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7 髪を弄る
8 たよりない笑顔だったから
11 密接空間
14 月を待たずに
15 長い睫毛
18 寂しいんだよ
22 ゲームのルールのような
24 待って
25 吹きやまない優しい風
26 空を見上げる二人
28 綺麗の秘密
29 鍵を探そう
4 不意打ちに動けない君 (第二十二章読了推奨)
 ひとまず戦闘が収束したところで、シレンはその場に座り込んだ。緩い風に吹かれた深緑の髪からは、わずかに焦げついた臭いがする。辺りを漂う白煙にも、何かが燃える臭いが混じっていた。
 日の暮れかけた森は、おおかた闇色に染まりつつあった。背後から差し込む赤々とした夕日だけが、唯一の明かりだ。それでも息絶えた小動物が転がる様は、視界に入ってくる。
 膝を立てた彼は、のろのろと負った傷の確認をした。さすがに長時間の戦闘ともなれば無傷ではいられない。血に染まったズボンの裾を捲り上げて、彼は思わず顔をしかめた。
 戦闘中はあまり感じなかったが、実はそれなりの傷だったらしい。とにかくひたすら熱い傷口を見下ろせば、大きなため息が漏れた。切り裂かれたふくらはぎからは今も血が流れ出している。
「まいったな」
 傷口に手をかざして彼はぼやいた。戦闘で散々精神を使った後となると、治癒の技がまともに使えるわけもない。元々苦手なのだ。しかも痛みもあるとなれば失敗する確率の方が高いだろう。かといってこのまま放っておけば、さらに失血することになる。
 誰かに助けを求めるべきか。そう考えてから彼は苦い笑みを浮かべた。多くの神から遠巻きにされる彼を、わざわざ助けに来る者などまずいない。彼が負けるなど考えていないと言えば聞こえはいいが、つまりは別の生き物扱いされていた。化け物とでも思われているのだろう。
「シレン!」
 そこで背後から聞き慣れた声がかかり、彼は慌てて振り返った。傷に集中していてすっかり気を探るのを止めていた。そうでなければもっと早くに気がついていただろう。薄暗い森の中駆け寄ってくる少女を、彼は複雑な気持ちで迎える。
「アユリ」
 駆けつけてきたのはアユリだった。最近転生神としての力を見せつけてきている、皆の希望のような存在。樺色の髪を揺らして近づいてきた彼女は、彼の様子に眉をひそめた。それを横目に苦笑いを浮かべて、彼はひらひらと手を振る。
「大丈夫だ、大したことない。それよりお前、こんな所に出てきて問題ないのか? また他の神が騒ぐぞ」
「五腹心はヤマトたちが追い払ったみたいだから、それは大丈夫よ。文句なら後で聞くわ」
 傍まで寄ってきた彼女は、ゆっくりとその場に膝をついた。くるぶしまである赤いスカートが、襞を作りながら草地に落ちる。彼女は血を滴らせている傷を覗き込み、さらに眉根を寄せた。すると揺れた髪が膝をわずかにくすぐり、彼は慌てて彼女の肩を押し返す。
「いいから、だから大丈夫だって」
「どの辺が大丈夫なのよ、かなり深いじゃない。今ちゃんと治すから待ってて」
 傷口に触れんばかりに近づいた細い手を、彼は息を呑みながら見守った。治癒の技に関して、今アユリの右に出る者はいない。だから治してくれるのならありがたいことだったが、この近距離の関係がどうも彼は苦手だった。どうにも触れたくて仕方がなくなるのだ。
 強い神程、時折自分の存在が不確かになる。危ういバランスでもってこの世に存在している者たちは、時折自分がここにいることを確かめたくなる。その衝動が誰かに触れることで落ち着くのだと、いつだったか転生神レイスが言っていた。だからこれもそのせいなのだと、シレンは内心で何度も繰り返す。
「はい、終わったわ」
 彼が誘惑に耐えていると、手当てはすぐに終わったようだった。見上げてきた彼女の眼差しを、彼は真正面から受け止める。鳶色の瞳は柔らかく細められ、柔らかそうな唇の端がかすかにつり上がっていた。安堵した様子だ。
「アユリ」
「何?」
「ありがとうな」
