white minds

第四十章 全ては愛故に‐5

 耳をつんざかんばかりの轟音に、思わずスピルは顔をしかめた。突きだした手はとうにだるくなっており、額からは汗が滲み出ている。体が重い。意識も遠のく。それでも耐えているのは全て思い故だ。逃げ出してはいけないという、ここで諦めたら何もかも終わるという思いが、瀬戸際で意識を繋ぎ止めている。
「そろそろきついんだけど誰か来てくれないの?」
 だがそれでもぼやきはもれる。そんな声に対して返ってきたのは苦笑だった。草原に片膝をついて右手を掲げたクーディが、息を整えながら首を横に振る。
「それは、まだもう少し先だろうな」
「そう、そうよね。予定より早いんだものね」
 わかっていたことを口にされてスピルはため息をついた。今も手はかすかに震えている。それも全て、手のひらに感じる見えない圧力のせいだ。
 神魔世界へ行き結界の準備をしていたスピルのもとに、まず駆けつけてきてくれたのはカームとウィック、そしてケイファだった。ケイファを呼んできた二人はすぐに彼女と合流することができ、おかげで巨大結界の準備は思っていたより早く進んだ。次に現れたのはクーディで、彼も予想していたより早くやってきた。おおよそ魔族が降りてきそうな場所、その情報をしっかりと持って。
 その次にやってきたのは、予想外にも精堂陣たち五人だった。まさか彼らが来るとは思っていなかったスピルは驚いたが、同時に嬉しさに顔がほころんだ。それはジーンの復活を意味し、ダークの復活を示唆している。リティは上手く彼らを回復させることができたのだ。ならばホワイトのもうじき目覚めるだろう。
 しかし、事態は好転ばかりはしなかった。
 後は魔族の出現場所にあわせて微調整をするだけ、というところまで辿り着いた時、青々とした空に妙な歪みが生じた。
 来た。
 それは誰もがわかる、けれども信じたくない兆候だった。
 転移で一気に空へと現れたのは魔族の大軍だった。いや、大軍という言葉で表していいのかどうかわからない。ともかく空が真っ暗になる程のすさまじい数だった。それが全員、我先にと争うように、地上へと勢いよく降りてくる。ついに魔族の地球進撃が現実のものとなったのだ。
 スピルたちは焦った。だから仕方なく結界の微調整は諦めることにして、おおよその目星をつけることにした。魔族たちが降りてくる場所と神々のいる宮殿の間を予測して、巨大な結界を生み出す。一端はスピルが、一端はケイファが担った。理由は簡単、準備に関わっていた時間が長いためだ。
「でも長くは保ちそうにないわね。残念ながら」
 スピルはうめいた。生み出された結界は巨大で、降り立った魔族たちを半ば包み込むようにしている。が、本当は包み込めていない。実際空と彼らの背後にはぽっかり穴が開いていた。だがそうと気づかせていないだけだ。ディーファによって空間の歪みがひどくなっていたせいもあるだろうし、統制が取れていないせいもあろう。怒りに駆られた彼らは結界に向かってがむしゃらに攻撃を加えていた。どうやら神のものと思っているようだ。最も半分は間違っていないのだが。
「もともと一時しのぎだったからな」
 クーディの苦しげな声にスピルは嘆息する。彼女側にいるのはクーディの他に痛雷陣つうらいじん悠到陣ゆうとうじん、禁剛陣の三人だけだった。残りのカーム、ウィック、精堂陣、媒竜陣ばいりゅうじんはケイファ側についている。だがこの人数では当初考えていたよりも時間は保ちそうになかった。いくら上位の神や魔族、黄色き者であるとはいえ、精神量は無限ではない。しかも結界は絶え間なく攻撃を受け続けているのだ。準備期間も短いために、この地球を包む巨大結界のようにはいかない。
 結界はいつか破られる。しかもその前にほころびに気づかれるかもしれない。
 どう考えても光の見えない状況だった。まだ神は動き出していないが、それも時間の問題だろう。自分たちの本拠地にこれだけの魔族が乗り込んでくれば、すぐにでも動かざるを得ないはずだ。
「来たぞ」
 するとそれまで後方で黙っていた禁剛陣が、絞り出すように声を張り上げた。重い顔をする彼の視線の先へと目をやれば、そこにはどこか煌びやかな印象の宮殿が見える。神々の本拠地である神界、その下に建つ宮殿だ。
「ついにか」
 その入り口前に、数百人程の影が現れていた。彼女から肉眼でははっきりと見えないが、その気で彼らが神であると明らかにわかる。
「神も動き出したのね」
