来る!」
 さらにゼイツが言葉を重ねようとした瞬間、カーパルが声を上げた。途端、空が明るくなった。いや、ゼイツにはそのように見えた。顔を上げた彼の目に映ったのは、雪に覆われた茂みの上の、鮮烈な輝きだった。それが光に包まれた『何か』であると認識したのは、『何か』が地上に降り立った時だ。
 誰もが言葉を失っていた。軽々と茂みを超えて来たのは、四つ足の生き物だった。見かけたことのない類だ。伸びやかでしなやかな肢体からは、俊敏さがうかがえる。だが何より、その色が異常だった。うっすら光を纏っているとはいえ、その体躯が薄紫色であることはわかる。そしてさらに予想外なのが、その細長い背に、子どもが一人掴まっていることだった。
「クロ、ミオ……?」
 ゼイツの隣で、呆然とウルナが名を呟く。すると生き物の背に覆い被さるようにしていた子ども――クロミオが、恐る恐る顔を上げた。薄紫色の生き物は動かない。クロミオは怪訝そうに辺りを見回しながら、ゆっくり生き物の背から降りた。小さな足が柔らかい雪を踏みしめる音がする。その時になってようやく、生き物が着地した時には何も聞こえなかったことをゼイツは意識した。茂みを飛び越える直前も、何も感じ取れなかった。
「お姉ちゃん?」
 ぼんやりしていたクロミオが、ゆっくりウルナの方を見る。ウルナの肩からどっと力が抜けたのが、ゼイツにもわかった。何が起こったのか全く理解できないが、クロミオが今ここにいることは確かだ。それだけで、ウルナには十分だったのかもしれない。
 安堵したゼイツは、それでは事の次第を把握しようとまた薄紫色の生き物へ目を向けた。いや、そうしようとした次の瞬間には、それは動き出していた。助走することなくその場から一気に跳躍し、ゼイツたちの頭上を軽々と飛び越える。尋常な動きではなかった。
「あ、待って!」
 クロミオが叫ぶのと、慌ててゼイツが立ち上がるのはほぼ同時だった。風も雪もものともせず、薄紫色の生き物は教会の屋根へと降り立った。ゼイツは目を凝らしたが、長い尾を揺らす後ろ姿が見えるだけ。それはまたすぐさま飛び上がると、建物の向こう側へと消えていった。本当に瞬く間のことだった。
 しばし、誰もが口を開けなかった。あまりに唐突な出来事に、頭の働きが追いつかない。理解の範疇を超えていた。今のは一体何だったのか。どうしてクロミオを連れてきたのか。疑問は浮かぶがうまく考えることができず、ゼイツは呆然と立ち尽くしていた。もしかして自分は夢を見ていたのだろうかと、先ほどまでの現実感さえ疑いたくなる。
 そんな中、最初に動き出したのはクロミオだった。よろよろとした足取りでゼイツたちの方へ近づいてくる。よく見ると、手袋もはめていない小さな手は真っ赤になっている。髪に隠れがちな耳も赤い。予想通り、部屋の前で別れた時と同じ恰好だった。
「クロミオ」
 ウルナがよろけながら立ち上がった。考えることを放棄するがごとく、彼女は表情を変えずに右手を前へ差し出す。少しずつクロミオの歩みは速くなった。はじめは覚束なかったが、次第に力強く雪を蹴り上げるようになる。待ち受けるウルナの元へ飛び込む時には、ほとんど走っているような速度だった。
「お姉ちゃん!」
 飛びついてきたクロミオを、ウルナはしっかりと抱き留めた、顔をほころばせるウルナを見て、ゼイツは胸を撫で下ろす。これでもう大丈夫だ。そう思うと、ようやく頭が回転するようになってきた。今の生き物は一体何だったのか? どうしてクロミオを乗せてきたのか? ウルナにしがみつくクロミオを、ゼイツは見つめる。
「よかった、本当によかったわ、クロミオ。無事だったのね」
「うん! お姉ちゃんたちも無事でよかったっ。火事のことを知らせようと思ったら、迷っちゃって。そしたら女神様の豹が助けてくれたんだっ」
 クロミオは顔だけウルナから離し、そう説明した。ウルナは数度瞳を瞬かせ、「女神様の豹」と繰り返す。それはゼイツも時折、クロミオから聞いていた話だった。夢の中でたまに現れるという生き物だ。「豹」と聞いてもゼイツの脳裏にその姿は描けなかったのだが、あのような動物だったらしい。遙か昔にはこの星にも存在していたとされる生物の一種だ。
「まさか……」
「女神様が助けてくれたんだよ!」
 無邪気に喜ぶクロミオの声が響く。一方、ウルナの顔が強ばっていくのが、ゼイツの目にも明らかだった。見開かれた右の瞳が、どこを見るでもなく揺れる。薄い唇がきつく引き結ばれた。
「そんな。ねえ、どうして? だってあの時には、あの時にはあんなに祈っても助けてくれなかったのに」
 うわごとのようだった。青ざめたウルナの口から、そんな言葉が漏れ出す。「あの時」というのが、かつて彼女が両親を失った時であろうということは、すぐにゼイツにも察せられた。火事という共通点があるだけに、より記憶が鮮明に引き出されるのか?
