white minds

第三十五章 目覚めた歴史‐1

 朝方、妙な胸騒ぎに襲われてレーナは立ち上がった。壊れかけた窓ガラスからは朝日が入り込み、ささくれだった床を照らしている。
「まさかこれは……」
 嫌な予感。
 久しぶりに感じる強烈な悪寒に、彼女は身を震わせた。古いベッドではすずりとジュリが寝息を立てている。疲れているのだろう、まだ起きる気配はない。基地での生活ならばジュリあたりは起きてもよさそうな時間だが、身じろぎ一つしていなかった。
「どうしよう」
 彼女はその場をうろうろとした。その度にぎしぎしと床が鳴り、階下に聞こえるのではと思う。
 この嫌な予感は今までにないくらいのものだった。おそらく、『彼女』の恐れる何かだ。
 対策を取るべきだろうとレーナは考えた。ひょっとしたら自分の身にも何かが起きるかもしれない。
 いや、その確率は高いだろう。『彼女』の反応いかんによってはまともに行動できるかも疑問だ。ならば今日は神界辺りにでも向かうべきかもしれない。
 考えながら彼女はあごに手を当てた。頬にかかった髪を軽く振り払うようにして、落ち着こうと努力する。
「駄目だ」
 だがそれも諦めざるを得なかった。早く行動せよと、直感が告げている。それが体中を駆けめぐって、あらゆる感覚を刺激するのだ。とてもじゃないが落ち着いていられない。
 とりあえず外へ出よう。
 そう決意すると彼女は扉へと向かった。音が鳴らないようそっと開くと、ゆっくりと廊下へ出る。
「あ……」
 だがそこでアースと鉢合わせし、彼女は目を丸くした。近くに気があるのはわかっていたが、どうやら廊下に立っていたようだ。怪訝そうな顔からすると、こちらの異変を感じ取ったらしい。
「われは勝手に入るわけにもいかないからな」
「あーそうだな」
「何かあったのか?」
「ものすごく嫌な予感がしてるだけだ」
 ごまかしようがなくてさらりと言いのけると、彼はさらに表情を険しくした。口調を軽くしても言葉の重みは理解したのだろう。その右手が彼女の腕を取り、ぐいと引き寄せられる。
「それはつまり、ものすごくまずいということだな?」
「えーと、そうかも。だから今日は神界へ向かおうと思う」
 彼女は微笑んだ。だがたぶん硬い微笑みだったと思う。彼は眉根を寄せながら嘆息すると、指先で彼女の頬に触れた。まるで仕方のない奴だと言っているようだ。
「なら今奴らを叩き起こす。その様子じゃ一刻を争いそうだからな」
「え?」
 瞬きをするのとアースが動き出すのは、ほぼ同時だった。彼は隣の男部屋へとずかずか入っていくと、何らかの強制的手段を執ったようだ。部屋から陸のものらしいうめきが聞こえてくる。続けてよつきの眠たげな声がもれてきた。
「ア、ア、アースさーん!」
「騒ぐな、下に聞こえる」
「何かあったんですか? 陸さん」
「ア、アースさんがっ」
「とにかくお前ら起きろ」
 問答無用のアースの言葉に、二人は渋々従ったらしかった。逆らうのは無駄だと理解しているからだ。
 すまないなと小さくつぶやきながら、レーナは女部屋へと戻る。こうなってはこちらの二人も起こさざるを得ないだろう。
 全員の支度が終わったのは、それから十分後のことだった。手早く準備するのは皆慣れている。嫌な慣れ方だなとは思うのだが。
「それで、どこへ行くんですか?」
 宿屋の主人へ金を払ったレーナに、すずりが尋ねてきた。支度に追われる人々を見やりながら、レーナは小さく相槌を打つ。
「神界へ行こうと思う」
「神界?」
「そうだ、この星にはちゃんと存在してるからな」
 何故かとはレーナは説明しなかった。だが誰も聞こうとはしなかった。彼女の言う通りに行動することが当たり前になってしまったのだ。見えないよう苦笑しながら彼女は歩き始める。
 そんなに信用されても困るんだがな。
