ファラールの舞曲

第十二話 「救世主」 (前)

 日が暮れると、次第に雨が降り出した。それは時折強くなるものの肌を叩く程ではなく、煙るように辺り一帯を包み込んでいる。またこの辺りは風を遮る物が少ないためか、その音も時々鼓膜を振るわせていた。
 塀の傍に立つ男にもそれはよく聞こえて、張りつめていたはずの気分を落ち着かなくさせる。まるで何かの鳴き声のようにも聞こえるのだ。そう思うと胃の底から得体の知れない感情がわき起こり、剣を持つ手がかすかに震える。
 同じ場所で見張りをしていた青年は、先ほど何か物音がしたと言って勝手に飛び出してしまった。それは男にはただの風の悪戯のようにしか思えなかったが、しかし止める言葉は無駄にしかならなかった。これが最も危険な行為であるとは誰だってわかっているだろうに、それでも青年は耳を貸さなかったのだ。
「こういう時、どちらが狙われるんだろうな」
 口からこぼれるのは、弱気の詰め込まれた一言で。思わずため息をつくと、それは弱い雨に混じって消えていった。もうすぐ日付が変わる頃だろうか? 雲のせいで月明かりさえない辺りには、濃い闇が横たわっている。
 急に寒気を感じて、男は身震いをした。強くはないものの、雨が止む様子はない。簡素な防具は寒さをしのぐ物ではないため、油断すれば風邪でもひきそうだった。護衛をしている以上体調管理は必須であるが、こんな状態が長時間も続けば自信もなくなってくる。
 すると彼の耳はかすかに、何者かの足音を拾った。泥を踏みながら走る音が、わずかだが右手から聞こえてくる。
 敵か? 味方か?
 剣を持つ手に力を込めて、彼は右手へと体を向けた。侵入者がこうも気配露わに近づいてくるとは考えにくい。おそらくは先ほど物音を確かめにいった青年だろう。そう頭ではわかっているのに、心臓の鼓動は速まっていた。頬へ張り付いた髪が、何故だか突然煩わしく感じられる。
「ペグダさん!」
 しかししばらくもしないうちに、彼の名を呼ぶ声が聞こえてきた。やはり魔物ではなかった。そう安堵した彼は剣を持つ手を下ろし、吐息をこぼす。謎の殺しが毎日起きているわけではないのだ。やはり自分は怯えていただけなのだろう。そう思って苦笑すると、彼はもう一度顔を上げた。
「なっ――!」
 だがその光景を見た彼は、息を詰まらせた。走り寄ってくる青年、その背後に見えたのは白くて巨大な生き物だった。空に浮かんでいるのかその足音はしないが、熊と蛇を足して二で割ったような奇怪な姿ははっきりと見える。その青い瞳が真っ直ぐ、こちらを見据えていた。
「サミオンっ」
 ペグダは息を絞り出した。声は震えていたが、そんなことは今はどうでもよかった。剣を握り治そうとするが、しかし焦りのためかうまく力が入らない。最も重要な時に役に立たない腕を、彼は忌々しげに一瞥した。泥の跳ねる音が、次第にゆっくりとなる。
「……え?」
 その足音が止むと同時に、ペグダは走り出した。剣を構える意味はなかったから、それを惜しげもなく放り出して駆ける。そしてそのかわりにと、技を放つべく精神を集中させた。白い生き物の手は、立ち止まったサミオンの背に向かって振り上げられている。その手のひらには赤い光の球が生み出されていた。
「サミオン!」
 彼は右手を振り上げた。だが間に合いそうにはなかった。赤い球がサミオンの背に向かって放たれる。サミオンが結界を生み出す余裕など、あるはずがなかった。あれにはそれなりの精神集中が必要なのだ。
「うわぁ」
 小さな悲鳴が、サミオンの口から漏れた。だがそれが、絶叫へと変わることはなかった。放たれた光球はサミオンの目の前で霧散し、跡形もなく消え去ってしまう。その場にしりもちをついたサミオンは、驚きに目を瞬かせているようだった。つまりそれは彼の技によるものではないのだ。
「サミオンっ」
 もう一度名前を叫びながら、ペグダはサミオンの傍に寄った。突然消えた光球に驚いているのは、どうやら白い獣も同じようだった。慌てて辺りを見回すその姿は、滑稽ですらある。だがそのおかげでサミオンの傍へ行けるのだ。ペグダは息を整えると、サミオンをかばうようにして白い獣を睨みつけた。
 光球が何故消えたのかはわからない。しかし同じ奇跡がもう一度起こるとは、どうしても思えなかった。
 魔物の出現に誰かが気づいてくれればいい。今ペグダにできるのは時間を稼ぐことだけだった。自分たちの実力でこの魔物を倒せるとは思えないのだ。それだけの気を目の前の相手は放っている。
「うぎゃーっ!?」
 だが奇跡は、もう一度起きた。いや、それを奇跡と呼んでいいのか、ペグダにはわからなくなった。彼の目の前で、突然白い獣の体が裂けたのだ。血しぶきを上げながら絶叫したそれは、地面に落ちるとのたうち回り始める。
「え、え、え?」
 サミオンの動揺した声が漏れた。だが彼を気遣う余裕など、今のペグダにもなかった。ただ体を切り裂かれてうめく白い獣を見つめことしかできない。そこから溢れる赤い血は、ぬかるんだ地面の上の水たまりに混じった。
 それでも獣が苦しんでいたのは、それほど長い間ではなかった。そのうち力を失ったそれからうめき声が途絶え、空へと伸ばされていた手が地面へと落ちる。と同時に光の粒子となって消えてしまった。呆気にとられている二人の前で、まるでその存在などはじめからなかったかのように。
 否、それが流した血だけが、その場には残されていた。その濃い臭いが辺りには漂っている。
「ペ、ペグダさん」
「ああ」
「これって……」
「魔物の仕業、ではないよな」
 呆然とした二人は、ただ事実確認をするように言葉を紡いだ。すぐに報告すべきところだが、しかし動き出せるまでには時間がかかりそうだった。



