第四話 往来過ぎて札光り
「修行よ、早太!」
それがこの修行だった。毎朝食事の片づけが済んだら、こんな風に彼を呼ぶ声が聞こえてくる。それはほぼ半分は強制だ。術師ではない早太に逆らう術はなく、文句を言いながらもいつも断れないでいる。
「へいへーい」
今日も気のない返事を漏らして、早太はのろのろと庭へ出た。修行の相手をしてくれるのはたいてい五の組の
「何よ早太、またそんなやる気のない声出して。だから強くなれないのよ?」
「あのなー琴。俺は術師じゃないのっ。元々ただのごくごく普通の町民なの! そんなに簡単に強くなれるわけないだろ」
「馬鹿ね、普通の術師だって元からそんなに強いわけじゃあないのよ。経験積んで強くなるのっ。あんたには気合いが足りないだけよ」
藍の羽織を纏った琴は、不満顔の早太の頭を軽くこづいた。いつもこうだ。彼の愚痴を彼女は一言で斬り捨ててしまう。だが当人だって任務で大変だろうにと思うと、それ以上は早太も文句を口にすることはできなかった。
彼女がこの修行を提案してきたのは、全ては
しかしまだ早太では頼りない。そう琴は判断したからこそ、こうして修行の相手になってくれるのだ。琴は千鳥の師匠でもあるらしく、その実力は折り紙付きだった。もっともそのためか修行はなかなか厳しい内容ではあるのだが。
「また早太文句言ってるのー? 琴ねえには勝てないよー早太」
すると長屋の中から声が聞こえてきて、縁側から千鳥が顔を出した。頭の上で一本に結わえられた銀の髪が、生き物のようにゆらゆらと揺れている。
いつの間にかやってきていたらしい。千鳥はこの長屋に住んでいるわけではないのだが、しかしよくここに顔を出してきていた。始めはいつでも任務に出られるようにという配慮かとも思ったが、どうやら遊び相手が欲しかっただけのようだった。つまり暇なのだ。
「何だよ千鳥、また来たのか?」
「だって一人じゃつまらないんだもーん」
「もう千鳥、修行の邪魔はしないでよね? 後でどこか連れてってあげるから」
『……え?』
琴の何気ない言葉に、千鳥と早太は同時に声を上げた。いつも琴はこの修行が終わるとすぐに、慌ててその日の任務に駆けだしていくのだ。それも全て頭が彼女とその相棒
「こ、琴ねえ、仕事は?」
「それがねーもう、今日は私お休みなのよ!」
「おーそれは良かったじゃないか琴っ」
「そう、だからもう嬉しくて嬉しくてっ。まあ竜は今頃頭のお相手で買い物なんだけどね。でも私は休みなのよ!」
今にも踊り出しそうな勢いで、琴はその場で一回転した。その着物の裾がひらひらと揺れ、羽織も軽やかに舞い上がる。相当嬉しいのだろう。彼女の忙しさは半分自分のせいだとわかっているので、早太も何だか嬉しくなってきた。琴のためにも今日は早く修行が終わるよう、彼も頑張るべきだろう。ここで彼女の喜びに水を差してはいけない。
「なら早く修行終わらせないとなっ」
「そ、そうよ早太! まあだからって手加減はしないけどね?」
「そこは容赦ないなあ」
屈託なく笑う琴に、早太も頭を掻きながら笑顔を向けた。時雨組には変な奴らが多いと思うが、こう素直に笑える琴は割と好きだった。同じく頭に闘志を燃やす仲間だからかもしれないが、親近感もある。千鳥も曲がらずにこんな風に育ってくれればいいと、心底早太は願っていた。そのためにもあの頭の魔の手から守らなければならないが。
「修行終わったら、甘味処でも行こうね千鳥。だからそれまで大人しく待っててね」
「うん!」
縁側に腰掛けた千鳥も笑顔でうなずいた。早太はその様子を視界の端に入れながら、午後という幸せな時間を頭に思い描いた。
修行を終えた早太は、結局は琴と千鳥に付き合って出かけることになった。全ては千鳥のお願いのせいだ。しかも荷物持ちならいいかと琴も賛同したので、もう早太は断れなくなってしまった。琴の機嫌を損ねると、明日の修行に響く可能性がある。
だが幸いにも夕餉の買い出しには早い時間だからか、通りを行く人の数は思ったより少なかった。そのことに安堵しながらも、早太は内心でため息をつく。女の買い物は長いのだ。ずっと付き合っていると疲れてしまう。
「そういえば琴ねえ、竜にいはお頭のおじさんと何買ってるの?」
千鳥は琴の手を握ってはしゃぎながらも、ふとそんな発言を思い出したらしい。琴の顔を見上げてそう尋ねた。何故だかこんな時も藍の羽織を着たままの琴は、考え込むように空を睨みつける。千鳥とおそろいなのか結わえた髪が、風に吹かれてふわりと揺れた。
