ご近所さんと同居人

第十三話 「消えゆくもの」 (前)

 その日は朝から風が強かった。食事も十分にとれるようになり外へも出歩くようになった瑠美子も、今日ばかりは控えようと思うくらいにひどい風だった。
 しなった木の枝が唸り声を上げる度に、何かが飛ばされてぶつかる音がする。こんな日にも出かけなければならない人は、さぞかし大変だろう。皆が早く帰って来られればいいのにと、彼女は心底願っていた。
 ただし、ノギトとの仲はこじれたままだった。必要最小限の会話を交わすくらいで、ろくに視線も合わせていない。はじめはそれまで通りのたわいもない喧嘩だろうと気にかけなかったルロッタでさえ、最近は二人の顔を見比べるくらいだ。
 いつまでもこんな調子ではいけない。このままじゃあ笑顔でソイーオに会いにもいけないし、皆にも心配をかけてしまう。仲直りすべきだと頭では理解しているが、しかし心がそれを許さなかった。ノギトの言葉が頭をよぎるだけで顔が歪む。
 だから彼女はできるだけそのことについて考えないようにしていた。誰にも理解されないという思いは、大抵最悪な形となって自分へ返ってくる。それがわかっているからこそ、そういう後ろ向きな考えは一刻も早く振り払いたかった。
 異世界人ならわかってくれるだろうか? ソイーオやディーターなら共感してくれるだろうか? 確かめてみたいが、それも怖くてできない。結局一人で不安と苛立ちを抱えるだけだった。
「風が強いし、今日は買い物もなしね」
 今日も一人台所に立ちながら、彼女は誰に語りかけるともなくつぶやく。誰もいない家でこうして夕食の準備をする時間は、色々なものを思い出させた。
 日本で母を待っていた時のことや、ヌオビアで居場所を得るために四苦八苦していた時のこと。そして先日、ノギトと言い合いをした時のこと。どれも微妙に苦い過去だ。
 それでも料理には手を抜かない。イムノーやルロッタが不必要な心配をしないようにと、毎日色々と工夫しては皆を驚かせていた。今日は揚げ物にしようかなと考え、彼女は天井を一瞥する。火加減が難しいせいなのか単に風習の問題なのか、ヌオビアでは揚げ物は滅多に登場しない。
 揚げるならば何がいいだろうか。この間は野菜ばかりだったから、コロッケにでも挑戦してみようか。確かキルダン芋が余っていたはずだ。そんな風に考えていると、不意に背後で空気が揺れる気配がした。ついで扉の開く音がする。
「ただいまー」
 どこか呑気に響く朗らかな声音、これはハゼトのものだ。怪訝に思って振り返ると、薄汚れた鞄を手にした彼の横顔が見えた。彼女が台所にいるとすぐに気づいたらしく、彼は鞄を放り投げると片手をひらひらさせて近づいてくる。
「ただいまー。腹減った」
「お帰り、ハゼト。早かったじゃない。風強いから帰れとでも言われたの?」
「うーん、それもあるけど、変な話が出ててさー。それで早く帰った方がいいって流れになって」
 彼は居間の椅子を台所の傍まで引きずってくると、その背もたれに顎を載せながら跨った。床が痛むと口にしようと思いつつも、変な話の方が気になり彼女は眉根を寄せる。彼は台所の中を一瞥すると、夕食の準備がまだ先だと思ったのか勢いよく喋り始めた。
「姉ちゃん、子どもが行方不明になった事件って知ってる? 最近の話なんだけど」
「子どもが行方不明……?」
「知らない? 学校でも話題なんだけどなー。この間で三人目かな。あ……三人目は大人だったかな」
「ちょ、ちょっと待ってよ急に。し、それ、本当なの!?」
 軽い調子で話す彼に、彼女は慌てて詰め寄った。夕食の準備どころではない。行方不明の子どもと聞くと、どうしても心臓が跳ねるのを抑えられなかった。日本での彼女の扱いはそうなってるのだろうかと、ついこの間考えたばかりだ。胸元を抑える彼女へと、彼は不思議そうな眼差しを向けてくる。
