white minds

第二十五章 黒き刃‐5

「いい加減にしてくれないか? われは基地に負担をかけたくないのだが」
 視界が変わり、目の前に溶けかけた雪と大地が広がった瞬間、レーナは間をおかずにそう言い放った。リンは数度瞬きをし、目の前に神が七人険悪な形相でいるのを確認する。
「なっ、あなたは確か、あの時の女!」
 神の中で最初に反応したのは、ターバンを頭に巻き付けた男だった。彼は以前神の界でレーナたちと遭遇したサライゼルなのだが、そのことをリンは知らない。
「あーえっと、サライゼルだったか? ということはやはり産の神の仕業なわけか。ああ、われがレーナだ。産の神の皆さん、初めまして」
 にらみ殺す気ではないかと思う程の神たちに向かって、レーナは爽やかな笑顔を浮かべて会釈した。それにならってリンも軽く頭を下げ、笑顔を作ってみる。
「転生神を出せ」
「えーと、出たくないと言っているのだが?」
「嘘をつけ! お前がそう言いつけてあるのだろう!」
 大声を上げたのは、サライゼルの後ろにいる小柄な神だった。どうやらいまだにレーナを宿敵とでも思っているらしいその態度に、何だかリンは腹が立ってくる。
 誰のおかげで五腹心を追い返してると思ってるのよ……。
 何か言ってやろうかと彼女が思ったその時、異変は起こった。
「ごきげんよう、頭の固い神の皆さん」
 リンたちの丁度前、サライゼルとの間にどこからともなく現れたのは、満面の笑みを浮かべたユズだった。だが彼女は明らかに怒っているらしく、その体から発せられる気は炎のように燃えている。
「あ、あなたは確か心の神の……」
「そうよ、ユズ。それで産の神の皆さんは、私の娘に何か文句があるわけ?」
 ユズは怒りを押し殺した笑顔を浮かべながらレーナの肩を抱き、その頭を優しくなでた。そこには有無を言わせぬ力がある。言葉に詰まったサライゼルは、ターバンの隙間からはみ出したくせ毛の髪を手ですくい、悔しげに目を細めた。
「あなたの娘に文句があるわけではありません。ただ転生神を、こちらに引き渡していただきたくて」
「あら、転生神はものじゃないわよ? それに違法者でもないわ。彼らの意思は無視するってこと?」
 それでも何とか用件を告げたサライゼルに、ユズはなおも容赦ない言葉をかける。力の差を取ってみても、心の神という地位を取ってみても、明らかに彼女の方が優勢だった。
「し、しかしですね、我々には彼ら神技隊の指揮権があるわけでして――――」
「へえ、転生神に指図する気なのね」
 どこまでもユズの言葉は強い。それは彼女自身の強さと、アルティードの古くからの知り合いだという強さと、そして姉が転生神だという強さが入り混じったものだ。そしてそれを彼女は十分に知り尽くしている。
「そういうわけなので、お帰り願いたいのだが?」
 そこで春のような透明な微笑を浮かべてレーナが小首を傾げた。またもやリンもそれにならい、今度はにこやかに微笑んでみる。
「……わかりました」
 サライゼルは折れるしかなかった。そう答えて踵を返すと、彼は六人の神たちに帰るよう目で合図する。彼らは音もなく飛び上がり、空へと去っていった。
「なるほど、これが有無を言わさず追い返すってことなのね」
 小さくなっていく姿を眺めながら、リンは感心したように腕を組み相槌を打つ。今回ばかりは何の役目もなかったアースも、苦笑しながら小さくうなずいていた。レーナの肩を抱いたままだったユズはその手を離し、くるりと振り返る。
「これが権力乱用って奴よ。まあね、ああいう頭の固い連中はそれを逆手にとってやるのがいいのよ」
 悪気のなさそうに胸を張る姿は頼もしくもあり、敵に回せば怖くもあった。つい先ほどまで沈み込んでいたとは思えない立ち直りぶりである。
「それにしても――」
「え?」
 ユズは真顔になってリンの瞳をじっと見つめた。次に放たれる言葉が予想できないリンは、目を瞬かせながらその理由を必死になって探す。
「あの説明の後で瞬間移動させてもらうなんて、相当の勇気よね。そりゃまあ私の娘はとっても優秀だけれども」
 不安も動揺も何もかもを押し殺した二人は、何とも言えない複雑な笑みを浮かべて向かい合っていた。お互い何か感じ取るものがあるからこそ、あえてそこには全く触れない。交わされるのは当たり障りのない会話だけで、核心をつくことはしない。
「思い切りの良さが、私の数少ない取り柄ですから」
 リンはそう答えて夏の日差しのように煌びやかな笑顔を浮かべた。その日差しで不安を溶かせるように、強く強く笑った。
 風が、その黒い髪を軽やかに揺らしていった。