「それは、女神様の力が万能ではないからよ」
 ウルナの問いかけに答えたのはカーパルだった。先ほどの心ここにあらずの状態ではなく、正気に戻っているようだった。感情の読み取りにくい黒い双眸が、ウルナとクロミオへ向けられている。クロミオを抱きかかえたまま、ウルナは肩越しに振り返った。柔らかい黒髪が揺れるのを、ゼイツはなんとなしに眺める。
「叔母様」
「大きすぎる力は、世界を滅ぼす危険性も孕んでいる。だから女神様はぎりぎりまで力を行使しない。どうして女神の力が禁忌と呼ばれているか、あなたたちは理解していないでしょう?」
 説明するカーパルの声音には、嘲笑する色もなかった。あくまで淡々としていた。それが余計にゼイツの不安を煽る。何か考え違いをしていたのではないかと、胸中で警告されているがごとく、鼓動が高鳴った。カーパルの言い様に気圧されたためか、誰もが口をつぐんでいる。しかし意を決したように、フェマーが一歩カーパルの方へと踏み出した。
「力を利用する者が現れたなら、国々の均衡が破れ、この星そのものを壊しかねないからでしょう?」
 その話はゼイツも以前耳にしていた。手を出してはならないとされる禁忌の力。遙か昔に取り決められた契約。今まで何度か大規模戦争により文明が失われていることを考えたら、そのようにしたのも頷ける。また大きな争いが起きたら、今度こそ人間は終わりだ。けれどもフェマーの回答は、カーパルにとっては物足りないもののようだった。ふっと鼻で笑うと、ゆっくり頭を振る。
「本当に何も知らないのですね。そんな小さな話ではありませんよ。この力は使い方を誤れば、それだけでこの星そのものを滅ぼしかねない。いえ、この星に限りませんね、『この世界』ですね。女神の力は世界をも揺るがす力。この世界の均衡を崩してしまうほどの力。もっとも、現時点では、それだけの力を引き出すことは、私たちには無理ですが」
 告げるカーパルの眼差しが再び空へと向けられた。ゼイツは先ほど聞いた「風の悲鳴、空の震え」について思いを馳せる。彼にはわからなかった。しかしカーパルはそれを感じ取っていた。今の説明と合わせて考えると、それは女神の力が使われたという兆しだ。その証拠に、実際に薄紫色の豹が姿を現している。彼には実感の湧かないことだが、女神の力というのは空間そのものに働きかけることさえできるらしい。
「それではカーパル殿、何故ニーミナはその力を?」
 沈黙が広がりそうになるのを、フェマーが食い止めた。そうだ、誰よりも早く禁忌の力に手を出そうとしていたのはニーミナだ。それほどまでの力なのだと知っていながら、カーパルたちは求めていることになる。ゼイツはカーパルの横顔を見た。遠い目をして降りしきる雪を眺めている様には、何か別世界のものが宿っているようにも思える。
「このままでは、この星が滅ぶ前にこの国が滅んでしまう。いつか食い潰されてしまう。国が滅びるのを、黙ってみているわけにはいかないもの」
 カーパルはゼイツたちの方へと視線を戻した。そして皆の顔を順繰りと見回した。そこにはある種の決意を固めてしまった者の、恐れを知らぬ強さが垣間見えていた。ゼイツは固唾を呑む。強く揺さぶられた頭が、再び思考を放棄し始めている。カーパルの言に、思い当たるところがあった。すると立ち尽くしていたフェマーがもう一歩、カーパルへ詰め寄る姿が目に映る。
「ニーミナのためであれば、あなたは他がどうなってもいいと?」
「この星のためならば何でも利用すると言ったあなたが、そんなことを尋ねるのですか? 矛盾してはいません? あなたはあなたが住む場所を守りたいだけでしょう? 全てを等しく愛するなんて、矮小な人間には無理な話です。だから最も愛するものを守るしかない。それは誰もが同じですよ」
 カーパルは笑った。そう言い返されては、フェマーも反論できないようだった。ゼイツも同様だ。近しい人のためにしか動くことができないゼイツも、その中に当てはまっている。単に守りたいと思う範囲が違うだけだった。その差が軋轢を生み、争いを引き起こすのだろう。全てを丸く収める方法などないから、誰かが憤る結果となる。
「追い詰められた時、あなたたちも力を求めた。その時期が私たちの方が早かっただけでしょう。誰が禁じようとも、それが手を伸ばせる距離にあるなら、何か事が起こった時に人は容易く墜ちる。そういうものですよ」
