white minds

第二十六章 決断‐7

 治療室のベッドの上に、シンは寝かされていた。目立った外傷はなく顔色も元に戻ってはいるが、いっこうに目を覚ます気配はない。
「シン……」
 その傍らで、リンは小さな椅子に腰掛けながら彼を見守っていた。彼女自身も十分な怪我人なのだが、大丈夫だと言い張って寝てはいない。服は替えたため体にさわらないラフな格好になっているし、髪も後ろで一本にまとめていた。だがもちろんちょっとでも動けば背中は痛むし、下手すれば傷口がまた開いてしまう。
「意識ある方が……おかしいくらいなんだもんねえ。でも目覚めるまでは、動くつもりはないから」
 それは暗示のような言葉だった。眠る彼の横顔を見つめながら、彼女はじっと耳を澄ませる。
 彼がここにいるという『音』が聞こえる気がした。気配と言うべきかもしれないが、しかしそれは彼女にとっては音だった。懐かしさと温かさを生み出すその音は、彼女の傷をもいやしてくれている。
「せっかくユズさんが助けてくれたんだから……シン、ちゃんと戻ってきてよね?」
 彼女は彼の顔をのぞき込んだ。眠ったままの彼は何も答えないが、彼女は満足そうに口元をゆるめる。
 霞みかけた視界の中で、薄らいでいく意識の中で彼女は全てを見ていた。その全てを彼女は心に焼き付けていた。
 皆が皆、大切な者を守るために消えていった。残された者は、それを忘れてはいけない。
「この傷だって……ジュリがいなきゃどうなってたかわからないしね」
 肩をやられた時よりも傷は深いはずだが、ジュリは何も言わずにそれを治してくれた。実際、あの状況下でどうして意識を保っていられたのか、彼女自信もわからなかった。出血量の問題に違いないと自らを納得させておくくらいしかできない。
 いつもごめんねジュリ、とつぶやくとドアの開く音がした。ゆっくりと視線を入り口の方へ向ければ、そこにはシーツを抱え込んだレーナがいる。
「レーナ……どうしたの?」
「ん? シーツの替えを持ってきた。ついでに様子見な。みんなかなりばててるようだからなあ」
 立ち上がろうとするリンを制して、レーナはそのシーツを傍にある小さな机の上に置いた。その口調、その横顔、どれをとってもいつもと何ら変哲のない様子である。
「リン、お前も寝た方がいいぞ。絶対後でどっと疲れが出て大変なことになるんだから」
「大丈夫よ私は。シンが起きるまでここにいるわ」
 振り向きざまそう忠告するレーナに、リンは首を大きく横に振った。それを見てレーナは困ったように頭を傾けると、リンの瞳をのぞき込むようにする。
「あのなあ、リン。お前が今痛みを感じないのは何故だと思う?」
「え? 治してもらったからじゃないの?」
「脳内麻薬が分泌されまくってる状態なんだ、お前は。だから今寝ておかないと後に響く。シンを困らせたくないのだろう? だったらほら、そこでさっさと寝る」
 レーナはシンの向かいにある小さなベッドを指さした。部屋に戻れと言ってもきかないと判断したのだろう。このままじゃあらちがあかないと感じたリンは、仕方なく立ち上がった。大きめの衣服がふわふわと揺れる。
「自分が言われたら嫌がるのに、人には平気で強制するのね」
「われは、われ以外の奴をこんな無茶な奴にしたくないだけだ」
 ふらふらと歩きながらベッドに腰掛けて、リンはレーナへと苦笑を向けた。自分でもわかっているのか、彼女も同じように苦い笑みを浮かべている。
「あなたの脳内麻薬は?」
「四六時中分泌されている。もはや末期で、後戻りはできないな」
 リンの問いかけに、レーナは笑った。それは無理してるでも空元気でもなく、ただ『レーナ』として自然に笑っていた。
 だが彼女が泣いていることを、リンは知っていた。
「末期だからって、諦めることないんじゃない?」
「諦めてはいないさ。ただ現実を直視してるだけだ」
「あなたも眠った方がいいと思うわ」
「一仕事終わったらな」
 リンはベッドに横になり、真新しいシーツをかぶる。細かい作業があるらしいレーナは部屋の中をあちこち動き回っていたが、不思議とその様子は優雅だった。揺れる束ねた黒髪を目で追いながら、リンは吐息をこぼす。
「わかったわ、私があなたに勝てるわけないものね」
 拗ねるようにそう付け加えてリンは目を閉じた。するとまたがらりと音がして、扉の開く気配がする。
「レーナ、ここにいたのね」
 それはレンカの声だった。リンは閉じたばかりの瞼を開いて、彼女が扉に手をかけているのを確認する。疲れた顔色のレンカはそれでも気丈な様子で、レーナへと歩み寄った。
「アースが探してたわ」
「アースが? そうか……やらなきゃならないことが溜まってるから、後でと伝えておいてくれ」
 何か言いたげなレンカに、レーナは微笑んでそう言付ける。
 レンカが何をいいたいのかは明らかだったし、それはリンも同じだからよくわかった。
 アスファルトが彼女の生みの親であり、彼女が彼を大切に思っていたことは疑いようのない事実だ。あんなことになって、平気であるはずがない。
「大丈夫だから、そんな顔するな」
 レーナは微苦笑しながらレンカの肩を軽く叩いた。言葉を探すレンカは、だが結局見つからず唇を強く結んで瞳を揺らす。レーナはうなずいた。
「われは覚悟していたから、だから大丈夫。最後は何とかあいつの願いを叶えてやれたしな。だから、後悔はしていない」
 彼女はささやくようにそう言ってレンカの体を反転させた。そして有無を言わさぬ調子でその背を叩き、治療室から追い出してしまう。
「アースにちゃんと伝えておいてくれよ」
 そう付け加えて彼女は扉を静かに閉めた。そしてリンの方を振り向き、口を開く。
「とまあ邪魔してしまったがお前はちゃんと寝てくれよ? われはもう一仕事あるから」
「……はいはい、わかったわよ。あなたは自分以外の人が心配なのよね」
 そんな彼女にリンはそう答え、相槌を打つしかなかった。



