white minds 第二部 ―疑念機密―

第六章「疑惑と覚悟が交わりて」5

「ええ、わかってる」
 立ち上がったリンは、すぐに走り出した。シンも追った。幸いにも、基地の方から仲間たちの気が近づいてくるのが感じられる。怪我人の救助はそのうちの誰かが担ってくれるだろう。そう信じることにする。
「人数増えてない!?」
 指さすリンの声が、通りに反響した。石畳を蹴る靴音がやけに耳障りに響く。この時期でも雪のない地域なのは不幸中の幸いか。しかし風は冷たかった。頬に突き刺さる冷気が、焦燥感をさらに煽る。
「この野郎!」
 もみ合いの中で突き飛ばされた若者が、転がるのが見えた。シンは慌ててその男の元に駆け寄る。シンと同じくらいの年頃の、細身の青年だ。頭を振る男を助け起こせば、かすれ気味な呻き声が鼓膜を揺らした。
 着込んでいたおかげで擦り傷などはなさそうだが、どこか打ち身をしている可能性はある。「大丈夫ですか」と呼びかけると、今度は別の女性が逆方向へ突き倒されるのが見えた。まだ若い、十代の少女のように見える。
「嘘だろっ」
 思わず声を漏らしながら、シンはもみくちゃとなっている集団へ視線を向けた。リンの言う通り、先ほどよりも人数が増えているように見える。どこからか誰かが合流したのか? それとも止めに入った者たちか?
 リンはその中へ飛び込むべきか否か逡巡している。技がむやみに使えないとなると、彼女の体重や腕力では突き飛ばされるだけだからだろう。
 その時、左手に強い気配が生まれた。その得も言われぬ冷たさには覚えがあった。青年の背を支えながらシンはそちらへと視線を転じる。背筋をぞくりとした感触が駆け上がっていった。
「リン!」
 強く名を呼ぶが、喧噪のせいで届いたかどうか判然としない。さらに叫びたくとも、口の中が乾いてうまく声にならなかった。
 この青年を放り出して走り出すべきだ。そう思うのに、咄嗟に体が動かなかった。そうしている間に、ぶわりと広がる強い気。――これは魔族のものだ。
 大きくなる怒号のせいで音が聞こえなかった。それでも何かの技が、生み出された気配がした。この距離、この位置ではシンが結界を生み出しても無意味だ。
 それでもどうにか動き出そうとしたところで、リンの気が膨れ上がるのが感じ取れた。はっとして視線を向ければ、転がった少女の前に立つリンの手から、空気の流れが生まれるのが見える。
 それは左手で明滅した赤い光の方へ向かった。大判の布でいなすように、うねる風が赤い光球を絡め取る。見えない手で持ち上げられた球は、虚空で爆ぜて火花を散らした。
「炎系かよっ」
 思わずシンは悪態を吐いた。こんな場所でそんな技を使えば何が起こるのか、理解できない人間などいないだろう。いや、今のが本当に魔族のものだとしたら、あえて炎系を選んだのか。
 青年の体を石畳の上に横たえ、シンは立ち上がった。魔族がどこから現れたのかわからないが、危険な事態には間違いない。このままでは確実に怪我人が増える。それら全てが、技使いのせいにされかねない。
 駆け出そうとしたシンは、見知った気が近づいているのに気づき空を仰いだ。これはラフトたちフライング、それにゲットの気だ。応援に来てくれたのだろう。
 結界の準備をしつつ、シンは視線を走らせる。集団の一部が今の炎球に気づいて動じている。恐慌状態に陥りかねない雰囲気だ。
 リンは少女を庇いながらも、周囲の気に集中しているようだった。攻撃の気配があれば即座に対応するつもりだろう。
 しかし、魔族らしき者の姿が見当たらない。またあの転移を使ったのか? そうだとしたら厄介だ。
「何なんだよこれは!」
 誰かが野太い声で叫んだ。それが、人々への最後の一押しとなった。一定の動きをしていた集団の統率が崩れる。蜘蛛の子を散らすよう駆け出す者が現れると、あちこちから悲鳴が沸き起こった。
