white minds

それはたった三日だった‐5

「あの子は本当に不思議な子ね」
 ぼんやりとユズが口にした言葉に、アースは深々とうなずいた。いつもなら誰か彼か騒がしい人がいる研究室には、今は彼と彼女しかいない。
 理由はレーナだった。
 彼女の状態を、能力を確認すればする程混乱が生じる。異常な精神量もそうだが『ビートブルー』のことも謎だった。調べれば調べる程疑問が増えるという、泥沼にはまりこんだような状況なのだ。
「そうだな」
 答えながらアースは、ユズの持つ妙な機械を視界の端で確認した。精神を波長として表すというその機械は、抱えられる程度の箱にスイッチと画面がついてるだけ。実に簡素な見た目だった。しかし魔族界でも神魔世界でもおそらくは神界でも、今そういった機能を持つ機械は他には存在しない。アスファルトの発明品の一だが、知られていないだけでとんでもない代物なのだ。もっともアスファルトは大したことないと考えているようだったが。
「まさかこれがアルティードと同じ反応を示すなんて」
「それは……確か神の一人だったよな?」
「ええ、そうよ。七人として別々の姿をとることも、一人の姿をとることもできる珍しい神。時折そういう人が魔族にも神にも生まれるって聞くけど、私が知ってるのは彼だけね。それがねーまさかあなたたちに」
 ユズは機械の表面を撫でながらアースを一瞥した。アースはどう答えるべきかわからず、どうとでも受け取れる微笑をかろうじて浮かべる。
 単に『合体する』という共通の意思を持つだけで、彼ら五人は一つの姿をとることができた。アース自身にはどんな姿なのか見えるわけはないが、ユズたちの言うところによれば青い髪に青い服を纏った青年なのだという。だがアスファルトは、そんな能力をつける予定はもちろん、そんな能力があることさえ知らなかった。偶然生まれた能力。それは危険ではあるが、研究者としては興味をそそられるものらしい。今彼は別の部屋でレーナの精神を丹念に調べていた。
「ビートブルー、か」
「変な名前よねー。聞こえたんでしょう?」
「いや、われは聞いていない。聞いたのはレーナだけだ」
 アースは首を横に振った。能力の行使中に、彼女はかすかに音が聞こえると言った。それは言葉ではなく音なのだと言うが、無理矢理唇に乗せれば『ビート』と『ブルー』なのだそうだ。だからアスファルトは青髪の男の名をビートブルーと呼ぶことにした。それは男の名前であると同時に、能力の名前でもある。
「本当不思議な子。でもこれだけ色々あると、プレインが無茶なこと言ってきそうよね。やっぱり少しでも早くここを出るべきだわアース」
 しかし能力へ向けられていた彼の思考は、ユズの放った言葉によって辛い現実へと引き戻された。彼は唇を軽く噛み、視線を落とす。
「苦しいのはわかるけど、何かあった後じゃあ遅いのよ」
「わかってる」
「明日にはイーストが来るわ。ひょっとしたらレシガも。私はその間神魔世界へ出てるから、あなたたちも一緒に出ましょう。一時的な居場所なら確保できるから」
 ユズの提案にアースは相槌を打った。いきなりこの研究所を飛び出すのは大変だが、しばらくユズが『外の世界』の対処の仕方を教えてくれるなら心強い。
 だがここを出ればアスファルトには、レーナにはもう会えない。
 その事実が彼を打ちのめしていた。おそらくカイキ、ネオン、イレイに話しても動揺するだろう。嫌だと駄々をこねられるかもしれない。住み慣れた場所を離れるのは辛く、大切な者たちと別れるのは誰だって悲しかった。普段はそんなそぶりを全く見せてはいないが、アースとてそれは同じだ。
「ああ、じゃあ明日の朝にはたとう」
 けれども彼はそう答えていた。彼らがここに残り万が一五腹心に殺されるようなことがあれば、アスファルトは深く傷つく。もちろんレーナやユズもだ。無論素直に殺されてやるつもりはないが、五腹心に本気で狙われれば無事ですむとは思えなかった。
「今日中にカイキたちには話しておく」
「お願いね。私は下準備をしておくから」
「すまない」
「何言ってるのよ、息子同然なんだから」
 ユズは悲しみを押し殺していつものように笑った。あわせてアースもできるだけ軽い調子で笑った。
 息子なのか弟なのか、何にしろ家族なのだとことあるごとに彼女はそう言っていた。いびつで不可思議な家族だ。だがそこに別離が迫っている。
「あ、そうそう。これ渡すの忘れてたわ」
 すると歩き出しかけたユズは立ち止まり、くるりと振り返った。アースが怪訝そうに首を傾げると、彼女は腰に下げていた小さな包みから一枚の紙を取り出す。
「この間精神データ化した奴。ほら、よく撮れてるでしょう?」
「あー人間の言う写真って奴か」
「違うわよ、私の技によるものなんだから。もっと上のレベルよ」
「相変わらず自信たっぷりだな」
 アースは笑いながらその紙を受け取った。レーナの検査が終わった後、記念にとユズが言いだして撮影したものだ。カイキもネオンもイレイも、無論レーナも何の記念なのかわからなかったためだろう、嬉しそうな顔をしていた。彼ら七人が確かにこの研究所に揃った記念になるのだと、四人はまだ知らない。
「アスファルトはまた複雑そうな顔をしてるな」
「記念なんだからこういう時くらいいい顔すればいいのにねー。さすが馬鹿だわ、繕うことすらしないなんて」
「それはわれもだ」
「あーアースはそれが普段だと思われてるからいいのよ、まだ。じゃあ他の人にも渡してくるわね」
 ユズは苦笑をもらしながら、今度こそ行くと言わんばかりに手を振ってきた。アースはその姿を目の端で追い、小さくうなずく。
「記念、か」
 手元を見下ろして彼は皮肉そうに口の端を上げた。暗く重たい気分は、どうにも晴れそうになかった。



