white minds

第二十九章 過去からの使者‐7

 足音を殺し、気配を殺しながら滝は駆けていた。基地の窓からは死角のはずだし、この時間ならば起きている者は少ないだろう。
 それでも気づかれているだろうけど、と彼は内心独りごちた。
 基地にはレーナが、梅花がいるのだから、どれだけ気を隠しても完全に行方をくらますことはできない。
「それでも何も言ってこないんだから、好きにしろってことかな」
 苦笑がもれた。見守られているという感覚が懐かしくてこそばゆかった。ラウルがどこへともなく消え去ってから、彼は常に先頭に立ち続けてきたのだ。風を常に真正面から受け続けてきた。覆いとなるものも、隣に立つ者もなく。
 いや、いたか。
 口元にほんの少し穏やかな笑みが浮かんだ。視界の隅に見えてきたリシヤの森、そこで出会った少女がずっと隣には立っている。
 今朝も、彼は見送られた。何も言わずにレンカはただ微笑んで、後は任せて、と目だけでささやいた。ただ一人、前でも後ろでもなく横に立ってくれるかけがえのない人だ。
「オレはあの時とは違う」
 未熟なのは同じ、だけど一人じゃない。彼は自らにそう言い聞かせた。ラウルが何を考えているのかはわからない。だが今の自分には帰る場所も、頼れる人も、支えてくれる人もいる。がむしゃらに突っ走って強がっていただけのあの頃とは違う。
 リシヤの森はすぐ側まで迫っていた。風に揺れる木々の葉が光りをまとって輝き、生い茂った草がざわざわと音を立てている。幾度となく訪れたことはあるが、一人で来ると全く別の表情を見せることを、彼は思いだした。静けさと厳然とした空気が混じり合い、今にも自分を飲み込もうとしているように感じる。
 彼はゆっくりと地面に降り立ち、辺りを見回した。動物はもちろん虫も何もかもが見あたらない森というのは、ひどく不気味だった。
 まるでナイダと同じ。
 この間までは今までと変わらず動物たちが徘徊していたはずだ。それだけ気の乱れが、空間の乱れが悪化しているのだろうか?
「でもラウルはこの奥にいるはず」
 彼は息を整え、おもむろに歩き出した。
 ラウルはナイダやリシヤなど、人が立ち入らないところを好んでいた。だから剣の修行もいつだってそのどちらかでやっていた。今思えば神々から気を隠すためだったのかもしれない。多少のことならば、目をくらませることができるはずだ。技使いたちがごく稀に立ち寄ることもあるわけだから、まさか神の一人が立て籠もっているなどとは思わないだろう。
「いつもの所」
 彼はそうつぶやきながら小道を真っ直ぐ進んでいった。周りの木々なんかは変わってしまっているが、道だけは記憶のままに残っている。歩きづらいでこぼことした土の上にまばらに草が生えていた。湿気を含んだ自然の匂いが、辺りには充満している。
 この先にラウルはいる気がする。
 それは勘に近いものだった。『いつも』といっても思い当たる場所は幾つかあった。だが足を踏み入れれば不思議なことにわかるのだ。気配とも何とも言えない感覚が、肌に訴えかけてくる。
 彼は進んだ。迷わず進んだ。再び顔を合わせた時何を口にすべきか考えながら、ひたすら進んだ。一人の神が転生神と崇め奉られる男を何故狙うのか。何故『神』という枠から抜け出したのか。尽きることのない疑問を胸に真っ直ぐ進んだ。
 ふと、視界が開けた。
 途切れた道の先に草原が広がっていた。ラウルの好む、まるで世界から切り離された空間のような場所だ。木々に覆われながらそれでいて明るさを失わない、空を失っていない、そういった場所がラウルは好きだった。
「来たか」
 声は、右方から聞こえてきた。
 視線を巡らせば木にもたれかかったラウルが、ほんの少し口角を上げている姿がある。鈍い金色の髪は日の光に照らされ輝いていた。だが瞳は鋭い光を宿し、獲物を狙う肉食獣がごとき冷たさを秘めている。
