ファラールの舞曲
第十一話 「甘い香りの向こう側」 (後)
目覚めのよい朝を迎えたゼジッテリカは、シィラと二人で廊下を歩いていた。いつにないくらいゼジッテリカは上機嫌だった。最近あまり食べられなかったご飯も今日はよく進んだし、食後のデザートなどお代わりまでしてしまった。給仕をしていた女性が目を丸くしていたのが、今もはっきりと記憶に残っている。
その理由はきっと昨日のクッキーが好評だったからだろう。ほとんどシィラに作ってもらったと言っても過言ではなかったが、ゼジッテリカも一緒に作ったことには間違いなかった。それが皆に喜ばれていて、素直に嬉しい。ファミィール家の娘が渡したからではないという確信が、よりゼジッテリカの心を浮き立たせていた。
お菓子をもらったところで、護衛たちにはさほど利益はないのだ。せいぜい、普段はあまり口にできない甘い物が食べられるくらいだろう。つまりそれはお金には結びつかない。だからこそ、その反応が信じられた。
「ねえシィラ」
「はい?」
「今日も何か作るの?」
「何か……ってまたお菓子ですか? そうですねえ、厨房の方たちの邪魔にならなければいいんですが」
魔物のことなど忘れて、毎日こうして暮らしていたいとゼジッテリカは心底思った。もちろん時折殺された護衛たちのことが頭をかすめて、その途端気持ちは重くなるのだが。しかしそれでも今嬉しいことには違いなかった。今までの寂しい生活を考えれば、天国にも思える。
「ちょっとマラン、アース様は!?」
すると廊下の前方から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。一瞬誰だろうかと思ったが、よく聞いてみればそれはリリディアムの声だ。よくマラーヤと一緒にいるきつい印象の女性。そう認識すると同時に、ゼジッテリカの歩調はわかりやすい程遅くなった。マラーヤは別にかまわないが、リリディアムの方は少し苦手だ。いつも怖い空気を纏っている。
「だーかーら、アースなら今ギャロッドと話し合い中だって。その代わりにあたしがあんたに情報あげるって言ってるでしょう?」
「そんな! せっかくアース様に会えると思ったのに……ってマラン! あなたいつの間に呼び捨てに!?」
会話の内容からすると、どうやら二人は言い争いをしているようだった。廊下の先にその姿は見あたらないが、そういえばその脇に小さなスペースがあるはずだ。記憶によれば、そこには形ばかりのテーブルと椅子が置かれていた。二人がいるのはおそらくそこだろう。
「話が全部聞こえてますね」
ゼジッテリカの手を取って、シィラがそう言って苦笑いを向けてきた。確かに二人の声は筒抜けだった。マラーヤのは元々通りやすい声質だし、普段は大人しいリリディアムのも今は怒りのためか甲高くなっている。ゼジッテリカは笑い声を堪えて小さくうなずいた。他の者が通りかかったらどう思うか、この二人は考えていないのだろうか。
「うるさいなあ。あいつにさん付けするなんて癪に障るでしょう? だからよ」
「なっ……失礼ですわよ!」
もう少し近づいてみれば、二人の姿がはっきりと視界に入った。ソファに腰掛けたマラーヤを、腰を浮かせたリリディアムが睨みつけている。予想通りの構図だ。二人はまだゼジッテリカたちに気がついていないのか、互いの顔を見合ったままだった。喧嘩に夢中なのかもしれない。
こういう時どうするべきだろうか。そう考えてゼジッテリカが少し悩むと、シィラがわざと足音を立て始めた。乾いた音が廊下に響き、はっとした二人の視線がこちらへと向けられる。ソファ越しでもわかるようにと、ゼジッテリカは少し背伸びをしてみた。
「おはようございます。マランさん、リリディアムさん」
「あ、ゼジッテリカ様にシィラ」
振り返ったマラーヤは立ち上がり、軽く会釈をしてきた。リリディアムはというと一瞬嫌そうに顔をしかめたが、それでも取り繕って一応は頭を下げてくる。
ゼジッテリカはシィラの手を握ったまま、そっと彼女を見上げた。シィラは相変わらずの笑顔だ。それ以外の表情が想像できない程に、それはゼジッテリカの頭にもこびりついていた。シィラの怒っている顔など見たことがない。
「休憩中ですか?」
「ええ、そうよ。あたし夜の警備だったの」
「ああ、そうですシィラさん。昨日男性の皆さんにクッキーを配っていらしたんですって? 聞きましたわ」
ごく自然に話し始めたシィラへと向かって、リリディアムはわざとらしくそう尋ねてきた。今思い出したかのような言い草だが、おそらくずっと言う準備をしてきたのだろう。そう思わせる剣呑な光を、その瞳は宿していた。少しバンのと似ている気がする。
シィラはどう答えるのかとまた見上げてみれば、少し困ったように小首を傾げていた。こんなところで返答に窮するとは珍しい。しかしそんな彼女に代わって、反論する声があった。
「何言ってるのよ、リリー。あたしもちゃんともらったわよ」
「……え?」
その主はマラーヤだった。彼女がそう告げると同時に、リリディアムの目が点になる。そしてその眼差しがゆっくりと、マラーヤへと向けられた。それに伴ってウェーブした鳶色の髪が、その肩口を滑っていく。
「昨日食べたわよ、あたし。美味しかったから覚えてる」
「で、ですが私はもらってません!」
「その、リリディアムさんは仮眠をとっているということだってので。それでマランさんに渡してもらうようにと頼んだのですが……」
