white minds

第三十八章 眠れる海へ‐7

 草原にたたずむレーナの背中を、よつきはじっと見つめた。彼女たちを見送りに来たのは彼を含めて十人だった。それ以外の者たちはまだ『見知らぬ仲間』たちと顔を合わせる勇気がないのだ。その気持ちを理解しながらも、彼は少し寂しく思った。これから起こるであろう戦いを考えれば、それはいくらなんでも少なすぎる。
「じゃあ行ってくる」
 軽く振り返ったレーナは、ただ一言簡素にそう放った。浮かべているのが余裕綽々の笑顔でなければ、緊張しているのと勘違いしてもおかしくない言い様だ。だが彼女はいつも通り微笑んでいる。強く、朗らかに、代名詞にもなる程の微笑を浮かべていた。
 だからよつきも思わず笑い返した。不思議と軽さを感じさせるその笑顔にはついつられてしまう。
 彼女の向こうには、ホワイトを始めとする『青の海』行きの面子が揃っていた。皆それぞれの決意を秘め、思い思いの顔をしている。しかし総じて空気は張りつめていた。当たり前だ、これから戦う相手を考えれば緩んでいる方がおかしいのだから。
「あちらとこちらの時の流れは違うから、おそらく戻ってくるのは三日以上後のことだ。それまであらゆる世界に異変が生じると思っていい。まあ多くは望まないが、死なないように頼むな?」
 けれどもそんな雰囲気は意に介さず、少しおどけた口調でレーナはそう告げた。神界のことはアルティードたちが、魔族界のことはダークが何とかしてくれる手筈にはなっていた。神魔世界など他の世界ははっきり言って無防備だが、こればかりは仕方がない。そこに割く戦力など存在しないのだ。『海』からの距離が遠いため、影響が最小限であることを祈るしかない。
 もっとも、神界の方も心配と言えば心配だった。どうやらシリウスはアルティードに、ものすごくかいつまんだ曖昧な説明しかしていないようだった。レーナにはまた説明下手とからかわれていたが、この危機的状況を神々がどれだけ理解してくれたかはわからない。
 つまり、あらゆる面で不安要素は大きかった。だからただ死ぬなよと、それだけを望んでいるのだ。
「もちろんです。ありがたいことにこちらにはケイファさんやブレードさんがいてくれますからね。大丈夫でしょう」
 よつきも同じようにややくだけた調子でそう返した。実際は命よりも関係修復と胃の方が心配なのだが、それはここでは黙っておく。
「ああ、そうだな」
 しかしそれでも読みとったのだろう、レーナはほんの少し微苦笑するとうなずいた。視線はちらりとよつきの背後にいるビート軍団、アキセ、サホ、あけり、ユキヤ、ケイファ、ブレードへと向けられている。その瞳からは何を思っているかはわからなかったが。
「リティ」
 そこでホワイトが、そっと声をかけてきた。レーナは首を縦に振ると、再び颯爽と彼らに背を向ける。
 これで最後かもしれない、その可能性はあるのだ。だが彼は別れの言葉をかける気などなかった。今はただ、見送るだけ。無事戻ってくると信じているから。
「どうか」
 誰も死にませんようにと、よつきは祈った。瞬時に消えた者たちを思って、強く強く祈った。


