white minds

第二十四章 切れない鎖‐3

 魔族の引き際は見事なものだった。
 次々と上空へ消えていく仲間たちを追って、彼らは迷いもせず戦闘を中断する。渋る者も、動揺する者もいなかった。
「まさか……」
「そのまさかだと思います。アスファルト様が捕らえたのですね、きっと」
 レンカのつぶやきに、嬉しげに輝慎弾は反応した。彼は額の汗をぬぐいながらゆっくりと上昇していく。
「私も行きます。二人とも、お手合わせありがとうございました」
 輝慎弾はそのエメラルドの瞳を滝とレンカに向けた。いい運動したとでも言いたげに微笑する様子はやはり敵とは思えない。段々遠ざかっていく彼を、二人は見上げた。
 レーナの気は……もはや感じられなかった。似たような気はあるがこれは梅花のものだ。戦闘に集中していたせいで気づかなかったのだが、そうとなれば彼の言うことも事実なのだろう。
 追うべきか、追わぬべきか。
 二人の頭をその言葉がよぎる。
「この結界を抜けるのはあなたたちには無理だろうから、無駄なことはしない方がいいと思いますよ」
 するとまるでその心境を見透かしたかのような言葉が降りかかった。嫌みなくらいに声だけははっきりと聞こえてくる。
 結界に傷を付ければ……不利になるのは自分たち。
 滝はぎりりと奥歯を咬んだ。何もできないという事実が胸に重かった。
「それでは、失礼しますね」
 不意に輝慎弾の姿が消えた。まるでそこに存在などしていなかったかのように、突然気配がなくなった。残された青空が恨めしい程に鮮やかだ。
「レーナといい……突然現れて突然消えるのが得意技なのか」
 自嘲気味な声ではき出されたつぶやきに、レンカはただ微苦笑するしかなかった。だがそのままでいるわけにもいかない。
 二人はゆっくりと地上に降りて、仲間たちを探し始めた。魔族の消えた大地には戦闘の名残が染みついている。
 ほとんどの者が疲労でまいっているようだったが、しかし大怪我をしている者はいなかった。座り込む仲間たちを引き連れて、二人は目的の人物を求めてさまよう。
「アース……」
 その後ろ姿を見つけると、遠慮がちにレンカは名前を呼んだ。雪に覆われた大地の上に、彼は膝をついたまま黙していた。どこか遠くを見つめたような眼差しの先には銀の世界にしかない。
「レーナは……?」
 問いかけるレンカの声はやや震えていた。アースは彼女たちを見ないまま静かに首を横に振る。その横顔は悲痛な色に染まっていた。自らの不甲斐なさを、責めているようだった。
 力一杯、彼は拳を雪面に叩きつけた。重い音とともに粉雪がふわりと舞い上がる。言葉は、なかった。だからこそ余計に痛々しかった。レンカは滝と顔を見合わせる。
「アスファルトに……連れていかれた。守り……きれなかった」
 くぐもった声がもれた。滝がゆっくりと彼に近づき、その肩を叩く。
「とにかく、戻ろう」
 無力感にさいなまれた声が、辺りに沈み込んでいった。



 戦闘で疲れ果てた彼らが食堂に集まるのはいつものことだった。だが一つ決定的なことが欠けていた。それ故その空気は重く淀んでいる。
「レーナが……さらわれたの?」
 問いかけるというよりは、信じたくないといった口調で梅花がつぶやく。いつも以上に青白くなったその顔は今にも涙をたたえそうだった。青葉が彼女の肩を抱いて、その手を握る。
「そうだ」
 肯定したのは滝だった。
 認めたくはない現実。
 彼女抜きに五腹心たちと戦闘……考えたくもない未来だ。だがそれは確実に目前に迫っている。何が起こってもおかしくはない。
 皆が何も言えずに黙り込む中、カイキが乱暴にテーブルを叩いた。
「これから……どうするんだよっ!」
 自分の声が予想よりも荒々しいことに、彼は驚愕した。慌てて視線を逸らすと、不意に後ろから声がかかる。
「助けるしか……ないだろ」
 アースだった。うつむいた顔からはその表情は読みとれないが、しかし先ほどの悲壮感はもう漂っていなかった。そこにあるのは、決意だけで。
「助けるって言っても……オレたちあいつの居場所なんかわからないんだぜ?」
 言いたくはない事実を口にしてカイキは泣きたくなった。魔族がどこから来るのか、どこにいるのか、彼女がどこへ連れていかれたのか。それを知る者はここにはいない。
 空気が、重かった。
 今まで自分たちがいかに彼女に頼ってきたかを、思い知らされた。船頭を失った船がどこまで行けるかなど、誰もわかるまい。
「独立……しちゃってるから神に頼るわけにはいかないしね」
 レンカが嘆息する。全てのタイミングが悪すぎた、そうとしか思えない。
「いや……あいつは、レーナは確かアルティードとかいう奴と話をつけてるはずだ。取引したと言っていた」
 その事実を思い出しアースは声を上げた。それを契機に皆の顔にかすかな光が戻ってくる。
「じゃあ――――」
「アルティードさんと連絡が取れれば!」
「魔族たちがどこにいるのか、わかるかもしれないんですね!」
 次々と上がる声。何であろうとすがりたいのが今の彼らだった。かすかな手がかりでもいい、何か頼れるものが欲しかった。
「じゃあ連絡取ってみるわね」
 そう言って食堂を飛び出すレンカ。その後を滝が追った。