「えーと確か、札の買い付けじゃなかったかしら。いつもこの時期だから」
「え、じゃあお叔母様のとこ?」
「うん、たぶんそう。だから竜は護衛の代わりじゃないかしらねえ」
札の買い付けと聞いて、千鳥の声がいっそう高くなった。術師が術を使う際に必要なのが札で、その札を作ることができるのが
「あ、そっか。札を大量に持ってると狙われやすいもんね」
数年前まではその数少ない集団の中に千鳥の父親も入っていたが、今はもう亡くなっていると早太は聞いた。そして血が重要なため、千鳥自身も札師の一人だ。銀の髪がその目印になっている。ただ千鳥の場合は修行がまだなので、ごく簡単な札しか作れないらしい。一人前の札師になるには訓練が必要なのだ。それをまだ幼い彼女はこなしていない。
「早太、次の通り右に曲がるわよ」
「え?」
「いいからつべこべ言わないで」
だがそこで突然に、琴の声色が変わった。笑顔のまま鋭く言い放たれた早太は、わけがわからず目を丸くした。
何かあるのだろうか? そう思って辺りを見回そうとしたら、それを遮るように千鳥がくっついてきた。歩きづらくなった早太は苦笑しながら、とりあえず言う通りにしようと慎重に足を進める。もともと琴には逆らえないのだ。今さら反抗したって仕方ない。
「来るわよ」
次の通りを右に曲がると、そこはつぶれた店の丁度前だった。道幅はかなり狭くて、大通りのような賑やかさは微塵も感じられない。そこを少し進んで立ち止まった琴は、振り向くことなくそう忠告してきた。早太はうなずく。
何が? そう聞き返す暇はなかった。さすがにここまでくれば、早太にも曲者が来る気配は感じ取れた。足音を消そうとした数人の気配が、背後から真っ直ぐこちらへと近づいてきている。
「そこまでだな」
案の定、すぐに彼らはやってきた。そこでようやく振り返った早太は、黒装束に身を包んだ男たちを視界に収めた。はっきり言って怪しい。少なくとも昼間に出てくるべき輩ではない。
誰も彼らを怪しく思わなかったのだろうか? そう思って彼らの手元を見ると、そこには数枚の札が握られていた。なるほど、何らかの術を使ってきたのだろう。術師でない早太にはさっぱり予想ができないが。
「あら、私が時雨組だってわかってて、喧嘩売る気?」
振り返った琴はそう言って楽しそうに笑った。その横顔は普段見る彼女とは違い、完全に仕事をする時の顔だった。不敵な笑顔に余裕綽々の口振り。まだ若い彼女が纏う空気としては不釣り合いなものだ。もっとも実力がそれ相応なことを早太は知っているから、違和感はないのだが。
「なーに、お前一人じゃ俺たちには勝てないさ」
「そう、それは残念だわ。せっかくわかりやすく羽織りまで着てやったのに、銀の髪につられてくるなんてね。お馬鹿さんだったみたい」
「な、に――!?」
「だってそうでしょう? 女だからって馬鹿にしてるんだから」
琴の手には、いつの間にか札が握られていた。ふと見れば千鳥の手にも札があった。戦闘準備万端なのだ。つまりこういう事態には慣れてるってことなのだろう。札師が狙われやすいとは聞いていたが、ここまでとは知らなかった。これではゆっくり買い物もできない。
「早太は千鳥の援護お願い。ここ狭いから背後気をつけて」
「お、おうっ」
琴の忠告に早太はうなずいた。相手は四人。だが琴にかかれば多くはない数だろう。気をつけるべきはまだ身長と体力のない千鳥がさらわれないように、というくらいだ。そしてそれは早太に課せられた役目。
「来るわよっ!」
鋭い琴の声が合図となった。男たちは一斉に彼女へと向かって突き進んでくる。誰かが抜け出さればいいというところか。しかし、そう簡単に彼女が出し抜かれるはずがなかった。
「水よっ」
彼女の叫びに呼応して、何もない空間から吹き出した水が二人の男を絡め取った。悲鳴と同時に、そこらに立てかけてあった竹の棒が倒れる音がする。これで二人の足は止まったし、残りの二人への牽制にもなった。さすがは琴だ。一方松の木からもらった爆薬が使えないため、早太はこの場ではあまり戦力にはならない。
「よしっ」