 時は満ちた。約束の期限、その最後の日。




 降り立ったのは、視界いっぱいに広がる砂浜だった。時間も空間も全ての感覚を狂わせる白い砂の上に、そっと彼女は足を下ろす。
「来たか」
 そして声は、予想通り唐突に聞こえた。目的の人物は、かろうじて視界に入る距離に立っていた。来るのがわかっていたのだろう、特別驚いた様子もなくたたずむ姿はそれだけで威圧する何かを放っている。
 否、彼が放っているのではなく彼女たちが勝手にそう感じているのだ。彼の気にはまだ何の感情も込められていない。悲しみも嘆きも、怒りさえも。
 胸の奥の痛みを押し殺すようにして、レーナは彼を真っ直ぐ見つめた。広がる砂の上、青くぼんやりとした影がある。
「ああ来たよ、期日だからな。それにセインの記憶は戻った。今度こそ、賭はわれの勝ちだ」
 開口一番レーナはそう述べた。すると冷たい瞳のまま、しかし予想外にもディーファは素直にうなずいた。揺れる青い影がそれを告げている。蜃気楼のような存在がその力でもって、世界を通して意志を伝えていた。
 あの時彼は、何をしてもいいと彼女に言った。だが簡単に死んでやらない、とも。言葉を紡がなくとも結果は見えているのだ、悲しい結果が。けれども彼女はそれでも諦めきれないと、どうにかしたいと寂さを堪え口を開いた。震えそうになる手で服の裾を掴みながら、はっきりと言葉を放つ。
「何でもしていいんだったよな?」
「ああ。お前たちが何をしようと、それは勝手だ」
「幸せになってくれと、頼んでも?」
 そう問いかければ動揺したのは、当のディーファだけではなかった。後ろにいた者たちの気配も、あからさまに揺れている。それがディーファの思いと重なって空気を激しく震わせた。体が捻りきられるのではないかと思うような、強い痛みが走る。それでも困惑する彼を、彼女は真正面から見据えた。あらゆる感情に屈することがないようにと、強く自分に言い聞かせながら。
「何を、馬鹿な」
「お前も知っての通り、われって諦めが悪くてありもしない希望にすがるのが得意なんだ。だけど、だから、今こうして――」
「黙れっ!」
 言葉を続ければ、彼はいつになく声を荒げた。その激しい怒りと混乱にさらに世界が震える。体を芯から揺さぶられたような目眩がした。彼の強い感情が、思いが、この海の周囲ごと彼女たちを飲み込もうとしているのだ。それに必死に抗いながら、レーナは奥歯を強く噛みしめる。諦めの悪さがどうしても、最後の希望を捨てようとはしなかった。
「お前が得たものは、偽りだ」
「でもわれは確かにこれが欲しかったんだ。そしておそらく、お前も――」
「うるさいっ!」
 しかし願いも虚しく、ついにディーファの腕が動いた。言葉を遮ると同時に鼓膜をつんざくような轟音が鳴り響き、彼女のすぐ横を黒い光が通り抜けていく。これに当たれば即死だ。それは何度も目にした光景だからこそ、よくわかっている。唇から重い息がもれた。
「殺したいのだろう? ならばそうすればいいではないか」
 続けてディーファの背後に、無数の黒い光弾が生み出された。レーナは寂しげに微笑んでほんの少し首を縦に振る。胸の奥にある傷に、何か苦いものが広がったように感じられた。
「うん、本当は気づいてくれるのをは待ちたかったけど、でもこれ以上は待てないんだ」
「リティ」
「ああ、大丈夫ホワイト。戦うと決めたら戦えるから、大丈夫。だから心配しないでくれ。今、切り替えるから。うん、大丈夫」
 けれどもその思いを振り払い、背後からかかった不安げなホワイトの声に、レーナはそう宣言した。わかっていても確かめたかった、ただそれだけだったのだ。彼と彼女を分かつたのはただ希望だったのだから。
 刹那、黒い光弾が彼女たちへ向かって放たれた。無数にも思えるそれは、スェイブの生み出した結界によって全て瞬時に霧散する。
「決めたからには全力で」
 背後にいるスェイブを一瞥して、レーナは砂を蹴った。覚悟を決めたからにはもう迷わない。それはリティにはない、だがレーナにはある一種の強さだった。戸惑ったら負けるのだと彼女はよく知っている。戸惑ったために死んでいった者たちを、何度も見てきた。
「せめて今だけでもっ」
体の悲鳴を無視して、彼女は奥底に眠っていた力を解放した。同時に体を包んでいた全てが瞬時に変化する。レーナのものからリティのものへ。服も靴も何もかもが、おそらく遥か昔の記憶にあるままとなった。
「リティ!」
 レインの放った切羽詰まった叫びの意味を、彼女もすぐに理解した。もともと『レイン仕様』である体でリティの力を使うのは危険なのだ。しかし今は戦闘専用であるリティの力が必要だった。だからかまわず彼女は右手に刃を生み出す。青白い刃を。
「愚かな」
 だがその切っ先はディーファの体へは届かなかった。揺らめいた彼の体は予想通り、瞬く間に消えていってしまう。
「来るっ」
 そして同時に、背後から幾筋もの光が迫ってくるのを感じた。彼女が直感で一歩横へと踏み出せば、黒い光の筋が次々とその横を擦り抜けていく。
 ディーファは転移にそれほど力を使わなくてすむ。そしてその攻撃はあらゆる空間を経ることができた。つまり彼の放つ技はどれもどこから飛んでくるかわからないという、とんでもない特徴を持っているのだ。しかもそれを技で弾くことは困難なのである。可能なのは強力な結界か、もしくはエメラルド鉱石製などの特殊な武器のみで。
「アースっ」
 迫り来る黒い筋を避けながら彼女は叫んだ。瞬時に走り寄ってくる彼を一瞥し、片手で結界を生み出す。結界に弾かれた青白い光球が砂を焦がした。鼻につく嫌な臭いに自然と眉根が寄るが、それでも決意を秘めた瞳は揺るがない。
「レーナ」
「背後を頼む。われはあいつに一撃加えることしか考えないから、後ろから来る攻撃まで避けてられない。あいつの攻撃はこれで叩き落としてくれ。あ、お前の背後は守ってやれないからな?」
 彼女は彼の方を見ずに、まくし立てるようにそう告げた。そして光とともに手に収まった剣を、彼に向かってつき出す。一見鉄のように変哲のない剣。だがそれはこの『青の海』にある岩から作り出された、この世で最初のエメラルド鉱石製の武器だった。
「お、おいっ!?」
「来るぞ」
 レーナは再び砂を蹴った。身を低くして光をやり過ごし、視界の端に入った揺らぐ影めがけて青白い刃を投げつける。
 とにかくディーファの注意をひきつけなければならない。しかし避けるだけでは確実に彼は興味を移すから、それだけでは駄目だった。彼にホワイトの動きを悟らせてはいけない。
「無謀だな」
 彼女は小さくつぶやいた。攻撃を避け続けるだけでも無理な話なのだ。それができずに死んでいった者たちばかりなのに、さらに攻撃しようだなんて無謀すぎる。
 それでもやらなければならない。
 頬を黒い光がかすっていった。体が焼かれるような痛みに奥歯を噛みしめ、それでも背後にある気に安堵を覚える。今なら、できる。
 右手に構えた刃が、一際強く輝いた。蹴り上げられた砂が空を舞った。