 胸中で独りごちながら人の間を擦り抜ければ、ますます悪寒は強くなっていった。神界はここから割と近いのでまだいいが、一歩足を進める毎に背中をぞくりと何かが駆け抜けていく。
「レーナさん、顔色悪いですよ」
 異変に気づいたのか、心配そうにジュリが顔を覗き込んできた。体調には聡い。レーナは軽く手を振って大丈夫だと合図する。
「とりあえず神界寄ってからな」
 そう言うしかなかった。この通りを抜けたところにある無人の教会が、神界の入り口だった。後数分もあれば辿り着くだろう。連絡手段を確保しておけば、問題が生じても打つ手がある。
 ドクリと、鼓動が跳ねた。
 名前を呼ばれた気がした。否、何者かが体の内側を浸食している気がした。冷たくて熱くてどろどろとした不快な感情そのものが、肌の上で蠢いている。
 まずい。来る。
 それは直感とも警鐘とも何とも言えない感覚。彼女は腕を伸ばして、遠くにある教会の屋根を指さした。
「あれだ」
 あれが神界だと、言うことさえできなかった。たった三文字を口にするだけで精一杯だった。視界が揺れて気持ちが悪い。
「あれが神界の入り口ですか?」
 ジュリの問いかけにうなずこうとすると、頭を強く殴られたような衝撃が走り抜けた。何者かに腕を捕まれたような感覚、ひどい吐き気。自分が立っているのかどうかすら怪しかった。
 ――約束の時だ。
 声が聞こえる。耳にするだけで全身が凍り付く程の冷たい声がする。
 刹那、頭の中に急速に何かが流れ込んできた。
 めまぐるしい映像、感覚、匂い、気配。溢れ出した何かが思考を全て覆い隠し、目の前が急に真っ暗になったようになる。
 体が、震えた。
 頭を駆けめぐる思いと、記憶が。痛い程体を支配していた。叫びたいのに声が出ない。喉をかするようなわずかな息が音を発するだけで、言葉が出なかった。
 森が、海が、空が、見知った者たちが頭の中を駆け抜けていく。胸が痛い。記憶に伴った感情が体を蝕んでいるようだった。苦しくて苦しくて仕方がなくて、レーナは大きく息を吸い込んだ。
 これが、全てだ。
『彼女』が、否、自分が失っていた記憶の全て。奥底にしまわれていた記憶の全て。
 流れ込んできた何かの正体に、彼女は気がついた。否、理解した。
 まるでつい昨日のことのように全てを思い出すことができる。今まで雲のように掴めなくて求め続けたものが、手を伸ばせばすぐ掴める。
 思い出したのだ、歴史の全てを。『彼女』の、いや、自分の記憶を取り戻したのだ。
「レーナさん!?」
 声だけが聞こえるのに、誰がどこにいるかもわからなかった。自分がどこにいるかすら忘れてしまいそうになる。地面がどちらで空がどちらかすら怪しかった。重力の感覚がとうに消えている。
「やっと……」
 かろうじて出た言葉はそれだけだった。溢れ出しそうになる感情が体を支配していて、もう喋れそうにもない。
 笑いたいのに泣きたくて、それなのに涙は出なくて。胸を締め付け、えぐり、揺さぶる思いだけがどうにもならない程に全身を熱くした。
 彼が、目覚めてしまったな。
 彼女はそれをも理解していた。自分が何故全てを思い出したのか、そのきっかけが何だったのかも理解していた。
 目覚めたのは記憶だけではない、あの男もだ。
 そう、奥底に隠されていた全てが今息を吹き返したのだ。
 震えが止まらない状態で、彼女はとにかく腕を伸ばそうとした。その手が引き寄せられて、安堵の息がもれる。
 アースだ。何もわからなくとも、それだけはわかる。荒れ狂っていた精神の波が落ち着いていくのが、その証拠だ。
「レーナ!」
 呼ばれて彼女は無理矢理微笑んだ。それが今できる精一杯のことだった。微笑しながら唇の動きだけで、何とか伝えようとする。
 闇歴が、今目を覚ますのだ、と。

 それは『始まり』の覚醒。

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