 食堂に残された者たちを覆っていたのは深い沈黙だった。彼らは待つことしかできなかった。どこへ行こうにも重い心がそれを邪魔し、彼らの足を止めている。
「梅花……大丈夫か?」
 青白い顔の梅花、その肩を青葉は抱き寄せる。彼女は力無く首を縦に振り、弱々しく微笑んだ。レーナに関することとなると、彼女はめっぽう弱くなる。青葉は彼女の頭をなでながら、周囲を見渡した。
 皆が、重い顔をしている。そして祈らんばかりの目をしている。特に印象的だったのは、窓から遠くを見つめるアースの横顔だ。悲痛な色は今はない。しかし漂う哀愁には目を奪うものがある。
「ねえ、青葉」
 梅花が小さく名前を呼んだ。青葉は慌てて彼女に視線を戻し、柔らかく微笑みながら、何、と問い返す。彼女は不安げに瞳を細めた。
「私たちは、こんなにも弱いのよね」
 つぶやくように放たれた言葉は静かに胸に突き刺さった。よく見ればその瞳の奥には真実を見据える光がある。
 今まで守っていてくれたのだと。導いていてくれたのだと、理解しているのだ。
「私たちは、私たちの足で立たなきゃいけないのに。でも私たちは頼り切っている」
 自分に言い聞かせるような声で、彼女は言った。震える腕を抱くようにして吐息をもらし、必死に何かに抗おうとする。
「何かを忘れてるの、私は。とてもとても大事なことを忘れてるの。それが何なのか、喉まで来てるのに出てこない。私は梅花だけど、でも転生神の一人で、責任を負ってるのに」
 それが何の責任か、彼女は言わなかった。思い出せないその何かを追い求めるように視線をさまよわせ、彼女は唇を噛む。緩やかに揺れる黒い髪を青葉は見つめた。
 不安なのは皆。
 だがそれに立ち向かおうとするかは、個々人にゆだねられている。
「なあ、アース」
 青葉は少し声を張り上げてその名を呼んだ。アースは振り向き、怪訝そうに顔をしかめる。そして青白い梅花の顔を見て、何かを察知したのだろう、近寄ってきた。
「レーナは、一人で帰ってくると思うか? それとも助けを待ってると思うか?」
 口に出された青葉の疑問に、さらにアースは眉根を寄せた。その言葉をゆっくりとかみ砕いていき、彼は静かに自嘲めいた微笑を浮かべる。
「あいつならすぐ逃げ出す……と言いたいところだが、今のあいつなら待ってるはずだ」
 その意味深な解答に青葉と梅花は顔を見合わせた。『今の』という部分が引っかかる。アースは長い前髪をかき上げるようにして、唇を動かした。
「自分で何でもやろうとするな、たまには任せろ。少しはわれのことも信じろって、散々言ってきたからな」
 それにあの傷だ、とアースは付け加えた。どんな怪我をしても平気そうにしているが、しかしあれは軽くはないだろう。彼はそう踏んでいる。
「だから助けに行く」
 望みではなく決意。希望ではなく決断したことだと、彼の目は述べていた。今は手段がなくとも、それを探すための方法ならまだ残っている。諦めたら全ては終わる。
「アースは、レーナのこととなると強いのね」
 梅花が、花が咲くようにうっすらと微笑んでそう言った。
 後悔も不安も乗り越えてしまえばやるべきことは一つしかない。彼女の微笑みに、アースはやや困惑して青葉に眼差しを送る。
「えーと、何て言うか、恋しくなるから見つめて欲しくないみたいだけど?」
 言葉を選びつつ、青葉は梅花にそう懇願した。梅花は一瞬きょとんと目を丸くし、それからその意味することに気がついて苦笑する。
 深い静寂に、少しずつだが和らいだ空気が戻りつつあった。



