white minds

第三十八章 眠れる海へ‐1

 待ち望んだ気配が近づいたのを梅花は感じ取った。それまでは何とか耐えようと、一人でも耐えようと待ち続けた存在が、すぐそこまでやってきている。
「レーナが」
 来る、と小さく彼女はつぶやいた。だがその言葉を捉えた者は司令室にはいなかった。仕方がない。レーナという名前は彼らの中には存在していないのだから。彼らにとってはリティであって、レーナではない。
「リティが来るわね」
 それまで目を伏せて何かを考えていたホワイトが、顔を上げた。彼女も気づいたらしい。気に敏感なのが良くも悪くも白き者の特徴だそうだ。梅花はうなずいて辺りを見回した。
 すると今まで誰も存在していなかったモニター前に、淡い光が瞬いた。意識していなければ見落とすくらいのかすかな光が、モニターから見える景色を一瞬薄れさせる。
 まるで水の中から何かが浮き上がるように、その姿が露わになった。一番前に立っているのは、見間違えることのない大切な者だ。自然と口角が上がるのを止めることはできず、梅花は瞳を細める。
「お帰り、レーナ」
「ただいま、オリジナル」
 澄んだ声が耳に心地よく響いた。けれどもこのやりとりは、きっとブレードやホワイトにはわからなかっただろう。通じたのは目の前にいるレーナと、そして彼女の後ろで仏頂面をしているアースだけか。彼が不機嫌なのはおそらく彼女の隣にいる男のせいだと思われた。そうなのだと、理由もなく直感が告げている。
 百九十近いのではと予想される大柄な男が、レーナの隣に立っていた。今にもさらりと音を立てそうな銀髪、一種の宝石を連想させる紫の瞳には繊細な印象がある。
 彼がダークだ。
 そしてその後ろに控えているのがジーン。
 説明されないのにわかる気がするのは不思議だが、言い切ることができた。今までの話による、印象のせいかもしれない。いや、放つ気のせいか。
「あら、ダークにジーンまで連れてきたのね」
「一応な」
 嬉しそうにするホワイトへ、レーナは顔を向けた。それは今までレンカに告げていたのと変わらない、凛とした笑みだった。しかしその笑みはその場にいる大半の者に怪訝な顔をさせる結果となる。ホワイトも、セインも、ブレードもメイオもスピルも、目を瞬かせた。
「リティ、あなた」
「どうかしたのか?」
「まあ、いいわ。それより気になるのは、そのブレードのそっくりさんなんだけど」
「アースか? うん、まあ、そんな感じだ。深くは気にしないでくれ」
 戸惑いながらもホワイトは問いかけたが、レーナはあっさりと答えを返した。あまりにも簡素で、そして説明になっていない。思わず梅花は笑い声をもらした。だがこのままでは彼らがかわいそうなので、付け足すことにする。簡単に説明できる関係ではないが、何とかしようと彼女は頭を捻った。
「生まれ変わった後の、まあ双子もどきのようなものです」
 そして適当な言葉を見つけると、彼女は朗らかに微笑んだ。ホワイトたちはわかったようなわからないような表情で相槌を打つ。当のアースは不機嫌街道まっしぐら、なんだその妙な説明は、と毒づいていた。
 アスファルトたちのことまで詳しく説明している暇……否、心の余裕はなかった。しかしそれなしにアースの存在を語るのは難しすぎる。後で青葉が聞いたら双子じゃないと叫ぶかもしれないが、クローンという単語がホワイトたちに通じるとも思えなかった。双子もどきのようなもの、がぎりぎりの譲歩だ。レーナも満足そうに首を縦に振っているので問題ないだろう。
「まあその辺はいいわ。ともかく、戻ってきて嬉しいわ、リティ」
「そのために生きてきたからな」
 ホワイトはゆっくりとレーナへ歩み寄り、その細い体を強く抱きしめた。隣でダークが片眉を跳ね上げているのが、梅花の視界に入る。アースはというといつものことで慣れたのか傍観していて、それは後ろにいるジーンも同じだった。ジーンの場合は諦めの色も漂っているが。
「あれだけの無理難題を押しつけられて、よく生きていたわね」
「いや、何度か死んでるけど」
「え?」
「……冗談だ。もう一度会えてよかったとわれも思ってる。でもこれで、肩の荷が下りたよ」
 ようやく腕を解いたホワイトへ、レーナはいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