 産の神が引き下がり基地には一時的な平和が訪れたが、だからといって事態が好転したわけではなかった。依然としてシンの行方もその生死もわかっておらず、しかし打つ手も全くない。
 そんな日々がしばらく続き、それまで通りを装った空気が漂う中、変化は突然現れた。
 最初にそれに気がついたのは、やはりレーナだった。
「シンの気を感知した!」
 突如司令室に現れたレーナは第一声でそう叫んだ。もうじき日が落ちるという時刻故、崩れかけたシフトを守るリンは丁度そこにいる。
「シンが生きてたの!?」
 すぐさま彼女は反応し、レーナのもとへと小走りに駆けた。切羽詰まった様子の彼女をなだめるよう肩を叩きながら、レーナは静かに小さくうなずく。
「ああ、間違いない。シンの気は今アスファルト研究所にある。ただ――」
「ただ?」
「若干その気が不安定なんだ。何というか、何かをねじ込まれたような」
 その言葉にリンの顔が一気に曇った。生きていたとしても無事とは限らないのだとあらためて思い返し、冷たいものがその背中を走る。
「でも、生きてはいるんだろう?」
 指定となった大きめの椅子から立ち上がり、滝が神妙な顔で振り返った。だから落ち着けと言わんばかりの声音に、リンはちらりと彼の方を振り返る。
「ああ、生きてはいる、それは間違いない。おそらくブラストの元からアスファルトに引き渡されたってところだろう。問題は、ブラストが何かやらかしてないかということだけだ」
 リンの肩をあやすように叩きながら、レーナはその黒い瞳を細めて彼を真正面から見つめた。彼はごくりとつばを飲み込み、その言わんとする意味を察して唇を強くかむ。
「打つ手は、あるのか?」
 聞き返す彼に、彼女は曖昧な微笑みを浮かべて小首を傾げてみせた。あるともないとも取れるその仕草に、彼は苛立たしげに息を吐き出す。
「レーナ!」
 そこへ今度は茶色い髪を揺らしながらユズが駆け込んできた。その顔から察するに彼女も状況の変化を読みとったのだろう。レーナはユズを一瞥すると、何も言わずにただ相槌を打つ。
「ええ、今すぐ乗り込んでやりたいところだけど、あんな微妙なところにイーストがいるんじゃうかつなことできないわ。本当頭にきちゃう」
 ユズは憎たらしそうに顔をしかめると、司令室にいる面々を順繰りに見回した。そしてリンの様子に気づき、どうしたものかと思案しながら頬に手を当てる。レーナはリンの肩を強く引き寄せて、大丈夫だと示すようにしながら柔らかに微笑んだ。だがそれも一瞬のことで、また真顔に戻りその思考をフル回転させる。
「問題はそこだ。あそこが易々と乗り込まれる場所だと気づいていながらシンを手渡した。それが何を意味するかだ。おそらく――」
『おそらく?』
 レーナの言葉に、その場にいる者の声がぴったりと重なった。息を整えた彼女は言葉を選びながら、その予想を一気に吐き出す。
「シンの中の魔族の気を引き出すためにブラストは何かをやり、そして失敗したのだろう。だからどうにかしろとアスファルトに押しつけたのだと思う。シンの気が不安定なのはそのせいだろう」
 司令室の空気が一気に凍り付き、皆の動きを瞬時に固めた。ぐらついたリンの体を支えながら、レーナはまた曖昧な微笑を浮かべ、周囲の様子に目を走らせる。
「なるほど、あの馬鹿は気の相性云々は得意分野だものね。それで何とかなってればいいんだけど」
 納得するユズの声だけが司令室に響き、重苦しい空間を緩やかに揺らした。するとその言葉にすがりつくように、皆の視線が一斉に彼女へと注がれる。
「とりあえず今は、あの馬鹿に任せておくしかなさそうね。動くのは、その後よ」
 そう告げる彼女に、反論する者は誰もいなかった。