「姉ちゃん、本当に知らなかったんだ。確かみんなあの森の辺りに出かけて、そしていなくなったんだってさ。あ、姉ちゃんが外に出られなかった時くらいかなぁ」
 背もたれの上で両手を組んで、彼はまたそこに顎を載せた。確かにここ最近は最低限の買い物くらいにしか行っていない。だから噂話を耳にする機会も、以前よりはぐっと減っていた。黒衣の男たちのこともあるから、もちろん森の方へ行くこともなかった。
「……そ、そうだったんだ」
「最初はさ、誘拐されたんだとか迷子になったんだとか言われてたんだけど。でも二人目がその五日後にまたいなくなって、みんなあれれって思い始めて。それで昨日、三人目がいなくなったんだ。しかも今度は大人だから、これは変だって話が広まって」
 記憶を掘り起こしているのか、天井を睨むようにしながら彼はそう説明していく。彼女は胸元の手を下ろして、気づかれないように呼吸を整えた。
 彼の話は、彼女が思っていたよりもずっと重いものだった。そんな短期間のうちに三人も突然いなくなるなんて、どう考えても不自然すぎる。それも子どもだけでなく大人もとは。
「ついにヌオビアから流される人が出てきたんだ、って言う人もいるみたいでさ」
 だが衝撃はそれだけではなかった。続く彼の言葉が、彼女の思考を一瞬停止させた。はじめは意味がわからず目を丸くして、ただ彼女は首を傾げる。しかし次第に言わんとすることを理解すると、自然と喉が鳴り眼が見開かれた。動揺のため滲んだ汗が、ゆっくりと背中を伝っていく。
「ヌオビアから、流される……」
「そう、ヌオビアにじゃなくて、ヌオビアから。また他の世界に流されたんじゃないかって話。あの森はほら、姉ちゃんやソイーオさんたちが流されてきた場所だし。何かあってもおかしくないんじゃないかなーって」
 彼の口調はやはり軽いが、同じような調子でそれを受け流すことは無理だった。不安なのか期待なのかわからない感情がこみ上げ、彼女の全身を包み込んでいく。
 あらゆる音が遠くなった。その代わりにまたリコーダーの音色が流れ出し、黒衣の男たちが持つ銀の短剣が脳裏をちらつき始める。
 今度はこの国から流される人が出てきたのだろうか? それともあの黒衣の集団――バルソア――が関わっているのだろうか? いや、全ては皆の杞憂で、単なる偶然が重なっただけなのだろうか?
 可能性を考えれば考えるほど、鼓動がより強くより速く感じられた。彼女はエプロンの端を密かに握ると、また落ち着くようにと深く息を繰り返す。
 あの森にもう一度行かなければ、何があるのか確かめなければ。そう思ってしまう自分がいることに気づいて、学習能力のなさに情けなくなった。これではまたノギトに馬鹿にされる。
 けれどもそんな彼女の様子はつゆ知らず、ハゼトは捲し立てるように話を続けた。
「ま、学校で広まったただの噂だけどさ。でも結構本当っぽくない? きっと城なんかじゃもっと詳しい情報が集まってるんじゃないかなぁ。あ、でも兄ちゃんは何も言ってなかったっけ。じゃあやっぱり単なる噂なのか」
 とにかく行方不明事件ことが気になって仕方ないらしい。そわそわとする彼を横目に、彼女は顔を歪めて唇を結んだ。ハゼトの言う通り、ノギトは本当に何も知らないのだろうか? バルソアの件を考えると、口にしてないだけではないかという考えが頭をよぎる。
「あーでも兄ちゃんはまだ正式に働いてるわけじゃないもんなぁ。じゃあ知らなくて当然か」
 独り言のようなハゼトの言葉に、素直にうなずけなくて彼女は瞳を伏せた。ノギトのことなどもう信じられない。そう吐き捨てたくなる一方で、彼のことなど実はずっと何も知らなかったのでは、という思いが不意に頭をよぎった。