 確かに、レーナは何度も死んでいる。核は死んでないのかもしれないが、少なくとも体は何度も死んでいた。だがこれもホワイトたちへ説明するのは面倒だ。だからだろう、はぐらかしたレーナは肩をすくめていた。
「リティ……あなた、まるで別人みたいね。表情が」
「あ、この笑顔のことか? 今のわれの癖みたいなものなんだ、気にしないでくれ。この数億年で色々あったからな。人間というのは素敵な生き物だよ」
 戸惑いながらも放たれたホワイトの言葉を、またレーナは適当にはぐらかした。
 リティがいつもどんな表情をしていたのか、梅花は知らない。だがホワイトの言葉からも、彼女が微笑んではいなかったことは明白だった。
 いえ、わかってる。
 誰にともなく心の中で梅花は答えた。リティがどんな顔をしていたのか、知らないがわかっていた。彼女はいつだって寂しそうで、それでも感情を押し殺して耐えて耐えて耐えて。時折寂しそうに笑う以外は、真剣な眼差しを向ける以外は、無表情に近かった。
 昔の、梅花のように。
「本当、まるで別人みたい。でもリティなのよね」
「そうだな、われはリティでもある。でも今の名は、レーナだ」
 レーナは小首を傾げて微笑んだ。ホワイトは瞬きをして、意味がわからないというように首を傾げる。
「レーナ?」
「そう、それが今のわれの名前。リティを受け入れて、同化した者の名前。ほら、格好だって違うだろう? 力を使えば元に戻るかもしれないけど、でも今のわれは昔のリティとは違うんだ」
 レーナは上着を締め付けていた腰の紐を、さっと解いた。袖も飾り気もない白い上衣が露わになる。それはどうやらリティのものとは違うらしい。
 大胆ねえ、と意味不明な言葉が後ろから聞こえてきた。この声はスピルだ。きっとリンでも同じ反応が返ってきただろうなと思いながら、梅花は苦笑する。同時に安堵がこみ上げてきた。この心地よさはうまく言葉にならないが、不思議な安定感が確かにあった。
「そう……でもリティなのね」
 確かめるように、ホワイトはゆっくりと問いかけた。レーナは当たり前だろうと言わんばかりの、花のような笑顔を浮かべて、やおら口を開く。
「われはリティだよ。記憶もあるし、何のためにここにいるのかも、ちゃんと理解してる」
 言い聞かせるよう告げてうなずくと、レーナは辺りを見回した。誰がそこにいるのか確認するように、一人一人の顔をじっと見つめる。
「っつ」
 その瞬間、声にならないつぶやきをブレードがもらした。レーナと目があった瞬間だ。だがそれはすぐ傍にいた梅花にだから聞こえたものだろう。彼女はうかがうようにそっと彼を見上げた。
 痛みと、悔恨と悔しさと寂しさ。いろんなものを複雑に織り交ぜたような顔で、ブレードは唇を噛みしめていた。梅花はおもむろにその手を取る。大丈夫だからと安心させるように強く握ると、驚いた彼の瞳が彼女を見つめた。
「レ、レイン?」
 名前を呼ばれても、何も言わずに梅花は微笑んだ。私はここにいると、ただ囁くように握った手。だがそれが一番必要なものだと梅花は知っていた。辛い時必要なのは言葉ではない。
「人数が足りないようだが。まだ寝てるのか?」
 そんな梅花たちのことなど知らぬふりをしているのか、レーナが子どものように首を傾げた。梅花はすぐに答えようとするが、その前にセインが口を開く。
「ああ、スェイブがまだ眠ってる。カームとウィックは起きたんだが、うるさかったから追い出した。今は人間たちと遊んでるはずだ」
「あーあ、遊んでるか。そうだよな、生まれ変わっても人格形成の問題は改善されなかったんだもんな」
 セインの答えに、深々とレーナはうなずいた。当人たちが聞いたら怒り出すであろう台詞だ。
 無邪気さを通り越した天然、それが二人を形容するに相応しい言葉だった。純粋ではあるがそれ故にやっかいだ。きっと遙か昔から皆は悩まされてきたに違いない。
「それでリティが来るのを待ってたんだ」
「われを?」
「お前が来るまで、レインは記憶戻さないって言ってたからな」
 セインとレーナの視線が、梅花へと注がれた。レーナは全てを飲み込んだようにうなずいて、にこりと微笑みかけてくる。
「なるほど。悪いな梅花、面倒な仕事を押しつけてしまって」