 突き飛ばされた者が踏みつぶされそうになり、手足をばたつかせる。その手がまた別の者の足を引っ掛け、転倒させる。眼を見開いたシンの足は、その場に縫い止められた。
「どけ!」
 そのうちの一人が、シンの横をすり抜けようとした。大男に胸を強く押されたシンは、一歩後退して顔をしかめる。その間にも、我先にと走り出した人々が四方へ散っていく。通りの人間は完全に混乱の中にあった。
 刹那、背後で新たに強い気が生まれた。大男が向かった方だ。鼓動が跳ねる音を聞きながら、シンは慌てて振り返る。
「待てっ、そっちは!」
 大声を張り上げるも、遅い。手を伸ばしたシンの目に、フードを被った青年の姿が映った。確かに先ほどまでいなかったはずの者だ。その手に生みだされたのは赤い球。炎系だ。
「危ない!」
 叫びつつシンは結界を生み出そうとする。しかし走る大男が狼狽えたせいで、結界の位置を定められない。シンは歯噛みした。ばくばくとなる鼓動が頭の奥まで響く。このままでは間に合わない。
「戻れ!」
 絞り出したシンの叫びに、誰かの唸るような怒声が重なった。同時に左手から大男に飛びつく影が見えた。――この気はラフトだ。
 そう認識するや否や、シンは結界を生み出した。間一髪、透明な膜が赤い球を防ぐ。弾け飛ぶ火花の残渣が視界を焼いた。石畳へと落ちた火の粉が、焦げ付いた臭いを漂わせる。
 シンはそのまま転がるラフトたちへと駆け寄りながら、フードの青年へと一瞥をくれた。邪魔されたことがわかってもなお、青年に動揺はない。まるで何かの儀式のように、また技を生み出そうと精神を集中させている。
 再度結界を生み出すべく、シンは足を止めた、と、今度は背後で人々がわめく声が聞こえた。何事かと思えば、人々の中心に突如として気配が現れる。この強さ、冷たさは、おそらく魔族の気だ。
「もう一人!?」
 振り返ったシンは大きく舌打ちした。通りの向こうに、黒いフードを被った小柄な男がたたずんでいた。虚空より現れた男に驚いたのか、人々が逃げ惑っている。
 その中で唯一落ち着き払った黒フードの男の手に、黄色い光が集まった。まさか雷系か? やはり魔族はあえて目立つ技を使っている気がする。
「冗談だろうっ」
 一体どれだけの数の魔族が潜んでいたのか? それもどこに? 叫び出したくなるが、今は考える暇も惜しかった。
 シンが精一杯手を伸ばせば、不完全ながらも人々を守るよう結界が生み出される。その透明な薄い膜が、黄色い光球を受け止め、弾いた。
「っつ」
 しかし消滅させるまでには至らない。弾かれた光球は三つに爆ぜ割れ、その一部が隣家の壁を直撃した。鈍い音と共に、人々の悲鳴が大きくなる。どこへ逃げたらよいのかわからなくなった者たちが半狂乱になっていた。
 まずいとしか言いようがなかった。炎系の使い手はラフトに任せるとしても、黒フードに近づけなければ意味がない。
 しかし走り寄りたくとも、こちらへ逃げてくる人々が邪魔だった。次の技が放たれる前に何とかしなければならないのに、ろくに前に進めない。しかしまさか何も知らぬ人間を脇へ突き飛ばすわけにもいかなかった。
 すると、さらに後方で甲高い声が上がった。ラフトたちの方だ。嫌な予感がしたが、ここで黒フードから目を離すわけにもいかなかった。近寄れないなら、相手の動きにあわせて結界を張るしかない。
「カエリ!」
 人々の叫声に混じって、ラフトの声が空気を揺らす。ついで感じ取れたのは気の膨らみ。あちこちで生み出される技の気配。
 ――もう、それら全てを追うのは不可能だった。仲間たちの気も増えているのに、それ以上の問題が生じている。
「何なんだよっ」
 悪態を吐くのを止められなかった。何かの焦げ付く臭いが、またシンの鼻につく。誰が動けているのか? 怪我人は出ているのか?