 スピルは唇を強く噛んだ。魔族が地球へと降り立ったのだ、それは当たり前の判断だろう。遅かったのはクーディの説得が効いていたのか、それとも予想よりも早い進撃にうろたえていたのか。しかしともかく決意してしまったことには変わりなかった。彼らは人間たちの多く住むこの地球で、魔族と真っ向から対峙する気なのだ。
「彼らはこの結界を突破するだろうか?」
 禁剛陣が苦虫をかみつぶしたような声でつぶやく。冷静な者がいれば、統率者がいれば、結界が完璧でないことなどすぐ気がつくだろう。だがその時神がどう動くかはわからなかった。何も考えずに突っ込む者もいるかもしれないし、魔族の体力が少しでも減るのを待つとも考えられる。
「アルティードやケイルがいれば、さすがにすぐさま戦闘を始めるとは思わないのだが」
 悔しげに拳を握ったクーディがそう言った。聞き覚えのある名前に顔をしかめてスピルは考える。ああ、それは確か現在地球神の代表となっている者だ。頼りになるいい人だよとそっとリンが教えてくれた。ならば彼らに期待するしかない、戦いの幕が切って落とされないことを。
「その二人がいれば、何とかなりそうなの?」
「わからない、恨みに取り憑かれた奴らがいるからな。まあ魔族が疲れるのを待ちながら警戒、という策なら、戦力に乏しい奴らのことだから納得するかもしれないが」
 スピルが問いかけると、クーディは皮肉そうに口元を歪めてそう答えた。やはりそう簡単な問題ではないらしい。
 注意深く見守っていれば、神の数がどんどん増していることがわかる。陣形でも取っているのかのろのろとこちらへ近づきながらも、着々とその数を増していた。
 結界の前で止まってくれればいいと、彼女は願う。彼らが信じられない程馬鹿でなければいい、と切実に祈らざるを得なかった。
「すごい数だな」
 目を疑うクーディにスピルはため息で同意を伝えた。増え続ける神は、遅々とした歩みではあるが彼女らの方へと進軍している。威圧感すら放っているように見えるのは、止められないことへの危惧故か。
「この結界を、神はどう思うだろうな」
 禁剛陣の疑問に答える声はなかった。彼女たちの仕業だとアルティードたちは気づいてくれるのか?
 魔族が破ろうとしているところを見れば、彼らのものではないとわかるはずだ。しかしその後どう考えるかは定かではない。
 時が長く感じられた。魔族の放つ炎が、水が、雷が、風が、スピルたちの維持する結界へと圧力を加えてくる。その間にも神はゆっくりと近づいてきていた。もう先頭に立つ者の顔がはっきりと見える。何となく覚えがある偉ぶった神々が視界に入り、口元に苦い笑みが浮かんだ。
 緊張に顔を強ばらせた彼らは何を思っているのだろうか? これから彼ら自身が何をしようとしているのか、わかっているのだろうか?
 だがそれでも、たとえわかっていなくとも両者の距離は縮んでいく。そしてついに、神と魔族は真っ向から対峙した。
 巨大な結界越しに、長年ともに相手を恐れ続けていた存在が、言葉を交わすことなく向き合った。神を前にして魔族の滅茶苦茶な攻撃はやや弱まったが、それでも止んだわけではない。爆音や技同士がぶつかり合って放たれる耳障りな音が、青い空へと吸い込まれていく。
 祈りが何度も胸の中で繰り返された。もう少しでいいから保って欲しいと、そうすればきっとホワイトたちが駆けつけてきてくれるから、と。
 無言の時間がしばらく過ぎた。神々はこの状況に困惑しながら、それでも何が起こっているのか把握しようと努力しているようだった。魔族はといえば精神が尽きるのを恐れたのか、冷静になった者たちから次々と攻撃の手を止めていく。
 魔族が結界のほころび気づけば終わり。いや、一時的に結界範囲を広げることができるからすぐ終わりではない。だがより持続時間が短くなることは確かだった。目の前の神に気を取られて気づかないことだけを、スピルは願い続ける。
 刹那、求め続けていた気配の片鱗を、彼女は感じ取った。すぐ背後に現れた優しい気配に、涙がこみ上げそうになる。
『メイオ!』
 彼女の喜びの声はクーディのものと重なった。転移で現れたのはメイオだった。彼は彼女の隣に膝をつくと、掲げた手のひらに自身の手をあわせて耳元で囁く。それは甘美な響きにも似た、心を震わせる一言だった。
「今、ホワイトたちが来る」
 そう言って目を合わせてくると、彼は柔和な笑みを浮かべた。待ちこがれた言葉にスピルは勢いよくうなずく。安堵に崩れそうになる上体を叱咤激励すれば、向かいのケイファ側にはスェイブとベレットが駆けつけたのだと気づいた。
 ホワイトが目覚めて、来る。胸中で繰り返せば萎えかけていた心に潤いが戻った。重ねられた手のひらの温かみにも、自然と笑みがこぼれる。