 シンの気がアスファルト研究所に出現してから、五日が過ぎた。依然として彼の気は不安定なまま研究所にあり、研究所から少し離れたところにはイーストの気がある。
 膠着状態が続いていた。
 何度となくさいなまれてきた無力感は基地中にはびこり、暗い影を落としている。春は着々と近づいてきてるのに、空気が温かになる気配は全くなかった。
 そんな中を、ユズは神妙な顔で歩いていた。
「お姉さま」
「え?」
 彼女が躊躇しながらもそう声をかけると、柔らかな茶色い髪をなびかせてレンカが振り返った。まだこの呼ばれ方には慣れていないらしく、若干反応が遅い。
「聞きたいことがあるんですけど、その、いいですか?」
「いいけど……食堂にでも入る?」
 廊下で立ち話というものなんである。レンカの誘いに素直にうなずくと、ユズはいつもの席へと真っ直ぐに進んだ。日の光を浴びた窓際の席は、ただそれだけで心をほんの少し軽くしてくれる。
「お姉さまは、記憶を全く取り戻してはいないんですよね?」
 レンカが椅子に腰掛けたのを見計らって、ユズは確認するように問いかけた。レンカはうなずき、戸惑った様子で不思議そうに小首を傾げる。
「ええ、そうよ。実際、自分がそのリシヤの生まれ変わりだっていう実感も全然ないしね」
「やっぱり、そうなんですか。それは、他の転生神も同じですよね?」
 今度もやはりレンカはうなずき、少しだけ申し訳なさそうに微苦笑した。記憶さえあれば少しは何か役に立てたのだろうかという思いからだろう。ユズはすぐにそれを察知し、そうではないのだと手を軽く振りながらもう一方の手で前髪をかきあげる。
「いえ、記憶が戻ってないのならそれでいいんです。おそらく、全て取り戻してしまえばお姉さまは全く動けなくなりますから。ただ私が気にしてるのは――」
 ユズは真っ直ぐレンカを見つめた。同じような色をした瞳同士がぶつかり合い、互いの思惑を読みとらんとするように揺れ、瞬く。
「それでもじきに記憶が戻っていくんじゃないかということです。キキョウお姉さまも、生まれた時から全てを覚えていたわけじゃありません。力を取り戻すにつれて、思い出していったんです」
 そこで声は途切れ、ユズは思案するように眉根を寄せて唇を軽くかんだ。言葉の続きを待って、レンカはただ静かに穏やかに彼女を見守る。
「記憶を取り戻すのは、それほど問題ないんです。ただ一気に思い出すのが問題で――それは一気に力を得ることと同じなんです。膨大な力が内から目覚めれば、それはへたすると命に関わります。実際、キキョウお姉さまは最後一挙に記憶を取り戻して、死にかけました。周囲の者すら巻き込むところでした。だから――」
 ユズは祈るようにレンカの手を取った。
「記憶が戻りそうになったら、眠ってください」
「……え?」
 それは予想の範囲を超える頼み事だった。何と答えたらよいかわからないレンカは口をぱくぱくさせて、間近に迫ったユズの瞳を見据えることしかできない。
「そういう時は次々と見覚えのない場面が浮かんでくるらしいんで、それが起きたらベッドにでも潜ってください。大丈夫です、記憶を思い出すのってかなり疲れるらしいので、すぐに眠れますよ。むしろ倒れますよ」
 笑顔で次々と注意を放つユズは、だがその表情とは裏腹に本当に心配しているらしかった。そのことを感じ取ったレンカは何度も相槌を打って、細い手を握り返す。
「わ、わかったわ。えーとそれは、他の転生神の人にも言った方がいいのかしら?」
「是非お願いします! 誰であれ危険なことには変わりないと思うので」
「そ、そう。わかったわ」
 刹那、大きな気の流れを感じ取り、二人は一斉に顔を上げた。何かが今までと違う、変化している。その原因を探るように、二人は静かに目を合わせる。
「シンの気が変わった……?」
 ユズのつぶやきは、次の瞬間基地中に響き渡った警報によってかき消された。耳に痛い程の警告音が、無気力感にさいなまれていた空気を一気に変質させる。
「ユズ!」
 聞き慣れた声に、二人は食堂の入り口の方を振り向いた。そこには悔しげに目を細めたレーナが立っており、その華奢な手を扉にかけて二人を見ている。
「アスファルトとブラストが同時に動き出した。シンも、一緒だ」
 空気その物が揺れたような、そんな気がした。

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