ご近所さんと同居人
第十二話 「わからない」
瑠美子の熱が下がったのは、家に戻ってしばらく経ってからのことだった。イムノーたちだけでなくディーターにもずいぶん心配をかけたが、それでもようやく人並みに家事がこなせるくらいにまでには回復した。
ただ特にルロッタが心配するため、外を出歩いてはいない。買い出しは誰かに任せることにして、瑠美子はひたすら家で体力が戻るのを待っていた。
皆が心配するのはよくわかるから、外へ出かけたいとは一度も言っていない。そんなそぶりを見せてもいない。ただし、ずっと気にかけていたことがあった。ソイーオのことだ。
黒衣の男たちに襲われてから、彼女は一度もソイーオと顔を合わせていない。彼女から会いに行けないので仕方ないと言えばそうだが、彼がやってくることさえ一度もなかった。
ソイーオは元気なのだろうか? 瑠美子のことで気に病んでないだろうか? できるなら少しでも早く、直接会って話がしたかった。このままよそよそしい関係になることだけは、絶対に避けたい。
「あーあ」
だからついつい、油断するとため息が漏れた。出かけることさえできれば、すぐ会える距離に彼はいるのに。それなのに言葉を交わすどころか顔を見ることもできない。様子をうかがうこともできない。だからせめて彼の姿が見えないものかと、時折窓から外を眺めるだけだった。
「ソイーオさん……」
ちらりとまた外を見て、彼女は唇を噛んだ。誰もいない時間帯の家は、空気さえ冷たく感じられる。もうしばらくは彼女一人だろう。ルロッタは買い物に行っているし、ハゼトはまだ学校。ノギトは訓練中だし、イムノーはまだまだ仕事中のはずだった。そんな中、一人で夕日を背に皿を洗うのは寂しい。
「弱ってるなぁ」
全てを思い出してからというもの、瑠美子にとって怖いものが二つ増えた。恐ろしい程綺麗な夕焼け空と、あらゆる黒。その二つが恐怖の対象として加わった。
茜色の雲を見ると、リコーダーの音色が脳裏をよぎる。黒い布を見るだけで動機がする。日常で接する黒は彼女自身の髪くらいしかないからまだいいが、夕刻は毎日訪れるから困りものだった。避けられないのならば、せめて誰かいてくれればと願ってしまう。
強がっていた彼女はどこへ行ってしまったのだろう。ノギトと口喧嘩していた元気は、もう残ってはいないのだろうか。時々震えそうになる体を抱きしめて、彼女は自嘲気味に笑ってはぼやいた。まるでヌオビアに流されてきた頃に戻ったようで、嫌気が差す。
「お母さん……」
誰もいない静かな部屋を、頼りない声が揺らす。弱気になるとつい口からでる名前に、彼女がまた苦笑した時だった。突然背後で扉の開く音がして、彼女は慌てて振り返った。ルロッタのあの言葉を聞いてからは、この名前だけは聞かれまいと気をつけていたのに。帰ってきたのは誰だろうか? ルロッタだろうか? ハゼトだろうか?