 自分はどこにいるのだろう。何が起きているのだろう。
 そうぼんやりと思いながら彼は瞼を開けた。目に飛び込んできた光はそれほど強くないにもかかわらず、それが呼び起こす記憶のせいで彼はとっさに目を閉じる。
 記憶?
 彼はまたおそるおそる瞼を持ち上げながら辺りをうかがった。漂う空気、匂い、そして何よりもこの『気』。それは馴染みのある、安堵感を生み出すものだった。
「シン、起きたのか?」
 澄んだ声が耳に届く。焦点の定まらない瞳で彼はその方を見た。小柄な少女が、凛とした様子でそこに立っている。
「レーナ……?」
「ああ、記憶の混乱はないようだな、よかった。さすがはユズだな」
 シンがゆっくりと頭を傾けると、レーナは微笑んでそう言った。彼は唇を強く結び、視線を逸らす。
「覚えていることが……いいこととは限らない。オレは何で生きてるんだろう」
 独りごちるように言う彼の瞳は揺れていた。その脳裏に蘇るのは、思い出したくもない記憶の数々。大切な者を傷つけ、そして大切な者たちに守られた、救われた記憶。
 自分が犠牲にしたものたちの記憶だ。
 彼は重い息を吐き出し、白いシーツをしわがつく程握りしめる。
「オレがいたから……こんなことになったんだ」
 その声は震えてもいなかったし泣いてもいなかった。ただただ切なくて今にも消え入りそうで、儚げだった。彼女はゆっくりと彼の傍により、その硬く握られた拳に手のひらを重ねる。
「お前がそれを否定してはいけない、だめなんだよ。お前に生きていて欲しくて、ただそこにいて欲しくて泣いた人がいるんだ。お前に生きていて欲しくて身を投げ出した奴がいるんだ。それは各々が決めたことで、それをお前が否定しちゃいけないんだ」
 彼女はかみ砕くようにそう告げた。はっとして彼は彼女の瞳をのぞき込む。
 そこには、彼と同じ思いが確かにあった。
「わかるか?」
「れ、レーナ?」
 泣きそうなのは彼女だった。
 そう感じた彼は戸惑いながら名前を呼んで、そしてふとその首にキラリと光るものを見つける。彼の視線を追った彼女は、ああ、とつぶやきにこりと微笑みかけた。
「これは……アスファルトのものだよ」
 彼女は金色の細い鎖を手にして、上着の内側に隠れていたペンダントを引っ張り出した。それはいつもユズがしていたものと同じだ。
「お前にも、ほら、ある」
 彼女の指を追って彼は自分の胸元を見た。気づかなかったがそこには全く同じペンダントがぶら下がっている。
「それはユズのだ。そこに、彼女はいる」
 レーナの説明にシンは目を見開いた。
『いる』とはどういうことだろう?
 その疑問を瞳に宿らせて彼はじっと彼女を見つめる。
「今ユズの核は確かにそこにある。彼女の力がそこから働き、お前の中の別の力を押さえ込んでいるんだ。だからそのペンダントを、離しちゃだめだぞ」
 彼は息を呑んだ。そして思い出したくはない、しかし忘れられない記憶を掘り起こす。
 ユズは死んだのではなかったのか?
 確かにあの強烈な光が何を意味していたのかはわからない。何が起こったのかはわからない。だがてっきり死んだものと思っていた。
「ユズは、そこにちゃんといるよ。お前とともに生きているよ」
 その言葉に彼はうなずき、泣きそうになるのをぐっと堪えた。ペンダントを手に取ればそれが確かに伝わってくる。そこには確かに力が宿っていて、温かみがある。
「わかってくれればいいんだ。さーて、われの出番は終わりかな。後は、彼女に任せようか」
 レーナは踵を返して扉の方へと向かった。首を傾げた彼は、彼女の視線の先にあるベッドへと目を向ける。
「リン?」
「お前が戻ってこれるようにと、リンは頑張ったんだ。だからお前がそんなこと言っちゃだめなんだぞ?」
 じゃあな、と言ってレーナは治療室を出ていった。取り残された彼は複雑そうに顔をしかめながら、死んだように眠るリンをただ見守る。
「オレに、戻ってくる資格なんてあるのか?」
 その問いかけに答える声は、まだなかった。

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