「ああ、言われたとおりにな」
「素直な奴だ」
 ラウルはすぐさま剣を抜いた。見慣れたそれは手入れされているのだろうが、それでも長年の汚れが染みついているようだ。否、何かの念とも言うべきか。趣さえ感じさせる柄を、目には見えぬ何かが覆っている。
「一つ、聞いていいか?」
 剣を手にして滝はそう口にした。ラウルは眉をひそめ、それでも黙ったままその場を動かない。風がひゅううと声を上げ、彼の癖のある髪を撫でていった。滝の唇が、ためらいの後開かれる。
「何故そこまでしてヤマトを追うんだ?」
 問いかけに、ラウルは口の端を上げた。嘲笑うような瞳にはほんの少し寂然とした色が滲み出ている。それは昔、ふとした時に見せた横顔と同じ質のものだった。
「オレは剣にしか興味がない。ヤマトは神の中で最も優れた剣の使い手だと言われていた。だから試してみたかった。それだけだ」
 機械的な口調でラウルはそう答えた。それ以上言うつもりはないという様子だった。滝は目を細め、ラウルを見据える。
 真実はそこにある。見えるようで見えない、見えないようで見えるところにある。それは何気ない顔をして嘘の隣に居座り、皆の目を欺くのだ。以前ラウルが、父が、同じようなことを言っていた。
 だから今の言葉にも確かな真実が潜んでいるはずなのだ。
「お喋りはそこまでだ。お前がヤマトに達していようといなかろうと容赦はしないからな」
 そう声を張り上げてラウルは動き出した。大きく跳躍すると、剣を構えて真っ直ぐ滝へと向かってくる。
「やるしか……ないかっ」
 雑念を放り捨てて滝は右手に力を込めた。ここに来た時から既に心は決まっている。倒さなければ、強さを示さなければラウルは答えてくれない。全てを知るためには勝たなければならないのだ。
 繰り出されるラウルの剣を、滝はわずかな動きで受け流す。
 おそらく技は使ってこない。
 それはラウルのこだわりだった。技が加味されればそれは真に剣の力とは言えない。だから木の枝が剣代わりになることも多々あった。
 滝の剣が、ラウルの髪を数本奪い取る。
 勝つ。
 それが残されたただ一つの道。過去の小さな自分と、囚われていた心と訣別するために必要な道。だから今度はためらわなかった。ただ思うままに剣をふるい、ラウルの攻撃をやり過ごす。
 踏み込めばラウルはあっさりと身を翻しその一撃を避けた。受け手に回れば容赦ない切っ先が迫ってきた。
 ラウルの動きに無駄はない。だが滝も負けてはいなかった。最低限の動きでもって、機を逃すまいと精神を集中させる。
 金属音とも違う、耳障りな音が辺りを振るわせた。互いの思いを宿した刃は交わるたびに悲鳴を上げる。おそらくどちらの剣も精神を蓄えることのできるものだからだろう。まるで不定の剣が打ち付けられたように、重なるたびに鋭い圧力を手のひらに感じた。
「甘いっ!」
 ラウルが剣を振り払う。同時にその切っ先が滝の上着の布をかすめ取った。
 だが滝は動じなかった。
右へ強く踏み込むと、剣を上へと振り上げる。それはラウルの頬に一筋、赤い線を付けた。
「ちっ」
 舌打ちしたラウルは一旦後方へと下がる。間が、生まれる。
 ぼろぼろになりかけた上着に目をやり、滝は息を吐き出した。
「父さんの形見、またやっちゃったなあ。後で直してもらわないと」
 彼のつぶやきに、ラウルの眉がぴくりと跳ね上がった。滝はその様子を視界の隅に置きながら、どう打開すべきかを考える。
 ラウルは相変わらず強い。何より動きに無駄がない。だが記憶にあるように、完璧というわけでもなかった。
 泥臭さがない。
 それが今になってようやくわかるラウルの欠点だった。どんなことをしてでも勝つ、そういう気迫も決意も彼にはなかった。戦うスタンスの違いかもしれないが、今まで様々な戦闘を見てきた滝にとっては甘く感じられた。