札を構えた千鳥を、早太は軽々と担ぎ上げた。足代わりというのは微妙な気持ちになるところだが、もう慣れたものだ。躊躇いはない。その間にももう一人の男に、琴は肘鉄をお見舞いしていた。その男はさらに残りの一人も巻き添えにして、派手に地面を転がっていく。狭い道では彼らも、立ち上がるのさえもたついてるようだった。
「琴ねえ!」
千鳥の札の文字が光った。と同時に地面から草が伸びてきて、転がった男たちの足に巻き付いた。早太はその間に腰につるしていた紐を手に取り、男たちの傍へと駆け寄っていく。持って行けと琴が言っていたのはこのためだったのだ。草に足を巻かれた男たちに跨り、早太は手際よく紐で縛り上げていく。
「これで最後よっ!」
ふと見れば琴はいつの間にか、最後の男と対峙していた。その横には気を失った男が一人、間抜け面で倒れている。おそらく術でやったのだろう。水で顔面を覆うという想像するだけで嫌な攻撃を、以前琴は使っていた。それに違いない。
桶が転がる、耳障りな音がした。見れば最後の男は、無様にもその横に倒れ伏していた。その足を踏みつけながら、琴は男の手首を捻り上げている。着物の裾から覗く足から慌てて目を逸らし、早太は今縛り上げたばかりの男を引きずるように立たせた。それを合図にして、千鳥が早太の上から飛び降りてくる。これでもう終わりだ。
「あっけなかったわね」
「うん、弱かったね」
琴が苦痛に顔を歪めた男を縛り上げていると、千鳥がその横へと走り寄っていった。本当にあっけなかった。ただし、それは琴がいたからだろう。彼女がいなければ苦戦していたはずだ。ほとんど早太は何もしていなかったのだし。
「……琴」
「ん?」
「いつもこんなことしてるのか?」
うめく男たちを引きずるようにしながら、早太も琴へと近づいた。同じく男を無理矢理立たせた琴は、振り返ると不思議そうに小首を傾げてくる。それはそこらの娘たちと何ら変わりない、素朴な表情だった。先ほどの戦いが嘘のようだ。
「こんなこと?」
「その、休みの日でもこうやって狙われて、そんでもって捕まえてるのかって」
早太はわずかに視線を逸らしながら、そう言葉を続けた。今まで早太は、仕事の時くらいしか千鳥と一緒にいなかった。いや、あの長屋や頭のいる本拠地では一緒にいることもあった。が、千鳥と一緒にどこかへ出かけるということはなかったのだ。だからまさかこんなに札師が狙われやすいものだとは、思ってもみなかった。
「ああ、そのこと。それなら心配いらないわ。いつもは竜がいるから、そんなに頻繁にはないもの」
「は?」
「藍の羽織着た男がね、周りに睨み聞かせてたら普通は襲ってこないのよ。その辺が早太はまだまだよねえ。だから羽織着てけって言ってたのに、何恥ずかしがってるんだか。ま、これで四人片づけられたからいいんだけどね」
しかし琴は気楽にそう説明すると、笑顔で片目を瞑った。なるほど、それで合点がいった。休日のはずなのに羽織が欠かせないのも、準備に時間がかかるのも全てそのためなのだ。もしかしたら千鳥が早太についてこいとねだったのだって、その辺りを考えてのことなのかもしれない。ある意味用心棒だったわけだ。
「そう、なのか」
だとすれば心底すまないと、早太は思った。ただ竜と比べられたことだけには、何故だか少し苛立ちを感じた。竜の方が二、三は年上だろうし、時雨組としての経験も全く敵わない。けれどもどうも負けたくないのだ。自分の失敗は認められても、彼と比較されたくはない。
「そうそう。悪党の目的なんて、全て札か札師だと思ってかまわないわ。少なくとも私たちが相手にする悪党はね。だから油断なんてしてられないのよ。ま、これも修行の一環だと思っておいて。ね、早太」
けれども、いや、だからこそ、そう告げる琴には深々とうなずくことができた。今日の件も修行だと思えばいい。そうすれば、少なくともこのもやもやを晴らすことはできる。何故もやもやとするのかはわからなくても。
「じゃ、仕方ないからこいつら連れて頭の長屋に行きましょうか。帰ってくるまで待ってないといけないのが、嫌なところだけどねえ」
琴は歩き出しながらそう言うと、心底嫌そうにため息をついた。千鳥はそんな琴の羽織を掴みながら、無邪気に飛び跳ねている。たぶん頭に会えるのが嬉しいのだろう。琴とは違って千鳥は彼にも懐いてるのだ。
結局は休みもつぶれたな。
そう思って苦笑しながら、早太は二人の後を追った。後でお詫びに何か買おうかと、そんなことを考えながら。