 達観するがごとく、カーパルが続ける。完全にフェマーは絶句したようだった。フェマーとカーパルの交渉がうまくいっていなかったのはこのためかと、ゼイツは胸中で呟く。フェマーの切羽詰まった様子を、カーパルは醒めた目で見ていたのだろうか。かつての自分を見るように。
「ですが叔母様、この星がなくなってしまったら、この国も……」
 そこでぽつりと、ウルナが囁いた。間違いようのない事実だった。カーパルは大仰に頷き、空を見上げる。止む気配のない雪を眺める双眸には、神妙な光が宿っていた。それは時折ウルナが纏う儚い空気にも似ている。
 ゼイツはわななく体を押さえ込むよう、自らの腕を抱いた。今さらながら、冷たい風が身に染みる。ずいぶん長いことこの場にたたずんでいたことをゼイツは意識した。クロミオが戻ってきて高揚していた気分が、落ち着いてきたからなのか。
「ええ、それはわかっています。ですから――」
「カーパル殿!」
 その時カーパルの発言を遮り、空気を裂くような呼び声が聞こえた。低い男の声だった。全員が一斉にその方へと振り向く。白く覆われた庭の向こう、ゼイツたちがやってきた方向だ。その先から、走り寄ってくる初老の男の姿がある。ゼイツにも見覚えがあった。あの大きな穴へと案内してくれた男性だ。
「ホランティオル」
 カーパルが男の名らしきものを口にする。駆けつけてきた男――ホランティオルは、荒い息を吐きながらカーパルの横で立ち止まった。慌てていたせいか、コートのボタンも留めていない。皺の寄った額には汗が滲んでいる。ホランティオルは周囲を一度見回し、それから呼吸を整える時間も惜しいとばかりに、口を開いた。
「たった、今、ナイダートから、使者が来ましたっ!」
 重要な情報を報告すると同時に、ホランティオルは咳き込む。カーパル、そしてフェマーの眼が見開かれた。ゼイツも瞠目した。予定された訪問ではないのだろう。ナイダートが慌てて駆けつけてくるということは、宇宙船に関わる何かだろうか? それともさらに他国で動きがあったのか? 何にせよ、聞いて楽しい話ではあるまい。
「ナイダートの使者が?」
「先日の者と、同じです。それが、輸送用の古代機器に乗って、やってきたんです。すぐにカーパル殿に、伝えたいことが、あるとっ」
「古代機器を使って!?」
 カーパルの喫驚する声が辺りに響いた。それはナイダートの切迫感を伝えるのに、十分な情報だった。いつの時代の物であれ、古代機器を動かすのは、よほどの事態でもない限りは許されていない。強国ナイダートであってもそれは同様だろう。
「そうなのです。あの宇宙船が、じきに着陸するだろうといって」
 報告するホランティオルの声がかすれる。今度こそ、その場の時間が止まったかのようだった。誰もが硬直し、息を呑んだ。声を漏らすこともなかった。ゆっくりと降り落ちる雪だけが、時の流れを告げている。静寂が痛々しい。自身の鼓動が強く胸の内で響いたように思え、ゼイツは息苦しさを覚えた。耳の奥も痛い。
「じきに、というのは?」
「わかりません。ただし、地球への降下を開始しただろうということは、確実でした。おそらく、夜が更ける前には」
「今日中ということ!?」
 絶望的な空気が広がっていく。先ほどフェマーが口にした「いつかわからない」という発言が、今になってゼイツの肩にも重くのしかかってきた。それがまさか今日であるとは。薄紫の豹が現れたのも偶然ではなかったのか? 怒濤のように押し寄せてくる現実に、実感が追いつかない。
「そう、です。着陸地点の予測はナイダートでも難しかったようですが、おそらくニーミナの国内ではないかと」
 さらに追い打ちをかける事態が明らかとなっていく。それではもうじきこの近くに宇宙船が降り立つというのか? ゼイツは瞳をすがめた。薄暗い中でも、さらに視界が暗くなったような錯覚に陥った。ナイダートが焦って古代機器を持ち出すのも腑に落ちる。
「もしかして、そろそろ肉眼でも確認できるのでは?」
 誰もが黙り込みそうになる中、淡々とウルナが囁く。ゼイツの喉を固い唾が落ちた。こんな時にこそ女神に縋りたいと、本気で彼は考えた。クロミオを助けてくれたのだから、もう少し力を貸してくれてもいいだろうに、と。狼狽える心を落ち着かせようと、彼は強く拳を握った。凍えて硬くなった手のひらに、じんわりと汗が滲んだ。

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