white minds

第二十六章 決断‐1

 目覚めた時、視界に映ったのは白い天井だった。その見慣れた質感に眉根を寄せて、リンは瞬きをする。
「こ、こは?」
 重い体を何とか上半身だけ起こして、彼女は周囲を見回した。どうやら治療室らしい。ぼやけた視界がはっきりしてくると、すぐ傍ら、自分が寝ているベッドに寄りかかるようにしてジュリが眠っているのに彼女は気づく。
「肩を、やられたんだっけ?」
 自分の右肩にちらりと目を向け、彼女はぼんやりとした気持ちで声を発した。もちろん既に傷はなく、出血の跡すら残っていない。服もいつの間にか替えられているようである。
「ジュリが治してくれたのね」
 ささやきながら、リンは眠ったままのジュリの頭をそっとなでた。するとぴくりと反応があり、ジュリはがばっと音を立てて勢いよく顔を上げる。
「り、リンさん目覚めたんですね!」
「うん。ジュリありがとうね、もう大丈夫。疲れたでしょう? ごめんね本当に」
 気遣うようなジュリの眼差しに、リンは柔らかに微笑んでわずかに首を縦に振った。しかしその動作に不安を覚えたらしく、ジュリは眉をひそめ、いたわるように手を重ねてくる。
「私はいいんです、これくらい何ともないですから。でもリンさんは――」
「シンのこと? 大丈夫よ、それは。大丈夫よ、本当に」
 言いよどむジュリにリンははっきりとそう告げ、心配そうに重ねられた手を握り返した。だが自分でもその声が暗示に近いと、リンはわかっていた。だからだろう、やはりジュリの顔は曇ったままで、その澄んだ茶色い瞳も懸念を訴えている。
「ショックはショックよ。何故だかシンは私たちのこと忘れちゃってるみたいだし。でもね、シンの心は変わってない。シンは仲間を守りたくて私を刺したの。だから、私は負けない」
 そう、負けてはいけないとリンは自らに言い聞かせた。
 どうしてなのかと天に問いかけても答えは返ってこないだろう。嘆き悲しんだところで事態が好転するわけでもない。ふさぎ込んでいてもどうしようもないのだから、だから前を向かなければいけない。
「リンさん……」
「え?」
 ジュリの長い指がリンの右頬に触れた。その手にそっともう一方の手を添えさせると、その指が濡れていることに気づく。
「泣い……てる?」
「ええ、泣いてますよ、リンさん。でも泣いていいんですよ、リンさん」
 知らない間に溢れていた涙。そのことに動揺を覚えつつも、リンは何だかおかしくて笑い声をもらした。この場にいたのがジュリだけなのが、幸いだと思う。
「いっつも心配かけてごめんね、ジュリ」
「いいんです。だって私はリンさんの戦友ですから? むしろそれくいいしてもらわないと困るんですよ」
 ジュリは頬に触れた指で涙をぬぐい、春の花が咲くよう微笑んだ。彼女の優しさと強さに感謝しつつ、リンはその唇をゆっくりと動かす。
「私は、やっぱり、シンがいないとだめみたい。だから戻ってきてもらうし、そのための努力は、惜しまないわ」
「それでこそリンさんです。大丈夫ですよ、居場所を作るのはリンさん大得意ですから」
「そう?」
「ええ。私もサホさんも、あけりさんもすずりさんもみんなみんな、リンさんのおかげで居場所を得たんです。だから、自信を持ってください。私たちもまた力を貸しますからね」
 リンはありがとうと何度も繰り返した。いつしか涙は止まっており、頬も乾いていた。
 痛みは消えなかったけれど、それでも立ち上がる力だけは得られたように、彼女は思った。