 そうだとしたら、彼があんな風に言うのも道理かもしれない。「俺の気持ちなんてわからないだろう」と言われて悲しかったが、彼女だって自分の気持ちを全て口にしているわけではない。ましてや彼らは義理の家族だ。何でも言い合えるという程単純な関係でもなかった。
 彼女だってずっと隠してきた。母親に会いたいという言葉を口にせず、帰りたいという思いを押し殺してきた。異世界人への偏見を恐れながら、何でもないような顔をしてきたではないか。
「そうよね、私だってずっと何も言ってないんだから……」
 ぶつぶつとあれこれ推測するハゼトを余所に、彼女は小さくつぶやいた。
 伝えるべきことがあるのなら、きちんと口にしなければならない。心の中だけで思っていながら理解してくれないと嘆くのは、随分と勝手な理屈だった。異世界人だから、異世界人でないからは関係ない。それは単なる無理難題を押しつけているだけだ。
「……異世界人かどうかは、関係ないわよね」
 強く握っていたエプロンの端を離して、彼女は自らに言い聞かせるよう囁いた。ソイーオのことを責められてついかっとなったが、よく考えればノギトには悪いことをした気がする。彼が何を思ってあんなことを言ったのかはわからないが、彼女を心配していたことだけは確かだ。
「うん、そうとわかったら謝らなくちゃ」
「――姉ちゃん?」
 一人でつぶやいていたのがまずかったのだろうか。不意に訝しげな声がかかり、はっとして彼女は顔を上げた。ハゼトはいつの間にか立ち上がっていて、おそるおそるといった様子で彼女を凝視している。ノギトと同じ栗色の双眸には、ほんの少し怯えが見え隠れしていた。
「だ、大丈夫? 姉ちゃん」
「え、あっ、大丈夫大丈夫。ちょっと思うことがあっただけだから」
「本当? 森で倒れてから姉ちゃん調子悪いんだから、驚かせるなよな。息止まりそう」
 大げさに胸を押さえるハゼトを見て、彼女は慌てて首を横にぶんぶんと振った。心配してくれてるのは『家族』みんななのだ。それを改めて実感して、申し訳なさと同時に安堵を覚える。
 彼女にはこうして温かく迎えてくれた人たちがいる。ソイーオにも、ディーターがいる。全ての異世界人がそうであるかは定かでないが、そうであってくれればと願ってやまなかった。
 そしてもしヌオビアから流された者たちがいるのならば、その者たちにも――。
「だから絶対森には行くなよ、姉ちゃん」
「うん。ごめんね、ハゼト。でも本当に大丈夫だから」
「絶対だからな。姉ちゃんがまた流されたら、俺は嫌だし」
 何気なく告げられた言葉に、彼女の鼓動は痛い程跳ねた。まさかそれを、彼が気にかけているとは思いもしなかった。照れくさいのかそっぽを向いた横顔を、微苦笑しながら彼女は見やる。日本へ帰りたいという思いを、見透かされたような気分だった。
 ここに居て欲しいと願ってもらえるのは幸せだ。だが同じ思いを抱える者が別の世界にもいることも、彼女はよく知っている。選択肢がなかったからこそ、考えずにすむことだった。帰りたいとどんなに泣き叫んでも無理だったから、深く考えずに十年もの月日を過ごすことができた。
 けれどももし、ヌオビアから流される者が現れたのならば。他の世界に行けるのならば。日本へ帰ることができる可能性もゼロではない。限りなく不可能に近いとしても、言い切ることはできなかった。かすかにだが希望はある。
「ありがとうね、ハゼト」
 だから今の彼女にはそう答えるのが精一杯だった。そのせいだろうか、逸らされたままの彼の視線は天井を彷徨うだけだった。

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