「あ、ノギト」
しかし幸いかな、そこにいたのはノギトだった。複雑そうに顔をしかめた彼は、肩に背負っていた鞄を下ろして近づいてくる。彼女は作り笑いを浮かべると小首を傾げた。
「お帰り。早かったじゃない」
「まあな。最近なんだか城の方もばたばたしてるらしくて、俺らの相手してる場合じゃないみたいだ。で、訓練がまた中断されて」
先ほどの言葉を聞かれたのか聞かれていないのか、内心でおののきながらも彼女は「そうなんだ」とだけ答えた。最近妙に優しいノギトは、今日はいっそう静かだ。しかしやましい気持ちががある時は、こういった沈黙も心臓に悪い。
彼女は固唾を呑むと、できるだけ不自然にならないように視線を逸らした。そして洗い終わったばかりの皿に右手をかけ、布巾を左手に取る。
「じゃあ今お茶入れるから――」
「母さんの言葉なら、気にするなよ」
何気ないやりとりで終わらせようという努力は、瞬く間に水の泡となってしまった。背を向けかけたところで言葉を遮られて、彼女は思わず体を強ばらせる。何のことかと、とぼけるのは無理そうだった。これだけあからさまな反応を返してしまうと、取り繕うことは不可能だ。
「えっと、ノギト……」
「あれは母さんのわがままだと、俺は思う。ルミコが気にすることじゃあないから」
彼女が返す言葉に窮してると、彼は真顔のまま淡々とそう述べた。間違いなく、先日のルロッタの発言に関してのことだった。しかしだからといって「そっか」と答えるわけにもいかず、彼女は困惑気味に眉をひそめる。ルロッタの気持ちも、理解できることはできるのだ。
「でもノギト――」
「何でもそんな、割り切れるものじゃあないだろ」
思わぬ言葉に、彼女はもう一度息を呑んだ。まさかノギトの口からそんな発言が飛び出すとは思わなかった。彼女は眼を見開くと、何度か口を開閉させる。異世界人のことが彼にわかるとは思えない。が、そう言ってもらえると少しだけ安心した。彼女は皿にかけた手を離して、彼へと向き直る。
「俺だって……ルミコとハゼトに同じようには接せないし」
「う、うん」
彼の視線が彼女からはずれて、部屋の中を彷徨い始める。どこか戸惑ったようなそれでいて照れたような横顔は、ずいぶん久しぶりに見た気がした。ヌオビアに来たばかりの頃は、彼女が泣いたりふさぎ込む度にそんな顔して近づいてきた。きっと突然できた妹との距離間が、うまく掴めなかったのだろう。
いや、それは今も同じなのかもしれない。彼女にとって彼が完全な兄とならないように、彼にとっても彼女は妹になり切れていないのだ。物心ついた時から瑠美子が傍にいたハゼトとは、そこが決定的に違う。
「だから、気にするなよ」
絞り出したようなノギトの声に、瑠美子はおずおずと相槌を打った。家族のようでいて家族ではない存在とは、なんと難しいのだろうか。あらためてそれを感じて、彼女は歯がゆさに唇を噛む。何の躊躇いもなく家族になれたら楽だろうに、ヌオビア人になれたら楽だろうに。ついそんなことを考えてしまった。
けれどもこのままではいけない。我に返った彼女は気持ちを切り替えるために、手にした布巾を置こうとした。ちょうどその時だった。彼女の視界の端をを何かがよぎり、すぐに消えていく。それは夕焼け空を背景に動く、まるで黒い影だった。止まりそうになった心臓を押さえるようにして、彼女は慌ててその正体を確認する。
「あ、ソイーオさん……」
だがそれは黒衣の男ではない。見知らぬ者ではない。覗き込んだ窓越しに見えたのは、大きな上着を羽織ったソイーオだった。ずっと後ろ姿さえ見かけなかった彼が、ディーターの家へと一人向かっている。
寒そうで寂しそうな歩き方に、胸の奥が痛んだ。今すぐ走り出せばきっと間に合う。彼と話をすることができる。胸に当てた手で布地を掴み、彼女は固唾を呑んだ。だが彼に会うためにはどう考えても、外へ飛び出さなければならない。
「あいつには、会うな」
彼女の心を見透かしたかのように、ノギトの冷たい言葉が降りかかった。先ほどと変わらない声音のはずなのに、妙に淡々と響くように思える。ゆっくりと振り返った彼女は瞳を瞬かせた。
「ノ、ノギト?」
「外へ出るなって、言われてるだろう」
「でも……ソイーオさん、きっと私のこと気にしてるわ」
「そりゃそうだろ、元凶なんだから」