 真っ黒になったモニターを見つめて滝とレンカはため息をついた。これで何度目の挑戦かすらもうわからない。
 アルティードと連絡を取ろうと試みて早数時間。いっこうにそれは叶わなかった。アルティードどころか神側と繋がらないのである。ザーという恨めしい音の後黒くなる画面は、期待にふくれた胸には痛すぎる。
「困ったわね……」
 レンカの切ない声が司令室に響き渡る。疲れ切った皆を部屋に戻したのは一時間程前のことだ。彼らとて休みたいが、そうするわけにもいかない。
 魔族は……いつ攻めてくるのだろうか。追い打ちをかけてくるんじゃないだろうか。
 胸に宿る不安はいくらでも膨れあがる。
 乗り切れなければ死、自分たちの死が待っているだけなのだ。それはあらゆる破滅へと向かっていくもので……。
「滝、少し時間をおきましょうか」
「そうだな、コーヒーでも、持ってくるか」
 重い腰を上げて滝は扉へと向かった。お願い、というレンカの声を背に彼は司令室を出ていく。
 と、次の瞬間。閉じられていたはずの基地の扉が、大きな音を立てて開いた。滝は目を見開く。
 飛び込んできたのは一人の女性。肩程の茶色い髪に綺麗な青い服の、凛とした女性だった。彼女は射抜くような視線で、ちらりと辺りを見回す。
「だ、誰だっ!?」
 滝は慌てて呼びかけた。勝手に入られないよう厳重にロックしてあるはずのこの基地に飛び込んでくるなど、尋常ではない。
「レーナは、レーナはどこっ!?」
 いつでも攻撃できる構えの滝に向かって、その女性は詰め寄った。その気迫に彼は一歩引く。
 彼女から放たれる気は、明らかに普通の人間のものではない。いや、普通の神のものですらなかった。胸にすっと染み込んでくるような温かさと凛々しさ、そして強さがそこには含まれていた。自然と彼の喉が鳴る。
「そんな警戒しないでよ。教えて、レーナはどこ? あの子、ここにいるんでしょう? アルティードに聞いたんだから」
 アルティードという名前を聞いて、滝は力を抜いた。どうやら彼の知り合いらしい。ということはひょっとしたら例の薄緑色のカードを使って入ってきたのかもしれない。彼は恐る恐る口を開く。
「レーナは、今はいません……。で、あなたは誰なんですか?」
「え? あ、私? 私はユズ。ってちょっと、レーナいないってどういうこと!? あ、じゃあアースは? いるんでしょ?」
 ユズと名乗ったその女性は彼の肩を乱暴に揺すった。疲労しているところを揺さぶられて、彼の意識は一瞬飛びそうになる。世界が暗転し、ぐらつく。
「う、は、はい。いますけど今は――――」
「あ、この気はアース!」
 絞り出した彼の声を聞こうともせず、ユズと名乗ったその女性は走り出した。騒ぎを聞きつけてきたらしいレンカが司令室から顔を出し、滝の側に歩み寄る。二人は顔を見合わせ、仕方なくユズの後を追った。
「見つけた、アース!」
 ユズの指さす先には険悪な表情のアースがいた。ちょっとした楕円形のホールとなっている場所に、彼は立っている。突然知らない声に呼ばれたせいだろうか、不機嫌なのは明らかだった。一触即発を懸念して滝は走り出す。が、間に合うはずがなかった。
「アースっ! レーナいないってどういうこと!? やっと……やっと見つけたと思ったのに」
 普通の人間ならその視線だけで殺されそうなアースに向かって、ユズはまくし立てた。見知らぬ者から発せられた愛しい名前に、アースは訝しげに眉根を寄せる。
「誰だ、お前?」
 次の瞬間、ユズの蹴りが見事にアースに炸裂した。そのあまりのタイミングのよさに、いつもなら軽くかわせたはずの彼がよけられなかったのである。
「忘れたってわけ、私のこと」
 仁王立ちするユズを、アースは見上げた。すわった目で見下ろしてくる彼女の顔には言い得ぬ怒りが漂っている。
「忘れたもなにも、われはお前なんか知らない」
「ユズさん、ちょっと待ってくださいって」
 そこへ滝が割って入った。機嫌が悪いところにわけのわからない言いがかりをつけられ不満顔のアース。完全に怒りに身を置いているユズ。その二人に挟まれた滝は、落ち着けと言わんばかりに手で制し各々の顔を見比べる。何をどう言うべきか、思案しながら。
「ユズ……?」
 その名前にアースが反応した。彼はほこりを払いながら立ち上がり、目の前に立つ女性をよく観察する。茶色い髪にすっきりとした青い服、意志の強そうな瞳。それはレーナがよく口にしていた人物の特徴と一致していた。
「お前が……ユズか。……悪いが、我々に記憶はないのだ。覚えているのは、レーナだけで」
 アースが浮かべたのはやるせない微笑。彼の言葉に、ユズは不思議そうに首を傾げ当惑した。そんな彼女に彼は言葉を続ける。
「現在の我々は二十五代目。体と記憶はそのたびに切り替わっている。記憶を維持し続けているのは、レーナだけだ」
 意味がよくわからない。
 彼の説明を咀嚼しながらユズは眉根を寄せていた。だが一つの噂を思い出して彼女ははっとする。
「レーナは……次の代を、新たな体を生み出せたのね? でもそれは不完全で」
 つぶやくような声で紡がれた事実。彼はうなずき、どうするんだと尋ねるように滝とレンカを見つめた。その視線につられて、ユズも二人の方を振り返る。
「――え? お姉さま……?」
 ユズの瞳が大きく見開かれた。今まで気づかなかったのが信じがたいといった顔で、彼女はその場に硬直する。首を傾げるレンカを、彼女は凝視していた。 
 沈黙が、彼らを覆った。

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