 労るレーナに、気にしないでと梅花は首を横に振った。名乗り出たのは当事者だからであり、名前を覚えていられるからだ。加えて彼女はセインの影響を受けない。中継役としてはぴったりだった。
「ってことは、もうレインの名を呼んでもいいのですね」
 そこでそれまで蚊帳の外だったケイファが、嬉々として口を挟んできた。彼女の言葉が部屋を一瞬で静める。梅花はゆっくりうなずいた。
「そういうことになりますね」
 そろそろ自分も今の記憶を手放さなければならない。覚悟はしていたがいざ目の前に迫ってくると胸が痛んだ。また戻ってこられるのかわからない。その後自分の意識がどうなるのかも、体がどうなってしまうかもわからなかった。
 怖くないと言えば嘘だ。怖いし不安だし逃げ出したくなる。自分という存在が消えるようにも思える。
 昔は、消えたいと思っていたのに。
 心の中で梅花は苦笑した。一体いつからだろう、消えてはいけないと、消えたくないと思い始めたのは。
「大丈夫。梅花なら、すぐレインを受け入れて戻ってくるよ」
 するとその不安を見透かすかのように、レーナが言った。いや、実際見透かしているのだろう。梅花の心はレーナへと流れやすい。またレーナの心は梅花へと流れやすかった。最近それをとみに感じる。それが時を同じくして生まれた『双子』だからなのかは、わからなかったが。
「そうね」
 レーナはリティの思いも記憶も全て受け入れて、一つになった。同じ道を歩まなければ、自分もおそらく戻っては来られないだろう。
 だが、いずれは戻ってくる。
 梅花は決意した。まだ小さい桔梗を置いてけぼりにはできないのだ。必ず、近いうちに戻ってくる。
「じゃあレーナ、後はお願いね」
「ああ、大丈夫。任せておけ」
「名前は、レーナが呼んで」
 そう頼み、梅花は破顔した。今この場にいる中で、今一番心安らげるのは彼女の声に違いなかった。迷いも、不安も、全て断ち切ってくれるのは彼女の声だ。過去と今とを繋ぐ存在。
「わかった」
 数人が何か言いたげにしているのはわかったが、梅花はそれを無視した。残念ながら今の彼女にはブレードの機嫌を取る余裕も、皆に細かい心情まで説明してやる余裕もない。ただ決意が揺らがぬうちに、その時が繰るのを待つだけだ。
「じゃあしばしのお別れだな、梅花」
 ゆっくりと囁くようにレーナは言った。梅花はうなずき、握ったままだったブレードの手をさらに強く握る。
 桔梗のこと、ネオンたちに頼んだままだったな。
 そんなことが頭の隅に浮かんできた。だが今会えば、決心は揺らいでしまうかもしれない。すぐに戻ってくればいいだけのことなのだと、彼女は自らに言い聞かせた。
「目覚めの時だ、ビュレインピーツ」
 レーナの声が耳に響いた。彼女の唇が紡ぎ出したのは、無意識に体を震わせる心地よい旋律だった。それはまさに名前というより音だった。共鳴した体の内側からも同じ音が溢れ出す。自分の名となった音が、あらゆる感覚を通して世界へと溢れていく。
 視界が一瞬で、薄紫の光に覆われた。いや、覆われているのは彼女自身かもしれない。体の奥底から熱い何かがわき上がってきた。溢れんばかりの思いとも、記憶とも、力とも表現できる何か。意識がまどろんでいき、それまで鮮明に描かれていた世界が霞んでいく。
 返す、ね。
 小さく梅花は囁いた。きっと声にはならなかっただろうが、そんなことは気にならない。自分が立っているのかわからない状況で、手に感じる温かさだけが確かだった。
 いいえ、借りるだけ。
 答えが、返ってきた。自分と同じ声で、自分の意志に反して、自分の内側からわき上がる声。それを確かに梅花は聞いた。自然と微笑が浮かんでくる。
 ありがとう。
 誰に向けた言葉なのかもわからなかった。けれどもそれも気にならなかった。こみ上げるままに放った言葉は、自分の中に染み込んでいく。
 世界が、溶けていた。少なくとも彼女にはそう感じられた。水に浸かった時のような軽い浮遊感と体を包む熱は、まるで体が世界に溶け出しているかのようだった。
 すぐに、戻ってくるから。
 囁いて、梅花は瞼を閉じた。途端に全ての感覚が失われていく。
 彼女の意識は緩やかに、白いまどろみへと包まれていった。

◆前のページ◆   目次   ◆次のページ◆

このページにしおりを挟む