 メイオがそう言うのだから間違いはない。たとえ結界のほころびに気づかれても、ホワイトが来るまでほんの短時間だ。保たせることができる。そう思えば体の奥底から力がわいてくるようだった。ホワイトがどうやってこの戦いを止めようとするのかは知らないが、それでも胸の中は落ち着いていった。
 そして次の瞬間、予想もしなかった巨大な気配が突如背後に現れた。それが何なのか振り返ろうとすれば、存在を知らしめるような強い風が広がる草原をざわざわと揺らす。
「あれは」
 誰かのつぶやきに導かれるよう、目を細めながらスピルは振り仰いだ。まず目に入ったのは白だった。日の光を反射する麗しい白が、目に飛び込んでくる。
「これは……」
 スピルは瞬きを繰り返した。青々とした草原に、それまで何も存在していなかった広大な草原に、見覚えのある白く巨大な建物が出現していた。華美ではないが優美な曲線を有する、神技隊が『基地』と呼んでいた船。何もなかったはずの空間にそれは堂々と建っていた。さも以前からそこにあったかのように。
「基地ごとか」
 驚いたようなクーディの声が聞こえた。こんな巨大な物ごと転移というのは無謀にも思えるが、与える影響は大きかった。維持した結界の向こうからもざわめきが伝わってくる。誰もがこの船の登場に目を疑い、息を呑んでいるようだった。確かに戦いを止めるなら手っ取り早い方法だ。
「ホワイト」
 期待を込めてスピルはつぶやいた。希望を叶えてくれるだろう存在の名を、囁くようにつぶやいた。
 同時にその船の上に、薄紫色の光が唐突に現れる。光を纏うというより光そのもののような存在が、船の上に浮かんでいた。
「ホワイトだ」
 隣にいるメイオもその名を口にした。目を凝らせば、光の中にホワイトがいることは確かだった。青い空を背にして浮かぶ彼女の姿は幻想的で美しい。色を変えながらなびく長い髪も、全てを見透かすような薄青の瞳も、無論放つ気も見る者を魅了して止まなかった。
 この世のものではないと見るだけでそう信じさせてしまう存在感が、誰の意識をも惹きつけてしまう。
「セイン、ダーク」
 皆の、おそらく全ての神と魔族の視線を奪う中、彼女の唇は愛しげに名前を紡ぎ出した。一瞬赤い炎が、黒い波が見えたような気がする。だがそれもほんの刹那のことで、気づいた時には、彼女の隣に二人の青年がたたずんでいた。
 セインとダーク。神の頂点と魔族の頂点。二人はホワイトを挟むように静かに浮かんでいた。迷いもなくただ決意だけを瞳に宿した二人は、彼女を守ろうとするかのようだ。
 そう、白き者、赤き者、黒き者、その頂点がここに集っていた。
 ダークも立ち直った。セインももう、ホワイトを守れなかった過去を後悔してはいない。
 そのことを感じ取ってスピルは目を細めた。純粋な思い故に傷つけあってきた者たちは、もうその過去と訣別したのだ。過ちを忘れたわけではなく、でも前を向いて、未来を見据えているのだ。
「私たちは二度と、過ちは繰り返してはならないの。いにしえの鎖を断ち切って、もう、終わりにしましょう」
 そう囁くよう言ってホワイトは片手を前へと掲げた。薄紫の光に包まれた手のひらを中心に、何か得体の知れない波動が空間ごと伝わってくる。
「もう、無駄な争いはやめにしましょう。これ以上悲しみを紡ぐのは止めましょう、子らよ」
 告げてホワイトが優しく微笑するのをスピルは目にした。その途端、視界が全て薄紫に染まり、体を温かい何かが包み込んでいく。
 終わるのだ、全てが。いや、『始まり』が終わるのだ。
 水に浸かっているような浮遊感を覚えながら、そのことをスピルは悟った。何も聞いてはいないが悟った。体が溶けていくような感覚の中、手を合わせたメイオの熱だけが自分が死んでいないことを教えてくれる。これはおそらく海の力。無の力。だが命を奪うような恐ろしい力ではない。
 始まりは終わる。そしてこれから紡がれていくのが、本当のこの世界の物語。この世界の本当の主たちの物語だ。
 安らかな心地にまどろんで彼女は瞼を閉じた。ホワイトの声が、セインの声が、みんなの思いが光を通じて伝わってくる。温かで穏やかで懐かしい感触だった。そう、きっと海の中はこんなにも優しいに違いないのだ。本当は、ずっとずっと優しかったのだ。気づけなかっただけで。


 そして世界は、マグシスが、ホワイトが、リシヤが生み出した全ての世界は、やがて薄紫色の光に包まれる。

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