「それは本当ですか、ギャロッド殿」
「本当、のようなんですよ」
 真夜中に報告を受けたギャロッドは、朝一番にテキアの部屋を訪れていた。こうやって話をしに来るのも何度目だろうか? テキアの横にバンがいるのにはもう慣れた。もちろん、そこに意味深長な笑顔が浮かんでいるのにも慣れてしまった。あまり歓迎したくないことだが。
 ギャロッドは首を縦に振ると、再度テキアを見た。机越しに腕を組んだテキアは、何か考え込んでいるようだ。その切れ長の瞳が細められ、視線が徐々に机上の紙へと落ちていく。ギャロッドは額当てに軽く触れると、続けるべき言葉を探した。
「魔物は白い獣の姿をしていたようですが、跡形もなかったので詳しいことはわかりません。ただ血だまりは今朝確認しました。あれがなければ、オレも信じませんでしたが」
 そう、報告してきた男たちの言う通り、魔物の痕跡はあったのだ。もしそれがなければ、ギャロッドとて二人の話を疑っていたかもしれない。恐怖が見せた虚言だと、決めつけていたかもしれない。だが不幸か幸いか、それは残されていた。少なくとも護衛ではない何者かが死んだことは確かなのだ。
「魔物を殺したその何者かの姿は、確認されていないのですね?」
「はい、どうやらそのようで。ただ結界は使っていたらしいので、技使いかとは思いますが」
「なるほど」
 テキアは顔を上げると、隣に控えるバンを一瞥した。するとバンは自分ではないと言いたげに、首を横に勢いよく振る。その長い袖が揺れて衣擦れの音を立てた。バンが動揺するというのも珍しいと、ギャロッドは微苦笑を浮かべる。
「わたくしを疑っているんですか? テキア殿」
「いえ。あなたであれば可能だな、と思っただけです」
「ご冗談を。わたくしはテキア殿の直接護衛ですから、そんなことはしませんよ。だいたい、姿を隠しても意味ありませんし」
 バンはそう言って笑うと、落ちてきた眼鏡の位置を正した。確かに、助けたのが護衛ならば姿を隠す理由がない。もっともバンであればテキアを放っておいたことになるから、正体を隠しても全く利点がないとは言えないが。
「それにギャロッド殿、技を使うなら魔物も同じです。仲間割れ、という可能性もあるのでは?」
「……え? あ、そう言われればそうですね。仲間割れ、ですか」
 そこでバンが新たな可能性を指摘してきて、はっとしたギャロッドは相槌を打った。全く考えもしなかったが、それが起こり得ないとは言い切れない。魔物にも知性がある以上、一定の数が集まれば意見の違いは出てくるだろう。それがたまたま昨日は護衛を助ける結果となった、と。そう考えても違和感はない。
「珍しくも回りくどいやり方が続いてましたからねえ。焦れてくる者も出たのかもしれません」
 さらにバンがそう続けると、ギャロッドもその可能性が強い気がしてきた。その方が無駄に悩まなくてもいいし、何より不安にさいなまれている護衛たちの意欲低下も防げるかもしれない。最近逃げ出す護衛が多いだけに、それはありがたかった。ギャロッドの顔もほんの少し緩む。
「そうですか」
 けれどもテキアはまだ腑に落ちていないようだった。顎へと手を当てた彼は、まだ何か考え込んでいる様子だ。そんなにバンを疑っているのだろうか? それとも何か気になることがあるのだろうか?
 疑問を感じてギャロッドが訝しがると、同じく不思議そうにしているバンと目が合った。バンでも疑問に思うことがあるのだなと、どうでもいいところにギャロッドは関心を寄せる。
「テキア殿、何か気になることでも?」
「……いえ、そういうわけではないのですが。ただ昔に似たような話を聞いたことがあると思いまして」
「ほう、それはそれは」
「ですがよく思いだせなくて。やはり気のせいだったようです」
 するとギャロッドとは違って率直に、バンはテキアへと問いかけた。予想外にもテキアは素直に答えてくれたため、ギャロッドは内心で安堵の息を漏らす。護衛に対しても丁寧に接してくれるが、それでもテキアはファミィール家の者なのだ。あまり内心へ立ち入るのはまずいだろう。
「とにかくギャロッド殿は、今までと同じように護衛を頼みます。その謎の者に関する情報があれば、その度に報告お願いします」
「はい、わかりました」
 テキアは薄く微笑むと、ギャロッドを見上げてきた。先ほどのことはもう気にしていないのか、穏やかな表情だ。ギャロッドは首を縦に振ると、軽く一礼する。
 このままうまく事が運べばいい。そうギャロッドはひっそりと祈った。仲間割れでも何でもいい。とにかくこの屋敷を守っていければいいのだと。そう祈らずにはいられなかった。



 そして彼の祈りが届いたのか、その次の夜も、また謎の助けはあった。またその次の次の夜も、同じようなことが起きた。これはもう、単なる偶然ではない。
 希望の火が、灯され始めていた。

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