不思議そうなマラーヤと動揺するリリディアム。その二人に、シィラは困惑気味の微笑を向けた。そう言われてゼジッテリカも思い出す。そうだった。リリディアムにも渡すというのをゼジッテリカは止めたが、そこは聞いてもらえなかったのだ。
けれどもシィラが渡しに行ったところリリディアムはいなかったらしく、その分はマランに託したみたいだった。ゼジッテリカはリリディアムに会わないよう廊下の隅に隠れていたから、直接そのやりとりは見ていないが。
「あれ、そうだったっけ? すっかり忘れてたわ」
「ちょ、ちょっとマラン!」
「ごめんごめん。たぶん全部食べちゃったみたい、あたし」
マラーヤは照れたように笑うと頭を掻き、まなじりをつり上げるリリディアムを見た。本当はこの件でシィラに嫌味を言うつもりだったのだろう。しかしその目論みが失敗して、リリディアムはどうやら困っているようだった。これではただマラーヤが抜けていただけ、ということに収まってしまう。実際そうだと思うのだが。
「……シィラあなた、アース様にもクッキーを渡したの?」
すると少し視線を落としながら、おそるおそるといった風にリリディアムが尋ねてきた。それは今まで見てきた彼女とは、ほんの少し違った反応で。怯えさえ見える眼差しに、ゼジッテリカは驚いて瞬きをした。この突然の変化が理解できない。だがシィラにはわかったようだった。彼女は少しだけ瞳を細めると、かすかにわかる程度に首を縦に振る。
「はい、アースさんにも渡してきました。驚かれていましたが、リカ様の手作りですから受け取っていただけましたよ」
シィラがそう答えると、リリディアムは安心したように肩の力を抜いた。しかし何を心配して何に安堵したかわからず、ゼジッテリカは首を捻る。しかもマラーヤもわかっているらしく、リリディアムに向ける顔はにやついていた。わからないのはゼジッテリカだけなのだ。
「シィラが渡したから受け取ってくれたんだと思うけどなー、あたしは」
「マランっ!」
「おー怖っ。そんな顔じゃあ自慢の美人も台無しじゃない? ねえ、リリー」
どうやらマラーヤは、完全にリリディアムをからかっているらしかった。珍しいやりとりだ。そんな二人を眺めながら、ゼジッテリカはため息を飲み込む。自分だけ理解できていないというのは嫌なもので、胸の奥がもやもやとしてきた。いつの間にか結ばれていた唇にも、さらに力が入る。
「あーやだやだ。仕事中に色恋ごとなんて問題よねえ。そりゃあ一緒にいる時間は長いけどさあ」
「険悪な仲ではやってられませんわ」
「それはそうよ。でも仲良くなるのと恋愛は別、違う?」
わざとらしく肩をすくめたマラーヤを、リリディアムは再度睨みつけた。二人の話からすれば、それはどうやら恋愛ごとに関係しているらしい。そういう話なら本で読んだことはあるが、それでもゼジッテリカにはよくわからない領域のことだった。
そもそもゼジッテリカの周りにいる男性は少ないのだ。以前は父やテキアだけだったくらいなのだから、無論その経験はない。そう考えていくと納得ができた。そう、だからゼジッテリカだけがわからないのだ。
「先ほどから黙っていますけれど、シィラさん。あなたは何も思わないんですか?」
すると話の矛先を変えようとしたのか、リリディアムの双眸がシィラへと向けられた。だが自分へとその話題が来るとは思ってなかったらしい。シィラは気のない返事をして、ただリリディアムを不思議そうに見た。やはりこの手の話がシィラは苦手なようだ。反応がやや鈍くなる。
「これだけの殿方があなたに注目しているのよ? それなのにあなたは何も感じないの?」
「……いえ、その、私にとってはリカ様をお守りすることの方が大事ですから」
いつもなら嬉しいはずのその発言も、今回ばかりは取り繕うためのもののように聞こえた。ゼジッテリカは俯いて、少しだけ強くシィラの手を握る。シィラがいつものシィラでなくなるから、この話題は嫌いだった。できるなら早く終わらせて欲しいと、ゼジッテリカは密かに願う。
「ほらね、あんただけだってリリー」
「ふ、普通じゃないわよ、あなたたちは」
なお続く二人の口喧嘩も、何だかゼジッテリカには遠く感じられた。ただ今は、手のひらに感じる温かさだけが全てのような気がして。それに縋るように、ゼジッテリカは軽く目を瞑った。そうすれば少しは外界の刺激から意識を遠ざけることができる。
「私の思いは、ただ私を縛るだけですから」
だからそう小さくシィラがつぶやいたことに、ゼジッテリカは気がつかなかった。無論彼女の瞳が伏せられたことにも、気づかなかった。
偽ることを選んだ日から、偽ることに慣れてしまった。それでも偽ることが好きなわけではなかった。
押し殺した感情の行く先などなくて。かといって溢れることもなくて。ただ奥底に少しずつ溜まっていくそれは、いつしか自分の体を蝕むのかもしれない。今もこうして時折うずいては、胸の穴をほんの少しだけ広げていくのだから。
だがそれでもいいと決めたから、歩かねばならなかった。選び取ったのは自分なのだから、今さら引き返すわけにはいかない。
「すまない」
誰に向けているのかわからない、謝罪の言葉が漏れた。欺いている相手が誰なのか、それすらもわからなくなってきていた。それは、本当は自分自身なのかもしれない。だとすればたぶんずっと、これからも永遠に、欺き続けるのだろう。
「本当にすまない」
乾いた言葉だけが、もう一度繰り返された。それは自分を思ってくれているだろう者たちへの、偽らざる思いにも感じられた。