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7 髪を弄る
8 たよりない笑顔だったから
11 密接空間
14 月を待たずに
15 長い睫毛
18 寂しいんだよ
22 ゲームのルールのような
24 待って
25 吹きやまない優しい風
26 空を見上げる二人
28 綺麗の秘密
29 鍵を探そう
12 募る想いは僕を動かす (第三十九章読了推奨)
 鬱蒼として森の中を、グレイスは走っていた。足下に絡みつく草を物ともせず、ただひたすら前へと急ぐ。
 リティが一人でいることは気でわかっていた。彼女とはもう、どれだけの間会っていないだろう? しばらく忙しい時間が続いていたため、彼も一人になることができなかった。彼女もまた、忙しかった。
 そのせいもあるのだろうか、ブレードとの仲がこじれるにつれて彼女の不安定度は増していたという。だから一刻も早く会いたかったのに、これだけ間が空いてしまった。
「皆は僕に意地悪だ」
 拗ねるようにつぶやいて、グレイスは口の端を上げた。森を駆け抜ける彼の髪が、時折その白い頬を叩く。それでも彼はかまわずに駆けていた。今ちょうど彼女はクーディと別れたばかり。会うには絶好の機会だった。
「グレイス?」
 だから振り返ったリティの顔を見て、グレイスは微笑まずにはいられなかった。繕う必要さえない。小首を傾げた彼女を見れば、笑顔の仮面は必要なかった。彼はそのまま彼女の傍へと寄る。今すぐ抱きしめたい衝動だけは、かろうじて堪えた。
「どうしてここに?」
「君に会いたくて。しばらく会っていなかっただろう?」
「わざわざすまない。……心配かけたのかな」
 彼女の白い頬へと手を伸ばせば、申し訳なさそうに微笑まれた。彼は思わずその動きを止めて、言葉を失う。
 いつもそう、気にされているとわかると彼女はこんな反応をする。ダークが様子を見に来た時もそうだった。手間を掛けさせた、というところがまずいのだ。だから言いつけられた用のついでにやってくるクーディには、同じ言葉を口にしていない。
「僕にも君に会える口実があればいいのに」
 ため息を飲み込んだ後のつぶやきに、彼女は不思議そうな目を向けてきた。内容までは聞こえていないらしい。彼は何でもないと首を横に振り、彼女の頬を撫でた。長い前髪が手の甲を滑り、その心地よさに自然と破顔する。
 柔らかい肌に触れていると、不安定な存在がほんの少しだけ確かになる気がする。彼女の瞳を覗き込めば、今自分がここにいるという事実に安心できる。彼女に触れていると、荒立っていた気が落ち着いてくる。
 だが触れたい理由がそれだけではないことを、彼は自覚していた。それはもっと根本的な欲求に似ているし、単なる我が侭にも思える。とにかく、彼女が欲しいのだ。
「リティ、会いたかった」
 この思いが伝わるようにと、彼は耳元で囁いた。けれどもそこに込めた本当の意味を、きっと彼女は受け取ってくれない。案の定、瞳を見ればそれは不思議そうに瞬いていた。黄色き者である彼が、白き者である彼女を欲する理由がわからないのだろう。白き者と同等である黄色き者は、普通『埋め合わせ』は必要としない。
 彼女はそれ以外の理由を知らない。彼が抱く欲を知らない。純粋なる存在が持つ欲求は限られているらしいが、白き者はそれがさらに極端だった。だから他の欲があることに気づいていない。彼女が持ち得るのは存在への欲求と好奇心のみだ。
「リティ」
 もう一方の手を彼女の腰へと回し、彼は華奢な体を抱き寄せた。彼女の体が強ばって、困惑気味な視線が向けられる。彼はその額に口づけを落とした。唇に感じたわずかな震えも、彼を止める理由にはならない。
「嫌なことがあったんだ。それを、忘れたいんだ。リティ、君もそうだろう?」
「グ、グレイス?」
「忘れさせて欲しい」
 頬へと触れていた手を、彼はそっと離した。そして剥き出しになっている彼女の腕を掴んだ。細い。強く握れば折れてしまいそうなその細さに、かすかに眩暈を覚える。彼女が白き者の刃だと知らなければ、守りたいとさえ思うだろう。実際腕の中の彼女はか細かった。弱くて華奢で、頼りなかった。
「なあ、グレイス……何かあったのか?」