 歩きながらも振り返ったアースは、そこで一旦足を止めた。灰色の研究室を背にして立つ二人を、もう一度視界に収める。
「どうかしたのか? アース」
 するとそう尋ねてきたのは視界のうちの一人、アスファルトだった。微苦笑を浮かべるその姿は、隣のレーナと比べて妙に浮き上がって見える。森を宿したような緑色の髪もその一因かもしれないが。
「アース?」
 背後では同じく立ち去ろうとしていたネオンたちの足音が途切れた。アースは首を横に振り、かすかにわかる程度に微笑む。
「いや」
「そんなこと言って、アースもやっぱり嫌なんだよなあ。なあ、やっぱりこんなこと止めようぜ? オレたちが外で生きていくなんて無理だぜ絶対」
 しかし近寄ってきたカイキはアースの肩を叩くと、ため息混じりにそう言った。アースはどう答えるべきか迷い、結局カイキの手を払いのけるだけにする。
 早朝、彼らはイーストたちが来る前にと研究所をたとうとしていた。
 カイキたちを説得するために時間がかかったが、しかし何とか朝までには間に合った。イレイは今も涙ぐんでいるし、ネオンも仏頂面だ。もちろんカイキも発言通り完全に納得はしていないのだろう。だがここを出なければならないのは避けようのない道だった。カイキの棘のある視線を横目に、アースは肩をすくめる。
「何だよアース!」
「これ以上迷惑かけたいのか、お前は」
「なっ――」
「プレインが、ラグナが来たらどうする? 何度も言っただろう」
「だけどよ……」
 アースは冷たい言葉を口にして、今度はゆっくりと首を横に振った。振り返った自分が悪いとわかっているからなおさらに、カイキの動揺が胸に痛い。
 それでもどうしても目に焼き付けておきたかったのだ。アスファルトの姿を、レーナの姿を。もう二度と目にすることのない者たちを、しっかりと覚えておきたかったのだ。たとえ未練がましいと思われても。
「アース」
 すると今度はレーナが数歩近づいてきた。どきりとした彼は小さく息を呑み、それなりに身長差のある彼女を見下ろす。
 彼女は、穏やかに微笑んでいた。目覚めてすぐ出会った時と変わらぬ、温かでしかし切なさを内に秘めた微笑みは、目を離せないものだった。目覚めて一日もたっていない少女の浮かべるそれではない。あらゆる事情を知り抜いた者が浮かべる、親愛を告げる表情だった。
「ありがとう」
 しかも彼女が口にしたのはその一言だけだった。何に対する言葉なのかわからずに、彼は目を丸くする。
「レーナ?」
「会えてよかった。だから大丈夫、心配しないで」
 彼女はそう言うと頭を傾けてまた微笑みかけてきた。時間をかけて咀嚼しその言葉を飲み込むと、彼は小さくうなずく。もし彼女が手の届く範囲にいれば、触れていただろうと予想できた。天真爛漫なはずの彼女が時折見せるこうした顔は、彼に妙な感情を生じさせるのだ。
 一人にしておけないという感情を。
「ああ、アスファルトがいるしな」
 けれども彼はそう口にするだけに留めた。彼女は一人ではない。しかもいずれユズも戻るのだから、何も心配はないはずだった。むしろ心配されるのは彼らの方だろう。五腹心がしつこく狙ってくるとは考えにくいが、それでも可能性はゼロではない。
「アース、そろそろ。神魔世界でも朝になるし急がないと」
 そこでユズが遠慮がちに声をかけてきた。この研究所は魔族界と神魔世界の狭間に建つという、妙な造りをしている。今彼らがいるのはその神魔世界側の出入り口だ。普段は閉じられているがほんの一時だけ開いてもらっている。だが長くそうしているわけにもいかない。
「そうだな。じゃあ行くぞカイキ、ネオン、イレイ」
「最初に止まったのはアースじゃねぇかよ!」
「あーあ、仕方ないかあ」
「僕、絶対ここのこと忘れないからね。だから元気でね、アスファルトもレーナも」
 研究所を背にしてアースが歩き出すと、三人は思い思いの声を上げた。ユズの気遣わしげな視線はあえて無視する。この不可思議な彼の心境にも彼女は気がついているのだろう。神の中でも『心の神』と呼ばれる者なのだから。
 感触を忘れないよう一歩一歩進むその背中に、かかる声はなかった。アスファルトは何も言わなかったし、それ以上はレーナも何も言ってこなかった。聞き分けがよすぎると、アースは心中で苦笑する。どうして彼女はあれほど悟りきった表情を見せるのか、それが不思議でならなかった。いくらアスファルトたちをずっと『見て』いたとはいえ、目覚めたての者の顔ではない。
「まあ気にしても仕方がないか」
「ん? アース何か言った?」
「いや、別に」
「じゃあ宇宙に出るわよ」
 ユズが空を見上げるのにならって、アースたちも上空を見つめた。今振り返ってはいけないと念じながら、暗闇を宿した空をそっと、静かに。

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