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7 髪を弄る
8 たよりない笑顔だったから
11 密接空間
14 月を待たずに
15 長い睫毛
18 寂しいんだよ
22 ゲームのルールのような
24 待って
25 吹きやまない優しい風
26 空を見上げる二人
28 綺麗の秘密
29 鍵を探そう
13 指を絡めてそっと (第二十二章読了推奨)
 そこは全てが灰色の世界だった。壁も天井も床も全てが淡い灰色で、その中には風の流れ一つなく生暖かい空気だけが存在している。それがいつ頃からなのか、イーストは記憶していなかった。昔はもっと澄んだ風がこの建物を満たしていた。窓から見える空も彼の髪の色と同じで、見る者の心を晴れ晴れとさせていたのだ。それがいつの間にかこんな風に変わってしまったのか。
 部屋にただ一つの小さな窓を一瞥して、彼はため息をこぼした。おそらくそれは彼の主たちが消えた時期と一致するだろう。上位の魔族がこぞって消えてしまった、あの頃と。
「ずいぶんな顔をしてるわね、イースト」
 しかし彼の考え事は長くは続かなかった。気配をさせずに声をかけてきたレシガへと、彼はゆっくり視線を向ける。ワインレッドの髪に金の瞳、褐色の肌を持つ彼女は誰の視界の中でも際立つ存在だ。それが灰色一色となればなおのこと。イーストは微笑んで、彼女へと手のひらを向けた。
「久しぶりだね、レシガ。今日はまたどうしたんだい? 急に」
「暇になったのよ。ラグナは転生神に夢中で相手をしてくれないし」
「ああ、そういえばこの間ヤマトに斬られたんだっけね。それでひどく燃えていたみたいだったよ。彼は負けず嫌いだからね」
 差し出した手にほんの少しだけ指を触れさせて、レシガは近づいてきた。意味のない接触は二人にとっては日常茶飯事だ。いや、彼らにとっては、と言うべきか。声をかけるだけで驚かせてしまう、触れてしまえば怯えさせてしまう力を持つ五腹心らにとって、互いに触れることは存在確認にも近い行為だった。存在が希薄な彼らを、この世界に繋ぎ止めるための行為。
 レシガはそのまま窓際まで寄るとそこに肘をつき、外を眺めた。その様をイーストはぼんやり横目で捉える。彼女の赤い髪は、外からの空気の流れでかすかに揺れていた。だがその瞳は気だるげに伏せられている。
「レシガ、まだだるそうだね」
「ええ、だるいわ。それに眠い。まだ後遺症が残ってるのかしらね」
「仕方がないさ、相手はあのリシヤなんだから。君が封印されなかっただけ私たちは幸いだったよ」
 彼がそう言えば、彼女は睨み付けるようにきつい一瞥をくれてきた。彼女が戦いの最中リシヤたちと対峙したのはついこの間のことだ。リシヤを相手にすると言うことはヤマトを相手にすることと同義。つまり接近戦の王者を相手にするようなもの。彼女の能力は高いが、どちらかと言えば遠距離向きだった。ラグナがいなければどうなっていたかは、正直考えたくない。もっともそのラグナもそれがきっかけで、あんなに燃えたぎっているわけなのだが。
「そう睨まないでくれよ、レシガ」
 イーストは腕を伸ばすとワインレッドの髪を梳いた。彼女は目を伏せたままそれを甘受し、身じろぎ一つせず押し黙る。彼女は気まぐれで面倒くさがりだが、素直と言えば素直だった。
「ねえ、イースト」
「何だい?」
「あなたの手はいつも優しいのね」
「そうかな?」
「でもそれは罪だわ」
 レシガは彼の手を自身の手でもって制止させた。彼女の行動はいつだって唐突だが、彼の想定範囲を超えることはまずない。しかし今回は違った。彼女の言わんとすることがわからずに、彼は視線のみで問いかける。これは珍しいことだった。
「あなたの手は私を堕落させるわ。あなたの優しさは皆を癒すけれど、同時に緊張感まで奪ってしまう。これも考え物ね」
「それは買いかぶりすぎじゃあないかな」
「そうかしら?」
 やんわりと止められた手で、彼は彼女の手首を軽く掴んだ。彼女は柳眉をほんの少し歪めて小さく息をこぼす。彼はそのまま彼女の手を取るとそっと指を絡めた。この場にブラストがいれば声高に文句を言われそうな状態だ。が、幸いにも彼はいない。また普段なら傍に控えて顔をしかめたり赤くしたりと忙しいフェウスもいなかった。すなわち何をしても自由だ。
「堕落なんて困るのよ、イースト。私は今ただの象徴なんだから。それこそ女神のような顔で慈愛を振りまく振りまでしなければならないのよ。私はできるだけ孤高であるべきだわ」
「難しい役目を押しつけてしまったね」
「あなたのせいじゃあないでしょう? 勝手に皆がそう見なし始めたんだから、選択肢なんてないのよ。私たちが生き残るためにわね」
 触れ合った手のひらから感じられる熱が心地よかった。イーストはその青い瞳を細めて、いつになくよく動く彼女の唇を見つめる。おそらく一度敗北を覚悟したせいなのだろう。彼女は自分の役割というものをかなり客観視し、また醒めた目で見ているようだった。
 女魔族狩りにより魔族から女の姿が消えて久しい。残された数少ない女たちでさえ、ほぼ全員が魔族界の奥へと隠れ、隠されてしまった。だから今表に立っているのはレシガくらいなものだ。五腹心の一人として戦いながら、同時に統一の象徴として存在するその難しさ。上位の魔族たちが消えてまとまりのない中、彼女の役目はある意味絶対だった。それ故に彼女は人知れずいつも気を張りつめさせている。けだるい表情の裏に全てを詰め込んで、彼女はいつも他者を寄せ付けなかった。例外は五腹心くらいだろう。
 つまり、そういうことなのだ。その例外というのが、ある面から見れば堕落の要因だった。張りつめすぎて切れないよう緩めることを、堕落と称するのならば。
「でもレシガ、君は誰にも触れずにその存在を維持できるのかい?」
 イーストは指を絡めたままそれを灰色の壁へと押しつけた。結果的に彼と壁の間に挟まれた彼女は、金の瞳を揺らすことなく呆れた眼差しを向けてくる。怒っているわけではないだろう。嫌だったら彼女は抵抗してくる。ただ歓迎されているようではなかったが。
「珍しいわね、イースト。手だけじゃ物足りない程あなた不安定だったかしら?」
「不安定なのは君だよ、レシガ。私たちは部下たち程確かな存在じゃあない。リシヤの矢を受けたんだろう? 無理しない方がいい」
「さらに堕落させる気なのね」
「君を失っては困るからね」
 そう告げれば彼女は苦笑するだけだった。抗うのは諦めたのだろう、彼女の指にもわずかに力が込められる。彼は破顔してその指先に口づけを落とした。戯れに近い行為だが彼女はいつだって文句を言わない。それを甘受するのもまた、彼女にとっての戯れだった。
「あなたも物好きよねえ」
「それを言うならお互い様だろう? 私たちは似た者同士なんだから」
 灰色の世界に笑い声が響いた。彼はもう一度瞳を細めて、この一時の安らぎを享受した。