white minds

それはたった三日だった‐8

 体を包む生暖かい何かを感じながら、レーナはまどろんでいた。いや、起きているのか眠っているのか、生きているのか死んでいるのかもよくわからない。感じるのは温度だけで周りの様子はおろか気さえ掴めなかった。
 気もわからないのだから、きっと死んでいるに違いない。
 そんなことを思いながら彼女は微笑んだ。ならば死とはなんとも温かく優しいのだろうか。触れられぬ寂しさも不安も痛みも感じない世界は、驚くほど穏やかだった。何も恐れる必要がない。
 静かだ。そう思いながらゆっくり瞼を開けても、先ほどと世界は変わらなかった。色があるのかないのかわからない世界はあらゆる感覚を根こそぎ奪われたかのようだ。もっとも温かさは感じるのだから根こそぎというわけではないのだろうが。
 そもそも自分で自分の体が思い通りに動いているのだろうか。
 するとそんな疑問が頭をもたげた。瞼を開けたつもりだが実は目をつむったままなのではないか? とにかく感覚がおかしくて、何が正しくて何が間違っているのかが判別できなかった。しかしそれなのに不安が生じるわけでもなく、ぼんやりと思考を働かせることくらいしかできない。妙な感覚だ。
 自分がいたからあいつは死んだんだ。
 けれども平穏は長くは続かなかった。突然頭の中に響き渡った言葉が、心に大きな荒波を立てた。肌が泡立つ感覚を覚えて彼女は腕を抱く。寒気までしてきた。彼女はきつく腕を抱きしめて瞼を閉じると、声から意識を遠ざけようと懸命になる。だが直接頭に響く声を無視するのは至難の業で、震えそうになる唇を強く噛むことくらいしか抵抗できなかった。血の味がにじんでくる。
 誰も幸せにしない存在など、消えてしまった方がいい。
「違う」
 自分と同じ声で告げられる言葉は、容赦なく体を切り刻んでいった。それを振り払おうと何度も首を横に振るが、声が止むことはない。胸の奥から吐き気がこみ上げてきて彼女は体を折った。今自分は立っているのか座っているのか、横になっているのかも定かではなくなる。それなのに痛みだけは鮮明で、指先から足先まで細い何かに突き刺されるようだった。
 周りを不幸にするだけの存在など消えた方がいい。
 声は響き、頭の芯がジンとしびれた。そこに込められた底冷えする感情に流されそうになりながらも、彼女は必死にそれに抗う。首を激しく横に振れば長い髪が頬に触れる感触があった。黒く長い髪はユズがいつも褒めてくれていたものだ。もっともまだレーナが『眠っていた』時の話だが。
「駄目だ、われが消えたら――アスファルトたちが悲しむ」
 すると不意に、冷たい感情を打ち消す言葉が胸の奥から湧き上がってきた。そうだ、あれだけ目覚めを心待ちにしていてくれた二人を、もう悲しませたくはない。落胆させたくはない。そう強く思いながら目覚めたのではなかったのか。動きたいと願ったのではなかったのか。
「そうだ、駄目だ」
 彼女はずっと眠っている間見てきたのだ。どれだけアスファルトが、ユズが、この存在を望んでいてくれたのかを。待っていてくれたのか。だから何があっても『消えてしまった方がいい』などと思ってはいけないのだ。それは二人の思いを裏切る結果となる。
「われは消えちゃいけない」
 そうだ、まだ死ぬわけにはいかない。
 すると頭に響く声の調子も次第に落ち着いていった。突き刺さるような痛みも徐々に治まっていき、強ばっていた体から力が抜ける。彼女はおそるおそる瞼を持ち上げた。
「あ、れ……?」
 すると目の前に広がっていたのは見慣れた灰色の壁だった。殺風景とも思える光景はアスファルトの研究所内に間違いない。側には小さな椅子が数個、無造作に投げ出されたように置かれていた。それ以外には小さな机が一個、壁際に置かれているだけだ。
「われは――」
 どうしたんだろう?
 混乱する頭で状況を把握しようと彼女は努めた。ゆっくり上体を起こせば肩からシーツが滑り落ちていく。よくよく見れば、自分が寝ていたのは簡易ベッドの上だった。黒い台に白いシーツをかぶせただけの硬いベッド。それは時折ユズが椅子代わりにしていて、アスファルトの第三研究室にあったものだった。
「何が起きたんだ?」
 彼女はそれまでの記憶を無理矢理掘り起こした。声が聞こえる前自分は何をしていたのか、どこにいたのか。そう、確かアスファルトについていった惑星で攻撃の余波を食らったのだ。そしてその巻き添えとなって、ちゃいが死んだ。
「ちゃいが、死んだ」
 口にすると、体を冷たい何かが覆っていった。涙がこぼれるわけでもないのに頭の奥がずきりと痛む。いや、痛んだのは体全体だった。一度に小さな針で全身を突かれたように、小さな痛みが瞬時にわき起こる。
「あの後、どうなったんだろう。われは気を失ったのか?」
 アスファルトの研究所に戻ってきているということは、おそらくアスファルトが連れ帰ってきてくれたのだろう。迷惑をかけたと思うと同時に、その後あの星がどうなったのかも気になった。アスファルトはちゃいの姿を確認したのだろうか。
「レーナ」