 彼はそう告げると同時に、手を伸ばすと彼女の体を引き寄せた。そしてその唇に軽く口づけを落とす。気のせいか、かすかに甘い味がした。と同時に彼女の体が硬直するのが手のひらから伝わってきた。だがしまったとは思うものの、拘束を解く気にはならない。
 唇を離すと、彼は彼女の腰をさらに抱き寄せた。するとバランスを崩したのか細い身体が倒れ込んでくる。腕の中にすっぽりと収まる感触に、得も言われぬ満足感を覚えて彼は口角を上げた。
 そのまま何も口にせず柔らかい髪を手で梳いていると、居心地が悪そうに彼女が身じろぎをした。いつもそうだ。不意打ちを食らわせると、最初は全く抵抗してこない。それなのにしばらくすると困惑気味に動き出すのだ。
「なあアユリ」
 呼びかければ、彼女は何とか顔を上げてきた。抱き寄せられたままの体勢では苦しそうだが、かまわず彼はその瞳を覗き込む。今にも触れ合いそうな程の距離に唇を寄せれば、また華奢な身体が強ばるのがわかった。
「アユリは、オレが嫌い?」
「ま、まさか」
「じゃあそろそろ、その拒否反応どうにかして欲しいんだけど。さすがのオレも傷つく」
「……ご、ごめんなさい」
 彼は右手で腰を引き寄せたまま、左手を頬へと当てた。不意打ちが駄目なのだと彼も理解しているのだ。彼女は常に周囲の気へも意識を伸ばしている。だから突然直接触れることは、些細な変化も見逃さんとする彼女には痛みを与えるにも近い行為だ。
 そう彼も頭ではわかってはいるのだが、時々衝動に負けてしまう。そしてその度に硬直する彼女を見ては傷ついている。自分でも馬鹿だなとは思うのだけれど、こればかりはどうにもならなかった。近づいてきた彼女が悪いのだと、無茶な理屈さえこねそうになる。
「ねえシレン」
 彼女の右手がそっと彼の腕に添えられた。その吐息を頬で感じながら、彼は再び沸き起こった誘惑に耐える。すると彼女の指先がやおら、彼の肌をなぞった。
「私はいつまで、あそこに一人でいればいいのかしら。あなたが戦っているのを感じているだけなのは辛いわ。私もその側に行けたらいいのに」
 漏らされたつぶやきに、彼は固く瞳を閉じた。一人で戦っているのは、彼女も同じなのだ。『鍵』を守るために結界を張る彼女は、神界を出ることをよしとされていない。結界の傍にいなくてもそれを維持することは容易なのに、だ。皆の不安が大きいために、彼女は半ばあそこに囚われの身となっている。
「そうだな」
 答えながら彼はもう一度口づけた。五腹心が本格的に動き出せば、彼女を守るという名目で傍にいることは可能だろう。しかし今現在、魔族たちは戦力を集めている真っ最中。そして神の戦力を減らそうと画策しているところだ。それ故に、彼は外に出ざるを得ない。さすがに仲間たちを見殺しにはできなかった。
 だが一度戦闘が始まれば、五腹心が引き上げるまでは彼女とは会えない。その時間が長ければ長い程に、彼の精神は枯渇していた。それは精神が無尽蔵とも言われる、彼女とて同じことのはずだ。
「オレも辛いよ、一人で戦うのは。ヤマトやツルギたちが羨ましくなる」
 彼は苦笑するとおもむろに空を見上げた。既に日の沈んだそこには、薄雲が張り出してきている。少なくとも夜が明けるまでは戦闘は起こらないだろう。魔族側にもそれなりの痛手にはなっているから、すぐには動き出さないはずだ。
「だからせめて今くらい……と思わないわけでもないけど、とにかくお前が後で何言われるかわからないから神界に戻ろう。な? オレはどこでだって一緒ならかまわないわけだし」
 本当は二人きりがいいけど、という言葉をあえて彼は飲み込んだ。言わなくとも伝わってしまっているはずだから、わざわざ口にする必要はない。
 彼は再度彼女へと双眸を向けるとその髪を梳いた。肩程あるそれは、薄闇の中でも軽やかに揺れるのがわかる。彼女は困ったように小首を傾げ、ついで首を縦に振った。
「そうね」
「じゃあ戻るか」
 そう言いながらも手の力を緩められない自分に気づき、彼は何度目かの苦笑を浮かべた。どうやら身体は正直らしい。このまま時間が止まればいいのにと、ついそんなことを思いながら彼は瞳を細めた。