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7 髪を弄る
8 たよりない笑顔だったから
11 密接空間
14 月を待たずに
15 長い睫毛
18 寂しいんだよ
22 ゲームのルールのような
24 待って
25 吹きやまない優しい風
26 空を見上げる二人
28 綺麗の秘密
29 鍵を探そう
20 君の声 (第二十四章読了推奨)
 ずっと嫌な予感はしていた。ぼんやりと体を包むような、生温い感覚に苛まされてきた。わけもなく感じる苦痛に冷たい汗を掻くこともあり、今も鼓動は早鐘のように打っている。
 だが今日のは、今までのと比ではなかった。何かがあった。不安に耐えきれず、ユズはアスファルトの研究所へと駆けつけてきた。断りもなく勢いをつけて扉を開けると、乱暴に扱われたそれは大きな音を立てる。が、今は無視だ。灰色の研究所でただ一人、色を持つ存在へと、彼女は近づいていった。
「アスファルト」
 強く呼びかけると、ようやく彼は振り返った。彼女がやってきたことは、気からわかっているはずだ。それでも素知らぬ振りをしていたのは、できる限り顔を合わせたくないからだろう。
 いつも通り澄ました顔の彼へと、彼女は詰め寄った。彼は椅子に腰掛けたまま、足を組み直す。白の長衣が揺れて、衣擦れの音を立てた。
「ユズか」
「どうして私が来たかは、わかっているんでしょう?」
「わからないな」
「嘘ね。あなたは知ってる。私をごまかそうなんて、無謀なことはしないことよ。意味ないんだから」
 声を荒げたいのを堪えて、彼女は瞳を細めた。彼女の心は世界をも震わせる力を持つ。強い感情をそのまま露わにすることは、できるだけ控えてきた。
 それでも今は抑え切れそうにないという、嫌な自覚があった。悲しいのか苦しいのか判別はできなくとも、とにかく彼女は痛かった。泣きたい程に体中が痛くて、眩暈がしそうになる。
「ユズ」
 彼が立ち上がると、自然と見上げる体勢になった。魔族の中でも背が高い彼は、立っているだけでそれなりの威圧感を与えることができる。しかしそんなことで彼女が怯むはずもない。緑の双眸を真正面から見すえて、彼女は小さく息を吸い込んだ。
「アスファルト――」
「そんな声を出すな」
 続けるべき言葉が、喉を震わせることはなかった。突然手のひらで目隠しをされて、彼女は思わず息を呑む。だが意味のない行為だ。視覚を奪われても、彼女にはより鋭敏な感覚というものが存在する。彼の気から感じ取れるものは、表情よりも、さらに多くの情報を彼女にくれた。
 だからこれは、意味をなさない行為。いや、彼の意志を伝えるだけの、ひどく愚かな行為。
「そんな顔をするな、そんな声を出すな」
「……それは私の方が言いたいわ」
 その顔を見ないまま、彼女は口角を上げた。無言でそっと瞼を下ろすと、なお彼の気は鮮明に感じ取れるようになる。悲しんでいるわけではない、悔しがっているわけでもない。彼は心配していた。そうさせているのは彼女だ。
「お前が気に病むことはない」
「私が気にすることで、あなたが自分を責める必要ないわ」
「それをお前が気にしなければいい」
「それはあなたの方でしょう」
「きりがないな」
 彼の苦笑が、胸に小さな棘を刺した。叫びだしてしまわないよう深呼吸すると、彼女は自らの片腕を抱く。
 気からもう一つ、読みとれることがあった。それが嫌な予感の原因だった。彼は、喰らわれている。その気は明らかに半減していた。彼を半分喰らうという高等技術を持ち合わせているのは、五腹心しか考えられないだろう。
 前から散々脅しをかけてきていたのは、知っている。だがまさか、本当に実行してくるとは思わなかった。魔族とて戦力は必要だろうに。それよりも彼の危険度の方が上と、彼らは判断したということか。彼女の読みが甘かったのだ。
「お前こそ、全てが自分のせいだと考えるな。単に私があいつらの機嫌を損ねすぎただけだ」
「それは、私と一緒にいたからでしょう?」
「それを含めて私の選択だ」
 本当にきりがないやりとりだった。こういう時に意固地な二人の言い合いは、なかなか終わらない。ある意味では似たもの同士だった。彼女はそっと、彼の手を退かす。そしてそれを両手で包み込んだ。
「アスファルトは、それでよかったの?」
 何度目の問いかけだろうか。傍にいるのが当たり前になってから、不安になる度に聞いていた気がする。そのつど彼は呆れた顔で苦笑し、首を縦に振るのだ。馬鹿なことを尋ねると、言わんばかりの様子で。
 今日もやはり、彼は眉根を寄せて嘆息した。空いている方の手で長い前髪を掻き上げると、苦笑混じりの声が漏れる。胸を穿つような、儚さを匂わせる声音だった。
「当たり前だろう」
 今泣けたらどれだけ楽だろうかと、彼女は唇を噛みしめた。だがそれは許されざること。より苦しんでいるのも痛みを感じているのも、彼の方だ。彼女が先に泣くのは卑怯だった。彼の手をゆっくりと放して、彼女は瞼を伏せる。
 五腹心が動き出したとなれば、今後のことも考えなければならない。彼女は苦々しい思いを抱えながら、彼の視線を感じていた。脳裏で繰り返される声が、止むことはないように思えた。