「ダーク様?」
 不思議そうにかけられた声を、ダークはあえて無視した。今感じ取ったのは確かに戦いの始まりだった。直接ではない、だが湿った布をまとった時のような、じわりとした不快感が空気を通して伝わってくる。
 これは確かにディーファが動いた気配。そしてリティがその力を解放した気配だ。
「んっ」
「うわっ」
 それに一瞬遅れて、大きく地面が揺れた。まるで地が割れるのではと思われる程の揺れに、周りにいた者たちが次々と膝を折る。けれども心構えがあったダークは違った。踏みとどまった彼は見えない世界へ心を馳せるように、曇ったままの空をじっと見つめる。
「これは、こないだと同じ……?」
「いや、もっと強いわ」
「んなっ」
 そこで言葉を交わす部下たちを、今気がついたようにダークは見下ろした。説明のためにと呼んだウィザレンダ、マトルバージュは他にも数人の仲間を連れてきた。その者たちをダークは直接見たことがなかったが、精堂陣の部下だという。だからかまわず話し始めたのだが、すぐに異変が彼を襲ったのだ。
「ダーク様、まさか」
 青い顔で見上げてくるマトルバージュに、ダークはうなずいてみせた。頬にかかる銀糸がややうっとうしい。彼は目を細めて口を開く。
「ディーファだ。どうやらリティが戦いをけしかけたようだな」
「そんな、ダーク殿。それは無謀すぎます。いくらリティでもそれではもちません」
「そうです、ダーク様。今すぐ、何が何でも行ってくださいっ!」
 しかし彼が静かに答えれば、噛みつくようにウィザレンダとマトルバージュが口々に叫んだ。ディーファの恐ろしさを知っているからこその言葉だ。本気を出したディーファなど考えたくもない。戯れの攻撃でさえ、いとも簡単に多くの命を奪っていくというのに。
「だが、私は行けないのだ」
「どうしてですか!?」
 目を見開く部下に言い聞かせるよう、ダークは首を横に振った。立ち上がったマトルバージュが詰め寄ってきて、苦しそうに唇を噛みしめている。その汗ばんだ癖のある髪は額に張り付いていた。それはおそらく恐怖による汗だ。ダークは眉根を寄せて大きく息を吐き出す。
「別の役目があるからだ」
 さすがに追い出されたのだ、とは口にできなかった。言ってもおそらく信じてはくれないだろうし、言いたくもなかった。
 彼女にはもう支えはいらないのだ。彼が心配する必要などないのだ。たとえこの戦いが無事終わったとしても、自分は幸せになれるのだろうかと疑問になる。
「っ!?」
 だがそう考えたところで、彼ははっとして息を呑んだ。今無意識に至った考えに背筋が凍りそうになった。
 同じことを聞いたことがなかったか? 同じようなことを彼女が口にしていなかったか?
 心が震えたように思えた。彼女を、彼らを、部下たちを失いたくはない。守りたいと思う。けれどもその先に、自分のいる確かな未来が描けなかった。未来は描けるのだが、そこに自分の姿が見いだせない。
「ダーク様?」
 再度かけられた訝しげな声に、彼は小さく首を横に振ることしかできなかった。今なら確かに彼女が言っていた『孤独』がわかる。自分が不確かな存在になったという感覚も。これは確かに危険な思いだ。ただでさえ『海』に近い存在である自分たちの、力を持った存在を脅かす危険な思い。
 しかし思考はそこで完全に中断された。強烈に背中を駆け抜けた悪寒が、全ての思考を遮断した。
「まずい」
 彼は思わず声を上げた。『海』と近づいた自分だからこそよく感じられる波のうずき。それが今まさに生み出されようとしていた。
「ダ、ダーク様?」
「何がまずいのですか?」
 話に全くついていけていないマトルバージュとウィザレンダが、動揺に声を発する。もとより口を挟めない他の者たちは、互いに顔を見合わせていた。この波のうずきが感じられなければ、彼の焦燥感を理解することは不可能だろう。何度か深呼吸を繰り返してから彼は空を見上げた。
「ディーファが本気を出したせいで、海にまで揺れが及ぼうとしている」
「海? あの海がですか!?」
「ホワイトが危ない」
 部下の問いを無視して、ダークは強く地を蹴った。背後で慌てた声が上がり、同時にどこからから細い光の筋が現れ視界をかすめていく。ついにディーファの攻撃が他の世界まで影響し始めたのだ。だが今は、それより重要なことがあった。
「海にホワイトが引きずられぬうちに、決着をつけなければ」
 彼は飛び上がると、青の海目指して意識を集中させた。背後からは名を呼ぶ声がかすかに聞こえていた。

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