 覚えのある気が近くにないことに気づき、彼女は目を覚ました。何度か瞬きをし現状を把握し、そうか、と彼女は小さくつぶやく。
「ここはレーナの部屋ね。それでさくっと治してもらっちゃって、ついでに居座っちゃったわけか。今レーナは……うーん、この方向は司令室かな? 警戒中ってところかしら」
 定まらない視線を天井に移して、彼女――ユズはふうと大きく息を吐いた。体が動くなと警告を発しているから無理はしない方がいいだろう。視界がぼやけるのもそのために違いない。
「娘に面倒見てもらうなんて、私もそろそろ引退かしらねー? まああの子にはアースがついてるから大丈夫かとは思うし」
 独り言は殺風景な部屋に吸い込まれていく。彼女はため息をつき、その長い前髪を手でかき上げた。指通りのよい髪は音を立て、夕陽を浴びて緋色に染まる。
「ねえお姉さま、私が彼に会ったのは間違いだったのかしら? 会わなければ、よかったのかしら?」
 この場にはいない姉へと問いかける言葉に、力は無かった。脳裏に浮かぶのはあの時、彼と出会ったあの瞬間。今でもはっきりと覚えているあの時のこと。
『お前か、犯人は』
 頭上に降りかかった苛立った声は、確かに魔族のものだった。しかしその声音にはそれらしい怒りも憎しみも込められていない。下では戦闘が行われていたというのに平気で昼寝するその姿は、一目でわかる程に強さを誇示していた。
 森に溶け込む深緑の髪に、同じく緑の瞳。
 世界から切り離されたその魔族は、彼女自身と同じ異端の存在であった。
「出会わなければ、よかったのかしら? 私が彼のもとへ行かなければ、彼は力を失わずにすんだし、五腹心に目をつけられずにすんだ」
 神と魔族がともにいる意味が、わからなかったわけではない。それでも一緒にいたいと願ったのは、やはり間違いだったのだろうか?
 それまでだって彼は五腹心から疎まれてはいたけれど、目の敵にはされていなかった。彼が半分喰らわれたのは、神とともにいたからだ。
「一緒にいちゃいけなかったのかしら?」
 そのせいで彼は危険な地位へと追いやられた。イーストがいなければここまで生き延びることもできなかっただろう。
「ああ、でも私と彼が出会わなければ、レーナたちは生まれなかったのね。シンも生まれなかったのよね」
 過去は変えられない。
 そのことを今一度噛みしめてユズは誰にともなく微笑みかけた。実際見えるのはぼやけた天井だけだったが、それでも彼女の前には確かに誰かがいた。そう、思えた。
「レーナたちがいなければ神技隊たちは生きていなくて、転生神も生きていなくて」
 もしも、を考えるのはたやすい。だがその指し示すものをしっかりと見据えるのは容易ではない。彼女はベッドの上でひたすら、自分を戒めようともがき続ける。
「それじゃあお姉さまの願いは叶わないのよね、未来を変えることはできないのよね。世界は、破滅への道を進んでしまうのよね」
 額に手を当てると、ひんやりとした感触が伝わってきた。心をぐらつかせてはいけないと言い聞かせながら、彼女は一度目を閉じる。
「じゃあ、だったら、私は彼を犠牲にするしかなかったの?」
 だがそう問いかける声は震えていた。悲しみも、嘆きも、慈しみも、全てを含んだ切ない声はその存在だけで世界を揺らし始める。
 時とは残酷だ。
 そう思わずにはいられない。
 運命など信じたくはないが、そう仕組まれているようにしか感じられない。
 痛みが、彼女の胸を浸食していく。
「ねえアスファルト、あなたはもう決めてしまったの? 覚悟してしまったの?」
 掲げた手は虚空を掴むだけで、答えは得られなかった。揺らいでいたはずの未来の像が次第にはっきりしてくるのを感じる。知覚する程苦しくなるその像は、希望を簡単にうち砕いてしまう。
 それでも彼女は手を伸ばした。
「私は、私がやらなきゃいけないのは、あの子を助けることだけ。それが私が今できる唯一のこと。そうよね? アスファルト」
 瞼を開けて尋ねた声は、あっと言う間に静寂の中に飲み込まれていった。



