white minds

第二十一章 ずれ始めた心‐1

 膝程まで積もった雪の中を、リンは歩いていた。まだ踏みつけられていないその雪は、いとも簡単に足を飲み込む。ブーツでもなければ大変なことになっていただろう。どこまでも続きそうな白銀の世界に目をやりながら、彼女は自分の判断の正しさをあらためて感じる。
 その彼女の後ろには、茶色の髪を風に揺らし顔しかめるシンの姿があった。いやいやというわけではなさそうだが、それでもこの天気にはまいっているようである。彼は手をこすりあわせながら怪訝そうに口を開いた。
「そりゃ確かに新年を迎えるのに何もないってのはまずいかもしれないけど、でもこんな中わざわざ買いに行くことないだろう?」
 彼は風にうち消されないよう、大きな声でそう問いかけた。リンは一度立ち止まり、振り向き、なびく髪を押さえながら微笑む。
「でもやっぱりないと寂しいでしょ? それに、他にも買わなきゃならないものがあるのよ」
 その微笑みは不敵なもののように思えた。強い意志をともなった笑顔というのは得も言われぬ圧倒感がある。彼は観念し、彼女の横に並んだ。
「わかったわかった。とはいえこの風はやっかいだよなあ。これさえなければワープゲートまでひとっ飛びなんだけど」
「まあ私ならこの風でもひとっ飛びよ?」
 彼女の言葉に、彼は苦笑する。
「戦闘じゃないんだから精神の浪費はだめ、だろ?」
「これじゃあ体力の浪費だけどね」
 リンは歩き出した。シンはそれに歩調を合わせながら、少し考える。
 風が、また強くなった。雪が降っていないことだけが唯一の救いだろう。もし降ってなどいたら、この吹きさらしはあっと言う間に何も見えない死の空間と化していたはずだ。
「青葉なら……何とかなるんだろうなあ」
「え?」
 シンはぼやいた。その言わんとすることがわからず、リンは首を傾げる。
 あの底なし体力と恐るべき回復力なら……人一人背負って移動するなりなんなり、何でもできる。信じがたいことだが。
 シンはちらりと基地の方に目を移した。雪の中ではその白い大きな姿さえ埋もれて見える。
「シン?」
「あ、いや、何でもない」
 顔をのぞき込まれ、慌てて彼は首を横に振った。そして、それでもなお不審そうに眉根を寄せている彼女の肩を叩く。
「とにかく、ワープゲートまでは歩こう」
 彼はそっと、彼女の手を取った。



「妙な噂……?」
 スプーンを手にしたまま、青葉は顔を上げた。食堂には暖かいものを求めた何人かが、早くも昼食を取っている。そこへ、帰ってきたばかりのリンたちが持ち込んだ話が、『妙な噂がある』、というものだった。彼が怪訝に思うのも仕方あるまい。
「そうそう、聞いてよ」
 リンが彼の隣に無理矢理座り込むと、その黒い髪が軽やかに揺れた。せっかくの梅花との二人きりの時間――彼にとってはだが――を邪魔されて、青葉は思わず顔をしかめる。しかしそんな彼の気持ちをよそに、その向かいで紅茶を飲んでいた梅花は、音もなく立ち上がり微笑んだ。彼はきょとんとして彼女を見上げる。
「あ、おい、梅花――」
「シン先輩、リン先輩、何か飲みますか?」
「悪いな。じゃあコーヒー」
「私もっ!」
 彼女の申し出に、リンとシンは笑顔でうなずいた。梅花は穏やかに微笑み、そのまま何も言わずに歩いていく。一人慌てた青葉は、不満そうにそんな二人に目をやった。しかし彼らはあえて気づかないふりをして、笑いながら顔を見合わせている。
「……で、その噂ってのは?」
 梅花が厨房の向こうに消えたのを確認し、青葉は仕方なくそう聞いた。リンは頬杖をつき、そんな彼を見やる。
「最近魔族の襲撃が多いでしょ? どんなのが来てるのかはわからないみたいだけど、でも戦闘があるってのは普通の人も気づいてるみたいなのよね。それでね、その戦闘が、宮殿の人たちが起こしてるんじゃないかって、話なのよ」
 リンは一気に述べるとため息をついた。青葉は、耳を疑う。
 一般人は宮殿に対しては絶対的な信頼感、というよりも話題にすべきではないという感覚を持っているはずだった。神技隊に選ばれるまでは、彼もそうだったし、周りの人もそうだった。
「それ、本当なんすか?」
「嘘言っても仕方ないでしょ? 本当よ。しかも一部とかじゃなくて、結構広まってるみたい。いつ頃からってのはわからなかったけどね」
 リンはため息をつく。そこへ梅花が戻ってきた。コーヒーを二つテーブルに置き、彼女は微笑む。入れ立ての良い香りがふわりと広がった。
「どうぞ。あ、シン先輩も座ったらどうです?」
 確かに席は空いている。だが横並びに二つという、微妙な状態だった。青葉が心底嫌な表情を浮かべているのを見て、シンは躊躇する。
「はいはい、我が侭さんがいるから、梅花こっちね」
 リンは立ち上がり、梅花のコーヒーを手元に引き寄せ、自分は向かいの席に移動した。そしてシンを手招きする。
「……我が侭さん?」
「気にしない気にしない」
 リンの隣に座り、シンがそう言った。そして二人は目を合わせると、それぞれのコーヒーカップに手を伸ばす。
「あ、そうそう、噂って何なんですか? リン先輩」
「それは席についてから。ほら、青葉が寂しがってるから、早く隣に」
 事態が飲み込めない梅花は、小首を傾げながら席についた。



 何事もないまま、年は明けた。
 それなりのご馳走とそれなりの平和に囲まれた彼らは、しかしどこか晴れない気持ちだった。それは見えない何かへのおびえか、それとも危惧か、予感か、彼ら自身にもわからない。
 妙な噂のことも、すぐに彼らの間に広まった。
 それがさらに彼らの気持ちを曇らせているのかもしれない。とにかく何かがおかしいと、そんな気配があった。
 魔族の襲撃目的も、まだはっきりとはしていない。彼らを覆っているのはわからないこと、未知なこと、そればかりだった。ただ状況に身を任せるしかないという無力感。何が起こるかわからないという不安。
 それらは『何も起きていない』今でも心をむしばんでいる。
 だが間もなく、何かは起こるだろうという、その予感だけは皆に共通していた。

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