 戸惑いながらも心配してくる彼女に、鼓動が高鳴った。彼は指先で腕から肘、手首までなぞると、そっと彼女の指に自分のそれを絡めた。力を込めたら折れそうな細さに吐息が漏れる。存在の大きさを反映しない脆い体だ。
「グレイス――」
「君は僕のことが嫌いかい?」
「……え? まさか」
「じゃあそんな顔をしないで欲しい。僕は別に、君に危害を加えるつもりはないんだから」
 柔らかく微笑めば、彼女の黒い瞳が揺れた。もしかしたら何かを感じ取っているのかもしれない。赤子のように純粋な彼女も、気にだけは聡かった。その気に含まれる感情が正なのか負なのか、誰よりも正確に判断できるのだ。おそらく今彼が放っているものは、限りなく負に近い気だ。
 彼女を自分だけのものにすることが、どれほど危険なことか知りながら望むのだから。
「ねえグレイス」
 絡めた指をそのままに、彼は腰に当てた手に力を込めた。体勢を崩してもたれかかってくる彼女に、自然と笑みが浮かぶ。彼女が困っていることはわかっているのに、この行為を止められない。彼は絡めた手をそのまま持ち上げて、華奢な指先にそっと口づけた。広がる甘い香りに酔いしれたくて、瞼が落ちる。
「グレイス!」
 だが背後から聞こえた声が、さらなる彼の動きを止めた。その主は突然どこからともなく現れた。いや別の世界から渡ってきたのだろう。彼は絡めていた手を解くと、剣呑な目で後ろを振り返った。
「クーディか」
 森を背に立っていたのはクーディだった。焦っていたためかその額には汗がにじんでいる。グレイスと同じく、青い髪に青い瞳を持つ男だ。ただ決定的な違いがある。クーディは赤き者で、グレイスは黄色き者だった。赤き者は白き者より生まれし存在。つまり、白き者とよく似た存在。
「ク、クーディ」
 混乱から救われると思ったのか、リティの表情がぱっと華やいだ。それを横目に、グレイスは密かに歯噛みする。他の者が来て嬉しそうにする姿は、何度見ても胸に痛かった。共に消えてしまえたらと願う程に。
「クーディ、用は先ほど終わったんじゃないのか?」
「終わったはずだったんだが、戻ったところレインがリティを呼んでいてな。様子がおかしいと」
 つまり全てはレインの仕業ということか。そう判断すると、彼は仕方なくリティを解放した。よろめきながらも離れた彼女は、不安そうにクーディへと双眸を向ける。緩やかに揺れた黒い髪が、華奢な背中を撫でた。クーディへと駆け寄りたくても駆け寄れない空気を感じているのか、彼女はその場に立ちつくしている。
「レインが呼んでるのか?」
「ああ」
「わかった、じゃあ今行く。悪いなグレイス」
 彼女はクーディに再度確認を取ると、俯き気味のままグレイスを見上げてきた。そこに怯えは含まれていない。何故グレイスがこんなことをしたのか、訝しげに思いながらも推し量っているのだろう。もしかしたら案じてくれているのかもしれない。グレイスは顔に笑みを貼り付けると、静かに相槌を打った。
「気にしないで、リティ。きっとまたすぐ会えるよ」
「う、うん」
「行くぞ、リティ」
 懸念顔のリティへと、クーディが寄った。自然とその手を引く様を見ていると、グレイスの仮面は簡単に剥がれ落ちそうになる。彼の方がクーディよりもずっと強いのにと、純粋なる存在に近いのにと、声を上げたくなった。そうしないのはぎりぎりのところで理性が働いているおかげだ。
 リティはクーディを信頼していた。レインがそうだからだ。リティからレインを奪うことはできず、それがグレイスの心に深い影を落としている。そういう意味では、リティを拒絶するブレードの気持ちもわからないわけではなかった。
「じゃあな、グレイス」
「うん、気をつけてリティ」
 笑いながら手を振れば、彼女とクーディの姿は瞬く間に消えた。まるで二人がそこにいたことが、嘘であるかのようだった。彼女が先ほどまで立っていた空間を、グレイスは黙したまま凝視する。
 また邪魔されてしまった。きっと思うままに行動してしまったせいだろう。純粋な彼女に違和感を抱かせたのが、今日の敗因だ。それにあのレインが気づかないはずがない。
「リティ」
 瞼を閉じて、彼はその名を呼んだ。どうすれば自分だけを見てくれるのかと、胸中で問いかけながら呼んだ。無論返ってくる答えはなく、熱を持った指先だけが甘くうずいて仕方なかった。