「オレは負けない」
 滝のささやきはすぐに風に飲み込まれた。そう、勝つためにはまず負けないことが重要だ。それがここしばらくの戦いで彼が学び取ったことだから。
 ラウルが、再び動き出した。あわせて滝も大きく地を蹴り、柄を握る手に力を込める。
 剣が重なり合い、嫌な音が鼓膜を叩いた。上下、右左、繰り出される剣を全て滝は受け流すようにしてしのいだ。最低限の力で守る。
 ラウルの眼差しに苦い色が宿ったその時――――
「!?」
 横殴りに吹き付ける爆風が、二人の体を巨木に叩きつけた。
 その唐突さに滝が目を白黒させていると、すぐ側にいるラウルが立ち上がる気配がする。
「邪魔立てとは無粋だな」
 視線を巡らせれば、草原の向こうには見知った姿が立っていた。肩程まである深緑色の髪に、ゆったりとした服。険しい顔をしているのは、ラウジングだった。
「こんな所での私闘は止めていただきたい」
 いさめる声には、しかし迫力はなかった。得体の知れない物を見るかのような目で、彼はラウルと滝とを眺めている。
「それはオレの勝手だ。お前ごとき若い神にとやかく言われるつもりはない」
「冗談を! 争いの火種を放っておくなど馬鹿げています。こんな事自体、馬鹿げています」
 ラウルの行動が神の常識から外れていることは、滝にも明白だった。おそらくラウジングは戸惑っているのだ。信じられない、という言葉が適切なのだろう。
 滝はゆっくりと立ち上がり、にらみ合うラウルとラウジングを見比べる。
「お前がどうしても邪魔をするというのなら、オレがはお前を追い返すまでだ」
 ラウルが声を張り上げ、剣を構えた。何もしていなくとも肌を突き刺すような気配がそこから放たれている。困ったように眉根を寄せるラウジングは仕方なそうに短剣を構えた。
 だが彼が、それをふるうことはなかった。
 どこからともなく表れた別の黒い影が、その体を木へと叩きつけた。
「ぐふっ……」
 背中を思い切り打ったのか、彼の口から弱々しい声がもれていく。座り込むその前には、一人の少女が立ちはだかっていた。
「すまんな、滝。人数が多くて取り逃がしてしまった。邪魔をしたな」
 そう微笑んで言ったのはレーナだった。その言葉から察するに邪魔者とやらはラウジングだけでないようだ。ラウルの怒りの気配がまた一段と強くなった気がする。
「それはつまり、お前は邪魔をする気じゃないということか?」
 声に棘を含ませてラウルは問いかけた。余裕の態度でいつものように微笑んでいる彼女は、子どもがするようにこくりと小さく相槌を打つ。黒い髪が空気を含んで揺れた。
「もちろん。ここだったら空間歪みまくって困る、ってことにはまだならないしな」
 彼女はそう言いのけると、ラウルの返答を待たずにラウジングへと近づいた。まるで別の生き物を見るかのようにするラウジングは、ただ必死に息を整えている。
「というわけでラウジング、退場願いたいんだが?」
「帰るわけにはいかない。私は命を受けてるんだ」
「なるほど、つまりあっさり引き下がるわけにはいかないのか。それでは名目を作ってやるから安心しろ」
 ラウジングの顔が凍り付くのを、滝ははっきりと目にした。そして次の瞬間、何か得体の知れない力に吹き飛ばされ、彼は木をへし折ってそのまま森の奥へと飛んでいく。
「よ、容赦ない……」
「これで邪魔はなくなったな」
 滝とラウルの声が重なった。
 気がつけば、レーナの姿も既にそこにはなかった。静寂の戻った辺りに、次第に緊張感がたれこめていく。
 二人の視線が、ゆっくりと絡み合った。

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