white minds

それはたった三日だった‐2

 静かな廊下をしばらく進めば、目的の部屋が目の前に見えてきた。アースを含めアスファルトの手によって生み出された彼らは、皆そこでしばしの時を過ごしていた。もっとも彼自身にその記憶はなく、ただカイキたちがそこから出てくるのを見ただけだった。アスファルトは、彼らを誰もその部屋には入らせなかったからだ。足を踏み入れることができるのはアスファルトとユズだけで、アースは一度も入ったことがない。
「今になって、か。もう少しで目覚めるからか?」
 禁断の部屋を目の前にして彼は一度立ち止まった。後ろを振り返り誰もついてきていないことを確かめると、数回深呼吸する。許しは得ているのだから何も問題はないのだが、それでも不思議と緊張してきた。だが立ちすくんでばかりもいられない。彼はゆっくりとその扉を押し開けた。予想していたより重いそれは、音もなく開いていく。
「殺風景だな」
 天井から床、壁まで、他の部屋と同じくそこは灰色に覆われていた。巨大な硝子瓶を思わせる装置が脇には並んでおり、そこから伸びたコードが床の上を這っている。研究室という言葉が一番しっくり来る部屋だった。だが目的の少女は見あたらない。仕方なくもう一度部屋を見回せば、奥の壁の隅に小さな扉がついているのが見えた。彼は真っ直ぐそこへと近づいていく。
「用心してるのかしてないのか……」
 つぶやきながら彼はその小さな扉を開いた。そこは、部屋と呼ぶには小さな場所だった。生暖かい空気が充満した灰色の箱の中、とでも表現すべきか。天井はすぐそばにあって、背の高いアスファルトなら頭がつくのではと思う高さだ。そこに寝台とおぼしき台が五つ並んでいる。だが使われているのは一番奥の一つだけだった。他は黒い表面がむき出しで、シーツ一つかかっていない。
「ここか」
 彼はゆっくりとその奥の寝台へ近づいていった。軽く足音が響き、いっそう静けさを引き立たせる。その寝台には一人の少女が横たわっていた。それを目にした彼は、息を呑んで立ち止まる。
「レー……ナ?」
 唇が勝手にその名を紡ぎ出した。誰もいない部屋で自分ともう一人、眠ったままの少女へと視線は固定されてしまった。しかしそれ以上は近づくことができずに、彼は立ちつくす。
 寝台の上に寝かされた少女は、確かにカイキたちの言う通り整った顔立ちをしていた。手首と手足に付けられた銀の輪がなければただ眠っているだけのように見える。呼吸は穏やかで、シーツに隠れた胸が静かに上下していた。小柄な少女だ。
「アスファルトは、あいつはどういう基準で選んでるんだ。こいつは、どう考えても、戦えるような奴じゃあないだろ」
 一歩一歩、アースは寝台へと寄った。近づけばさらにはっきりとわかった。少女は綺麗だ。瞼は固く閉ざされているが、それでもわかる。黒く艶やかな髪は長く、腰までありそうだった。それが今は白いシーツの上で波打っている。
「可愛いとか可愛くないとか、そういう問題じゃない」
 寝台の傍まで来た彼は、彼女の顔を覗き込んだ。どう見ても二十歳を越えない華奢なその少女は、穏やかな寝息を立てている。守らなければならない気にさせる外見だった。彼はおそるおそるその頬へと手を伸ばす。すると指先が一瞬だけ触れた。驚いて一歩離れると、彼は自分の胸を片手で押さえる。
「温かい……。本当に、目覚めるのか?」
 起きて欲しい。いや、起きて欲しくない。複雑な気持ちが胸にわき起こった。目覚めなければアスファルトたちはひどく落胆するだろう。しかし、彼女をこの争いの世の中へと引きずりだしたくもなかった。この少女が悲しみに顔を歪めるのを見たくない。
 そう、傷つけたくない。
 彼はもう一度その頬に触れた。そして誘われるように、そっと唇に口づけた。生きていると告げるような温かな唇は、不思議と甘く柔らかい。癖になりそうな感触だった。だが突然はっとして彼は慌てて上体を起こした。意識した途端心臓が高鳴り、手のひらに汗がにじむ。
「わ、われは何やってるんだっ」
 何のためにここへ来たのか、彼は思い返した。そして何故自分が選ばれたのかもはっきりと思い出した。
「これではカイキたちと同じではないか」
 額に手を当てながら、彼はアスファルトから渡された紙に目を落とした。早く全てを確認してこの部屋を出よう。ここにいるのは危険だ。彼は自らに言い聞かせながら深呼吸を繰り返す。
「どうかしてる」
 紙を胸元に掲げながらもう一度少女を見下ろすと、ほんの少しだけ落ち着いた。彼女はまだ眠っているのだから、このまま口を閉ざしておけば誰もこの事実を知ることはない。アスファルトの信頼も失われないはずだ。
「そう、大丈夫だ」
 眠る彼女を見つめながら、彼はそう自らに言い聞かせ続けた。それでも手にした紙はほんの少し震えていた。