ノギトの発言が、彼女の胸を鋭く突いた。それはあえて誰も言わなかったことだった。よく本音をこぼすハゼトだって、内心どう思ってるかは別として口にしていない。それなのに何故、ノギトは今になって言うのか。
不意に傷ついたようなソイーオの笑顔が浮かんで、彼女は慌てて首を横に振った。黒衣の男たち――バルソアに襲われたのは決してソイーオの責任ではない。森へと出かけてしまったのが問題なのだ。
「ソ、ソイーオさんは悪くないわ。あの時私が止められていたら、こんなことにはならなかったんだもの」
ついつい声が大きくなり、はっとして彼女は口をつぐんだ。ノギトは呆れたようにため息を吐くと、窓の方へと眼差しを向ける。それにつられて、もう一度彼女もそちらを見た。が、ソイーオの姿はもうどこにもない。紫へと変わりつつある空の下、木々が寒々しく揺れるだけだった。
「ずいぶんあいつの肩を持つんだな」
「だ、だってソイーオさんがヌオビアに来てから、まだ季節も変わってないのよ?」
「本当にそれだけか?」
これ以上夕焼け空を見ていられなくて、彼女はノギトへと視線を戻した。しかし彼はまだ、外を見つめたままだった。瞳を細めて再び嘆息する横顔は、見たことがないくらいに硬い。
彼女は顔をしかめると胸元の手を下ろした。強く布を掴んでいた指先が少しじんじんする。けれどもこのまま有耶無耶にするのは自分らしくない気がして、彼女は意を決すると口を開いた。
「何が言いたいのよ、ノギト」
「いや、別に」
「だったら何でそんな、思わせぶりなこと言うのよ」
「――俺の気持ちなんて、お前にはわからないだろ」
無愛想な声でそう告げられて、彼女は愕然とした。と同時に奥底に押し殺していた何かが、どっと溢れ出してきた。突然拒絶されたようだが理由がわからない。悲しいというよりはむしろ怒りの方が湧き起こって、彼女はまなじりをつり上げた。それは、ずっと、彼女が思っていたことだ。
「わ、わかるわけないでしょう! 私はノギトじゃないんだから。ノギトだって、私の気持ちなんて知らないくせにっ」
異世界人がどんな思いで日々暮らしてるのか。二度と見ることのない故郷を思いながら、いかに必死に生きているか。彼に理解できるはずがなかった。彼女が死にかけてヌオビアへとやってきたように、きっと異世界人は皆それぞれの事情でここへと流されてきている。ソイーオにだって何かがあったはずなのだ。
ソイーオは、心細く思ってないだろうか? 見知らぬ世界で突然襲われる羽目にあって、疑心暗鬼に陥っていないだろうか? ディーターが彼を慰めてくれていればと、願わずにはいられない。もしヌオビアに来たばかりの頃同じように襲われていたら、彼女なら人間不信になっていた可能性さえあった。
それだけ辛い状況にいるソイーオへと、どうしてノギトは冷たく当たれるのか。考えれば考えるだけ腹が立ってきて、彼女は声を張り上げそうになった。
すんでの所で思いとどまることができたのは、強く握った右拳に小さな痛みが走ったからだ。自分が怪我人だったことを思い出して、彼女は口を閉ざす。このままではまずい。彼女はノギトに背を向けると、布巾を左手に取り歩き出した。
「ルミコ――」
「ついてこないで。夕飯の支度するから、部屋にでも行っててよ」
今日はもう彼の顔は見たくない。抑えきれない感情がいつ溢れかえってもおかしくなくて、彼女は固く目を瞑った。怒声を上げれば傷に障るだろう。けれどもこのまま会話を続ければ、それさえ我慢できそうになかった。少しでも早く良くなるためには、外に出るためには、無理をしてはいけないというのに。
「ルミコ」
「玄関に野菜取りに行くだけ。……良くなるまでは外には出ないわ。だからソイーオさんにも会わない。それでいいんでしょう? 私だって、ルロッタさんたちにこれ以上心配かけたくないもの」
ソイーオにはディーターがいる。同じ異世界人として気持ちを理解してくれる人がいる。そう自らに言い聞かせて、彼女は右の拳をそっと開いた。軽く瞼を上げて手のひらを確認すると、痛々しい傷跡はあるものの傷口が開いた様子はない。血が滲んでもいなかった。
「ルミコ、俺はただ……」
「お願い、これ以上話しかけないで」
ノギトに冷たくそう言い捨てて、彼女は玄関へと向かった。いつの間にか窓から見える空は、藍色へと染まりつつあった。