white minds

第二十三章 兆し‐3

 一言で表すならその部屋は殺風景だった。壁や扉、窓自体は他の部屋と変わらないのだから、そう感じさせられるのは必要なものしかないためだろう。そこには簡素な椅子と机、そしてベッドくらいしかなかった。生活感など出るはずもなく、無機質な印象を受ける。しかしそれは自分の部屋も同じだなと、レーナはふと思い直した。
「レーナ」
「……ん?」
 呼びかける声はひどく近くにあった。彼女は顔を上げ、彼を見る。その距離はいつまた触れられてもおかしくない程で、彼女は眉根を寄せた。
「アース……何というか、ここまで近づく必要はないかなあってわれは思うのだが」
「離れたらお前逃げるだろう」
 手を取られたままの彼女はできるだけ穏やかに微笑み、この状況を打開しようと試みた。逃げない逃げないと首を横に振ってみるが、しかし効果はない。仕方なく困ったように微笑んでみる。
「……だからそういう顔は止めろ。それとも何かされたいのか?」
「も、ものすごく曲解されてる気がするぞっ。われはただ――――」
「ただ?」
 ただ……。自分は本当はどうしたいのだろうかと、彼女は自問した。理性と感情、使命と本音の狭間で、彼女はふっと力を抜く。今さら、後戻りはできない。
「その気持ちは嬉しいけど、その……受け取ることはできない」
「……は?」
 突然話が飛び、アースは顔をしかめた。それから彼女の言葉をかみ砕いていき、その苦々しさに表情を険しくする。彼女の手を握る力が自然と強くなった。
「われは……卑怯だから。ずっと何も言えなかったけど……でもだめなんだ。われの手は汚れすぎてる。今さら受け入れるだなんて、そんなこと――――」
「レーナ」
 アースのその鋭い声に、レーナは肩を縮めた。しかしその反応は予想外だったようで、彼は驚きのあまり手を離す。赤くなった手をさすりながら、彼女はゆっくりと半歩下がった。
「だから、悪い」
「レーナ……ちゃんと、一から話せ」
 彼は今度は言い聞かせるようにささやいた。彼女の瞳が揺れ、それから辺りをさまよい、しばらくしてからまた彼の方に向けられる。そこには先ほどの迷いはもうなかった。
「われは……今まで多くの者たちを手にかけてきた。そして、大切な者も、手にかけた」
 彼女の唇が静かに動き始める。吐き出される息は穏やかだが切なく、哀愁漂っていた。だが決して目は逸らさない。
「魔族界に侵入した二度目の時のこと。あちらも、かなり警戒していたのだろう。魔族として忍び込んでもわれは女。その珍しさは演技だけじゃ、気だけじゃごまかしきれなかった。疑われていたことを、われは知っていた。でもあの隠された資料に辿り着くまでは、退くわけにはいかない。長い時間をかけてゆっくりと、われはその時をうかがっていた」
 彼女の話をアースはただ黙って聞く。流れ出る声はいつも通り透明なのに、しかしどこかもの悲しさが含まれていた。それはひどく胸を締め付ける。
「だが皮肉にも時は交わる。魔族界と神魔世界の丁度狭間に怪しい奴がいるとの通告を受け、我々は向かった。そこにいたのは、見知った奴だった。邪魔だから殺せと言われて……われは、結局は、それを成し遂げた」
 彼女はおもむろに顔を上げ、彼を見つめた。背筋に走る冷たい感覚。彼は恐る恐る口を開く。
「まさか……」
「そう、アースだ。あちらはおそらくわかっていたのだろうな、我々がアスファルトの申し子たちであると。だからわれを試すようなことをしたのだろう。……ひどく、迷った。その時は既に十何代目かで、アースはわれのことを覚えていない。だがわれは覚えている。すぐに去ってくれればいいと願ったが、うまくはいかなかった」
 彼女の瞳が寂しげに歪む。
「重なった偶然により、われは……殺した。この手にかけた、結局。あの時のこの手の重みは、どれだけたっても忘れられない」
 レーナは右手に視線を落とした。蘇ろうとする記憶を振り払い、彼女は柔らかに微笑む。
「もういい、レーナ。それ以上――――」
「それなのにわれは涙することもなかった。ただいつも通りに微笑んでいられた。全ては目的を果たすために。……われは、むしろそんな自分が怖い。だからお前には会いたいけど会いたくなかった。嬉しいけど苦しいから。なのに結局は平気な顔で利用して……」
 アースの声をさえぎり、レーナはそう言って笑った。いつ泣き出してもおかしくないような切ない声音で、だが彼女は穏やかに笑っていた。まるで死を悟りきったようだった。