 大体、人目のあるところで魔族を倒してよいものなのか。そういう躊躇もあった。何も知らぬ人間の目に留まれば、人殺しと勘違いされかねない。
 きっと事情を知らぬ者の目には、技使いが殺し合っているようにしか見えないだろう。それはまずい。ならば、できれば人々を避難させてからにしたいところだ。
 黒フードがちらとこちらを見遣るのがわかった。その鋭い眼光に続いて、憎悪の気がシンへと向けられる。フードの影では、藤色の髪が揺れていた。
「どうしろっていうんだよ」
 小さく独りごちながら、シンは一歩前へと進んだ。泣きわめく誰かがが横を通り過ぎるのを待ち、精神を集中させる。
 魔族の死体は残らない。彼らは光となって消えるのみ。その事実をふいと思い出した。つまり、人々の死角へと押し込むことができれば、言い逃れはできる。その瞬間を見られなければいいわけだ。
 ただしそのためには、ぎりぎりまで接近する必要がある。
 再び黒フードの手から黄色い光弾が放たれようとする。その手の動きにあわせ、シンは結界を生み出した。今度は完璧だった。ばちっと空気を裂くような音と共に、それは弾け飛ぶ。
 単調な技しか使わないのは何か意図があるのか? わからないが、今はとにかく魔族の動きを止めなければ。
 腰から下げた剣の柄に手をかけ、シンは強く石畳を蹴った。人の流れを読みつつ、剣を引き抜く間をうかがう。と、黒フードがこちらへと向き直った。接近戦は苦手なのか? 一歩後退しようとするその男を、シンはねめつける。
 男の手が動いた。いや、掲げられようとしたところで、その手が止まった。同時に左手で強い気が生まれた。――これはリンの気だ。彼女が何か仕掛けようとしている。
 男の注意が逸れた一瞬を、シンは逃さなかった。黒フードに向かって思い切り体当たりすると、その細い体は思ったよりも容易く吹っ飛ぶ。壁際へと転がった男を追いかけて、シンはそのまま跳躍した。
 石を擦る耳障りな音がする。フードがはずれ、長い藤色の髪が辺りへと広がった。それでも顔を上げた男の双眸は、ぎらついた光を宿らせていた。ぎっと睨み上げてくる眼差しを真正面から受け止め、シンは剣を引き抜こうとする。
 しかしそうする直前で、またもや背後で悲鳴が上がった。今度は子どものものだった。はっとしたシンが振り向くのと同時に、脇腹に衝撃が走る。
 逆に体当たりされた。そう理解したのは、走り去ろうとする後ろ姿が目に入った時だった。頭を振りながらもシンは呆然とする。
 信じがたいが、フードを被り直した男は逃げ惑う人々を追うよう駆けていった。だからといって技を使う様子もない。まさか逃げるつもりか?
 片手をついて上体を起こせば、通りにいる人の数が減っていることに気がつく。皆思い思いの方向へと散っていったらしい。残されているのは怪我をしている者や、他の人間に突き飛ばされた者ばかりだ。
「シン先輩!」
 そこで突として梅花の声がした。慌てて視線を転じると、駆け寄ってくる梅花の姿が見える。気を探れども、近くに青葉の気配はない。
 眉間にしわを寄せたシンはどうにか立ち上がった。幸いにも脇腹に痛みは走らなかった。本当に体当たりされただけらしい。
「梅花」
「今イダーの長に動いてもらっています。シン先輩は怪我人を連れて長のところへ向かってください。この通りの先です」
 シンの様子を確かめるよう視線を巡らしつつ、梅花はそう告げた。一人ということは彼女は直接宮殿からこちらに向かってきたのか? 頷きながらもシンは眉をひそめる。
「でもいいのか? まだ魔族が」
「ここで武器を出すのはまずいので、まずは精神系が使える私たちで何とかします。私では怪我人を運べないのでよろしくお願いします。リン先輩の技なら、複数人でも運べるはずですし」
 なるほど、そういうことか。シンは首を縦に振った。確かに、明らかに武器とわかる物を使用するよりは、その方が目撃されたとしても弁明しやすい。
 それに、追い込むことができたとしても、今のように人目を気にしながらとどめを刺すのはかなり骨が折れる。
 ならば一刻でも早く人々の避難を終わらせた方がよい。そういうことだろう。こういう時でも適材適所だ。
「わかった」
 それでもざわついた心は静まらなかった。シンの脳裏には、去って行く黒フードの姿が鮮明に焼き付いて離れなかった。

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