 アスファルトへの報告を終えたアースは心底ほっとしていた。誰も何も疑ってさえいない。可愛かったかとイレイに聞かれてうなずいた時は驚かれたが、幸いにもそれだけで終わった。だから言ったでしょうとユズは胸を張り、カイキたちはさらに想像を働かせていた。だからアースは安堵した。
「日頃の行いだな」
「え? アース何か言った?」
「あ、いや何でもない。そうだ、この間イーストがまた来るみたいなことを言っていたが、いつの予定なんだ?」
 首を傾げるユズへと、彼はそう尋ねた。話は逸らすに限る。ほんの少し良心が痛んだがあれは気の迷いだと思い込むことにした。湿度の高い暑い部屋が悪いのだと。
「早ければ明日来るわ。あ、そうだアース。ちょっと話があるんだけど」
 そこで途端にユズが深刻な顔になり、彼は眉をひそめた。彼女がそう切り出す時は大概よくない話の時だ。そうでなければイレイたちも呼ばれるはず。話に花を咲かせるネオンたちを横目に、アースはユズの傍に寄った。
「この間の話、覚えてる?」
「この間というと、ここを出ろという話か?」
「そう、それ。イーストが一昨日また助言していったのよね。そろそろまずいって。ラグナたちが実力行使に出る前に決意固めろってさ」
 小さくなるユズの声に、アースは視線を落とした。その話なら前からずっと耳にしていた。耳にしていたが実行したくないことだった。ここを離れて人間たちの中に紛れ込むなど考えたくもない。
「ユズたちはもう決心したのか?」
「私は……イーストの言う通りだと思うわ。このままなら確実にラグナはあなたたちを殺しにくる。適当な理由をでっち上げてね。レーナが目覚めればすぐにここへやってくるわけだし」
 レーナ。その名前を聞いて彼は顔を上げた。だが彼女の神妙な眼差しを真正面から受け、彼は一瞬口を開くのを躊躇する。
「あいつは、それでレーナは大丈夫なのか?」
 しかし何とかそう口にした。彼らは今まで何度も人間のいる星々を訪れたことがあるから、その中でもどうにかこうにか生きていくことができるだろう。たとえ魔族に追われたとしても逃げ切る自信はある。だがレーナはどうなのか。目覚めて間もない頃は赤ん坊のようなものなのだ。普通には生きていけない。
「目が覚めたとしてもレーナはおいておくわ、ここに」
「ここに? 大丈夫なのか?」
「ええ、彼女はプレインにもラグナにも目をつけられてないからね」
 ユズの答えにほっとするものの、しかし胸の奥底には苦い何かも横たわっていた。レーナがこのまま眠ったままならば一度も顔を合わせることなく離れることになるし、目覚めたとしてもすぐに別れなければならない。それはどちらにしろ胸が痛かった。
「アスファルトは……何て言ってるんだ?」
「渋ってたわね、かなり。でもイーストだけじゃなくレシガにも言われたら、たぶんあの馬鹿も断れないわよ」
 尋ねればユズは嘆息しながらそう答えた。そうかとだけつぶやいて、アースは視線を逸らす。
 ユズが悪いわけでもアスファルトが悪いわけでもないから、二人を責める気にはなれなかった。何も知らなかった頃不用意な発言をした彼らがいけないのだ。そしてそのことを根に持ち続ける五腹心二人が。
 もしどうしてもここを出なければいけないのなら。
 俯くユズの横顔を一瞥して、彼は瞳を細めた。彼女も苦しいのだと一目でわかる表情だった。散々苦しんできた者がさらに苦悩する時の、諦めにも似た表情。
 彼らが死ぬようなことになれば二人はさらに悲しむだろう。悲嘆にくれるだろう。そしてそれは残されたレーナにも影を落とすだろう。それだけは避けたい。
 ならばせめてあの少女とは会わずにここを出ていきたい。
 たわいのない話を繰り返すネオンたちを、彼は横目で見た。その無邪気な様子が今までにない程に羨ましかった。


 けれども必然か偶然か、時は皮肉にも交わる。

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