「われは過去のアースを、過去のレーナを引きずっている。今のお前だけを、見ているわけじゃないんだ。難しいな……。同一人物とするべきなのか、別人とするべきなのか……いまだによくわからない。われだって同じレーナじゃないのかもしれない」
 今度はいたずらっぽく彼女は笑う。軽く頭を傾けると結んだ長い髪が優雅に揺れた。彼女の瞳に映る自分を、アースは見つめる。
「だから、な? われはお前の気持ちを受け取れないんだ。嬉しいけど、だめなんだ」
「レーナ」
 彼は腕を伸ばし、彼女の体をからめ取った。腕の中の彼女は目をぱちぱちとさせ、何故こんな状況になったかを必死に考え始める。彼は愛おしむようにその背をなでながら、耳元でささやいた。
「それでも、われは諦めないからな?」
「は……? ってちょっと待て、諦めないって……」
「お前が色々抱え込んでることはよーくわかった。正直難しい話はよく理解できないが、だが一つだけわかったことがある」
 彼はこれでもかという近距離で彼女の瞳をのぞき込んだ。放たれる言葉に不安と期待を覚えながら、彼女は小さく息を呑む。触れ合う髪がさらりと音を立てた。
「お前はわれが嫌いじゃないんだろう?」
 それは、疑問系だが確信を持って告げられた。返答に詰まった彼女は何とか視線をはずそうとするが、彼がそれを許してくれるはずもない。困り切った顔で彼女はその黒い瞳を見つめた。
「そりゃっ、好きだぞ? われみんな大好きだし」
「それもよくわかってる。だが他の奴らにもこういうことされて平気か?」
 彼はそのまま深く彼女に口づけた。一瞬の間をおいて彼女はじたばたもがきだすが、彼の腕の中となればそれも無為に等しい。
「あ、アース……」
 ようやく解放されると、彼女は真っ赤な顔で困惑しながらその名を呼んだ。いまだに至近距離にいるため不用意なことを言えず、仕方なく彼女は精一杯にらみつける。だがこの場合は逆効果だった。彼は今までにないくらい余裕たっぷり微笑むと、その頭を優しくなでる。
「これで諦めろというのは無理だ」
「あ、アースの意地悪っ。われを困らせて楽しいか?」
「困った顔が見られるのは嬉しい」
「何故っ!?」
 作り上げていた人格、どんなときにも適切に対応できるよう繕っていた人格、一般に認知されている『レーナ』がはがれてしまったことを、彼女は感じ取っていた。素直になってしまえば楽ではあるのだが、しかし反面もとに戻すのが難しい。どうしたものかと思案するが、なかなかいい対策法は見つからなかった。
「何故って……可愛いから。そういうわけだから、レーナ、そろそろ観念して甘えてみないか? われにとって大事なのは、今お前がわれのことをどう思っているかだ。過去でも未来でもなく今だ。お前が苦しいのはわかるが……だからといってそれで諦められる程われは物わかりがよくない」
「……」
 彼は優しげに目を細め、抱きしめる腕に力を込めた。ふわりと漂ういい香りに顔をほころばせ、彼は言い聞かせるようにささやく。
「一人で考え込まずに、話せ。いいな? お前が想像してる以上に、われはお前を愛してる。もう逃げられるつもりは、われはないからな」
 もう、という言葉に疑問を感じつつも彼女は弱々しく微笑んだ。何をどう言っても逃れられないのなら、彼女にはそうするしかない。
「わかった、わかったから。逃げないから。それならいいのだろう?」
「ああ。逃げられないならいくらでも攻撃のしようがある」
「こ、攻撃って、アース……」
 困り果てる彼女の額に、彼は軽くキスをした。数度瞬きをしてから、しかし少しは平静を取り戻してきたのだろう、彼女はうっすらと微笑み口元に手を当てる。
「わかったから、その、放してくれないか? な? アース」
「……放したくなくなる顔で言うな。お前ひょっとしてあれか、わざとじゃなくてそれが素か」
 アースはそういいながらも渋々と腕をゆるめた。ようやく超接近から逃れたレーナはほっと息をついて服を正す。彼の痛い程の視線を感じながらも、彼女はいつも通りの余裕の表情を浮かべその場でくるりと回った。それから小首を傾げて彼を見上げる。
「本当に甘えちゃっていいのか? われたぶん、今甘えられるのお前しかいないからすごいことになるぞ?」
「すごいという中身が気になるが、もちろんかまわない。むしろ希望する」
 彼女はふわりと音がしそうな笑みを浮かべた。それは今まで見たどの笑顔よりも純粋で、温かで、そして見た目相応だった。
「ありがとう」
 それ以上の適切な言葉が見つからず、彼女はただ心を込めてそう言った。

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