「オリジナルは休まなくて大丈夫なのか?」
 日の沈みかけた頃、司令室でそれまで何か考え込んでいたレーナが、ふと声を発した。コンソールに向かって分厚い説明書に目を通していた梅花は、その問いかけに小首を傾げる。
「私? 私は大丈夫よ。そういうレーナこそ休んだ方がいいと思うんだけど」
「んーユズがあの調子だから、われが休むわけにはいかないんだ。奴らの動きをいち早く掴みたいしな」
 部屋の端、こぢんまりとした椅子に座るレーナは、同じように小首を傾げて微苦笑を浮かべていた。彼女の気の探知能力は尋常ではないらしく、話によるといつも魔族界の気の動きを探っているらしい。そう、今こうしている間も、だ。
 梅花はそれでも心配な様子で、吐息をこぼして隣の青葉を見る。
「休めない、っていうことはつまり疲れてはいるってことよね。青葉、どうしたらいいと思う? アースが諦めてここにいるんだから、やっぱり無理なのかしら?」
「……オレに言わせると二人とも休め、だな。二人で仲良く一緒に寝てしまえ」
「……それじゃあ見張りの意味がないじゃない。滝先輩たちと交代してからそんなにたってないし」
 度重なる戦闘で、神技隊はかなりぼろぼろだった。シンが抜けたことで三交代制も実質崩れてしまい、結局はその時見張りにつける者が司令室にいる、という状況だ。
 かといって見張りは誰でもいいというわけでもなく、やはりそれなりの戦力は揃えなければならない。そのため滝とレンカ、青葉と梅花の二組は二交代で司令室にこもっていた。
「オレやアースはなんつーか底なしの体力と回復力だからいいんだよ。でもお前やレーナはどっちかっていうと、体力的にはひ弱だろ?」
「ひ弱……青葉ひどい。大丈夫、最近の戦闘は気力でカバーできる範囲内だから」
「おいっ」
 青葉は半眼になり、梅花の体を引き寄せると背後から抱きしめた。そして上から彼女の顔をのぞき込むようにして、説教モードに入る。
「……仲良きことはいいことだが、オリジナルが困ってるから判断に迷うところだなあ。なあアース?」
「は? 何の判断だ、何の」
「えーと、制裁の」
「……」
 そんな二人を眺めていたレーナは、真意の掴めないとびきりの笑顔で背後にいるアースにそう尋ねた。答えに窮したアースは額にしわを寄せて嘆息する。
 基地内は暗い。そのためかそれとも疲労のためなのか、廊下を出歩く者はほとんどいなかった。もちろん司令室に来る人の数も最小限である。だから今この複雑怪奇な状況に直面しているのは、当人たち四人とよつき、アサキ、ようであった。そして幸か不幸か、この三人は常ににこにこ愉快な事態を見守ることのできる強者たちである。
 つまり、アースに助け船は来ない。
 彼は嘆息しながら彼女の頭をゆっくりとなでた。
「単刀直入に聞くが、あの二人がくっつくのにお前は肯定なのか否定なのか?」
「ん? オリジナルが幸せならそれでよし。だから傷つけたら容赦はしない」
 帰ってきた答えは予想通りのもので、彼は閉口しながらも青葉たちの方に視線を移した。数メートル分しか離れていないのだから、十分聞こえているのだろう。青葉は梅花を羽交い締めにしたまま固まっている。
「アース、効果的な精神力回復方法って知ってるか?」
 レーナはいたずらっぽく微笑しながらアースの顔を見上げた。彼は椅子を背にして立っているだけなので、その首の角度はなかなか苦しいはずである。だが彼女にはそんな様子は微塵もない。彼は首を横に振った。
「いや。そんなのわれが知ってるわけないだろう」
「簡単だよ、正の感情を増幅させればいいんだ。楽しいことや嬉しいことがあって正の感情が高まれば、回復力が増す。好きな人のそばにいるってのが、手っ取り早いかもな」
 彼女は花が咲くように笑った。一瞬時が止まり、司令室に沈黙が訪れる。
「レーナ……抱きしめてもいいか? というか色々してもいいか?」
「ん、色々はだめ」
「があぁぁぁっ! そこの二人、公然の場でいちゃいちゃするなあーっ!」
 すると堪忍袋の緒が切れたらしく、青葉が頭を抱えて大声を発した。頭上だったため響いたのだろう、梅花は顔をしかめて耳を塞いでいる。
「お前が言えることか? ああ、そうそう、好きな人のそばだけじゃないな、他人をからかうのもなかなか面白いし良いかもなあ」
「ってお前はここに精神回復のために来てるのかあ!?」
 何の変哲もない様子でにこにこするレーナに、青葉はずんずんとよっていった。無論アースがいるためいつものように襟首掴んで揺さぶるなんてことはできないが、精一杯にらみつける。
「いつ魔族が動くかわからないんだ、回復させなきゃまずいだろう?」
「オレがダメージ受けるだろうがっ」
「そうか? べたべたできてなかなか嬉しそうに見えたが? ほら、見守ってる三人も楽しそうだし」
「オレが回復する前に悶え死ぬっ!」
 アースの鋭い視線に射抜かれつつ、青葉は声を荒げた。レーナは余裕な様子でふふふと笑っていたが、突然真顔になり、それから菖蒲のように微笑する。
「悪いな、だがわれもかなり手一杯なんだ。次の戦いは、おそらく相当色々消耗するだろう。簡易基地を破壊され、ブラストがやられたんだ。次は今までにない程の戦力で奴らは向かってくる」
 だから、と彼女は続けた。宇宙を思わせる黒い瞳はかすかに揺れ、胸元で握られた手は病的なまでに白くなっていた。青葉は思わず固唾を飲み込む。
「梅花はお前に任せるよ。ちゃんと、そばについていてくれよ?」
 彼女の祈りにも似た言葉に、彼は黙ってうなずくしかなかった。

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