 すると予期しないタイミングで、背後にある扉が開いた。慌ててその方を見やれば、心配そうに眉根を寄せたアスファルトがファイル片手に顔を出したのが見える。現状把握に精一杯で気を感知していなかったらしい。彼へとどんな顔して返事をすればいいのかわからず、彼女はただ小首を傾げた。しかし彼は意に介した様子もなくそのまま部屋へと入ってくる。
「大丈夫か? 目は覚めたようだが」
「アスファルト、われは――」
「ああ、あの馬鹿魔族たちの巻き添えを食らったらしいな、ひどい有様だった。だがまあ、あれだけ地面がえぐれた中でよく無傷だった。結界でも張ったのか?」
 近づいてきた彼は柔らかく笑った。そしてその大きな手の平が彼女の頭へと軽く載せられる。彼女が目覚めてから彼がよくやる仕草の一つだが、しかし今ばかりは違和感の方が先に立った。彼が言っている意味がわからない。彼女は不思議そうに瞬きをした。えぐれた地面の中にいたのはちゃいであって彼女ではなかったはずだ。どうやら話からするとあの光の束は魔族の放った技のようだが、それだけでは説明できない何かがある。
「あの、アスファルト……」
「ん? ああ、覚えていないのか」
「えっと、その、ちゃいは?」
 おそるおそる核心となる問いを投げかければ、彼は気遣わしげに瞳を細めた。その様からちゃいがもうこの世にはいないことを理解して、彼女は奥歯を噛む。あれが夢であればよかったと、一瞬でも希望にすがってしまった自分が悲しかった。いや、情けないというべきか。
「星が丸ごと荒野と化したんだ、おそらく生きてはいないだろう」
 けれども彼から帰ってきた言葉は、予想とは少し違っていた。
 ちゃいの姿を、アスファルトは見ていない。
 その事実に気づき彼女はさらに混乱した。ならばちゃいはどこへ行ったのか? 動けないちゃいはどこへ消えたのか? 最後の瞬間を思い出そうとすると、意識を手放す間際に感じた熱さと何かが溢れようとする感覚がよみがえってきた。彼女は身震いする。
「レーナ?」
「あ、いや、何でもない」
「悪い、怖い思いをさせたな。神との縄張り争いなど意味のないことをしている馬鹿のせいで。もう少し休んでいればユズが帰ってくるから、それまで寝ていろ」
「ア、アスファルトっ」  怖かったわけではないと彼女は慌てて否定しようとしたが、問答無用でベッドへと寝かしつけられた。さらに落ちかけていたシーツまできっちりかぶせられる。それでも何とか起きあがろうとした彼女は口をつぐんだ。見上げた彼の表情に自責の念が見え隠れしていて、心が痛んだから。
 違う、アスファルトは悪くない。悪いのは自分だ。ちゃいを守れなかった自分。
 そう思うも口にすることはできなかった。言えばきっと彼は困るだろう。そうではないと言い、気にするなと慰めてくれるだろう。今までの彼を見ていればわかる。
 そう、愛されているから。
 立ち去る彼の背中を見送って彼女は微苦笑を浮かべた。愛されていると思えば思うほどこれ以上心配かけたくなくなるのは妙だ。こんな気持ちを隠していたと知れば彼は悲しむはず。だが、それでも彼女は言えなかった。
「われが、あの星を荒野にしたんだ」
 意識を失う直前に見た光景を、おぼろげだが思い出した。白い光、否、薄紫の光が広がると同時に、周囲の地面が破砕されていった。となると星を荒野にしたのは彼女自身ということになる。おそらくちゃいはその光に飲み込まれたのだろう。だからアスファルトは見つけられなかったのだ。あの無惨な姿を、見なくてすんだのんだ。
「なんで、われに、こんな力があるんだろう。われってやっぱり、変なのかな?」
 シーツをさらに引っ張り上げて彼女は声を震わせた。いつだってそうだ、アースたちとは違う。眠っている間の記憶もビートブルーの『音』のことも、ただ女と男の違いでは片づけられない決定的な差異がそこにはあった。
「これ以上アスファルトたちを悩ませたくない」
 つぶやいて彼女はシーツの端をぎゅっと握った。この妙な力に五腹心が気づけばどうなるだろうか? イーストやレシガは大丈夫だと言っていたが、ラグナやブラスと、プレインがどんな反応を示すかわからない。彼女もアスファルトたちを追いつめる存在になるのではないか。ありありと描ける未来が彼女の胸を締め付けた。
 二人に幸せになって欲しくて、笑って欲しくて、だから目覚めたいと願ったのに。それなのに二人を困らせる結果となるかもしれない。どうしてこうも皮肉な流れが生まれるのかわからなくて、瞳から涙がこぼれ落ちた。
 お前は我々みたいに馬鹿なことをするなよ。
 そこで不意に、苦笑を押し殺したアースの言葉が脳裏をよぎった。だが無理だ、彼女自身が変なのだ。この異変にきっといずれ五腹心は気がつく。気づかれたら最後、彼女も排除すべき存在と認定されるかもしれない。
「われ、どうしたらいいんだろう。ねえアース、どうしたらいいんだ?」
 弱々しい問いかけは、静かな部屋に染みこんでいった。彼女はシーツにくるまりながら、そのまま眠りに落ちた。

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