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7 髪を弄る
8 たよりない笑顔だったから
11 密接空間
14 月を待たずに
15 長い睫毛
18 寂しいんだよ
22 ゲームのルールのような
24 待って
25 吹きやまない優しい風
26 空を見上げる二人
28 綺麗の秘密
29 鍵を探そう
30 君が傍に居る。 (本編読了推奨)
 風の声を聞きながら、レーナは木の上に腰掛けていた。踊るように舞う黒髪は一つにまとめられているものの、震える空気に翻弄されてまるで生き物のようだ。だがそんなことは意に介せず、彼女は目下にある灯りを眺めていた。その家の中では仲良く家族が暮らしているのだろう。時折漏れ聞こえてくる笑い声に頬がゆるみ、温かい気持ちになった。夕食でも取っているのだろうか? 香ばしい匂いも漂っている。
「レーナ、またお前こんな所にいたのか」
 すると背後から声をかけられ、彼女は振り返らずに小首を傾げた。声の主はわかっている、アースだ。現状で彼女に話しかけてくる者といえば彼しかいないし、声を聞き間違えるはずもない。しかし彼女は首を傾げた。その声に込められている感情が普段彼の持つものと違ったから、妙だと思ったのだ。
「アース?」
「お前は人の幸せを見るのが本当好きだな」
 彼女の座る枝が心許ないためだろう、やや上の枝に立った彼は呆れた声でそう続けた。彼女は彼を見上げながらもう一度首を傾げてみせる。するとアースは心底困ったように眉根を寄せ、額に手を当てた。気づいてないのかと言いたげな様子に彼女は口を開く。
「うん、われは幸せな人を見るのが好きなんだ」
「自分が幸せでなくともか?」
「われは幸せだよ。大切な人と戦う必要もないし、アースがいるんだし」
「オリジナルがいなくても、か?」
 問われて彼女は閉口した。彼が何を心配しているのか気づいたから。だがそれだけならば返すべき言葉は幾つかあった。それでもそれすら口にしなかったのは、それ以上の何かを感じたせいだろう。紡ぐべき言葉を幾つか捨てた彼女は、沈みきった太陽の方へと手を伸ばして小さくうなずいた。
「オリジナルは先に行ってわれを待っていてくれるだけだよ。だいたい、何で今さらそれを言うんだ? オリジナルが亡くなったのはもう二十年も前の話だろう」
「最近考えたんだ」
「何を?」
「お前の傍にいる意味を」
 いつになく沈んだ声音の彼に、彼女は瞳を細めた。彼が何故だか泣いているように感じられて、彼女はその場に立ち上がる。揺さぶられて木の枝がみしりと音を立てた。風の鳴く声もひときわ大きくなる。
「レーナが死ねば、われも死ぬだろう」
「残念ながらそうだな。われの中にいるグレイスが、お前の中にあるはずのグレイスを引きずり込むんだろう、たぶん」
「だがわれが死んでもお前は死なない」
「そうだな」
 答えれば彼は何か口にしようとして、それを飲み込んだ。彼女は彼を真っ直ぐ見上げたまま微笑む。ただでさえ身長差があるのに、枝の高さの差まで加わってまるで空を仰ぐような角度だった。しかしそれでも微笑んだことはわかったのだろう、彼は呆れ混じりにため息をついた。昔彼女が無茶をやらかした時のような態度に、自然と懐かしさを覚える。
「そこで何故笑う」
「お前が何を本当に心配してるのかわかったから」
「それで微笑む理由にはならないだろう?」
「なるよ、われは今幸せだから」
 彼女はくすりと笑い声をもらすと、木の枝を軽く蹴った。揺さぶられた枝が音を立て、その先にある葉もざわざわと囁きを発する。彼女は彼の隣に立つとその腕に触れた。
「こんなに一緒にいるのに、アースはまだわれのこと好きでいてくれるんだなあ」
「嫌いになる理由がないだろう」
「でも飽きるだろ?」
「神や魔族は何千年何億年も同じ奴らと顔を合わせてばかりいたんだろう? それで互いに飽きたって話はあるのか」
「ないな」
「なら飽きるわけがない」
 断言すると彼はその場で座り込んだ。先ほどのよりも枝が太いのか揺れは激しくなく、彼女は体勢を崩すことなくその場に立ったまま。しかし見下ろす先の彼は何も言わなかった。普段なら座れと目で訴えてくるところだ。遠くを眺めるその横顔から怒りを読みとって、彼女は頬をかいた。気持ちを疑ったと取られたらしい。そんなつもりは毛頭なかったのだが。
「アースがわれに飽きない限りは、われはアースを死なせるつもりはないから。まあアースが死にそうな状況ってのがもう考えられないんだがな」
「そんな事態は絶対起きないから安心しろ」
「そんな事態?」
「飽きるという話だ」
 怒気のこもった言葉に彼女は軽くうなずいてみせた。相当機嫌を損ねたらしい。彼女は困ったように微笑んでおずおずと彼の隣に座った。本当に伝えたかったことは伝わっていないのだ。下から漏れ聞こえた談笑に顔をゆるめながら、彼女は頭の中でどう説明しようかと考える。
「アースがそう言ってくれるから、われは幸せなんだよ。オリジナルがいなくなるだけじゃあない、きっともう数十年すればわれを知る人なんかアースたちだけになる。我々という存在は忘れ去られる。時から置き去りにされて、この世界からはどんどん切り離されていく」
 驚いて振り向く彼の瞳を、彼女はのぞき込んだ。瞠目する黒い瞳は夜の闇よりもずっと深い色だと思う。彼女が頭を傾けると、結われた髪の先が木の枝を撫でた。
「それでもきっとわれはこの世界を愛し続けるだろう。愛されない世界を愛し続けて、見守るだろう。あの海で孤独な誰かが生まれないように、われがいいと思う時までそれは続く。そんなわれにお前が付き合う気でいるのに、どうして不幸せだと思う?」
「レーナ……」
「傍にいてくれるんだろう?」
「無論」
「世界が我々を取り残している限り、世界がお前を奪うことはない。それができるのはわれとお前だけだ。だからそんな心配しなくていい。われはお前の傍にいるし、お前はわれの傍にいる」
 彼女はそう告げると満足そうにうなずいた。ここまで言えば伝わったはずだ。少なくともおおよその意味は。彼の手が伸びてきて、そっと彼女の頭に乗せられた。慣れた感触に口角が上がる。
「お前には敵わないな。だがそれでこそお前だ」
「ありがとう、アース」
 目下の家からはまた談笑が聞こえてきた。その幸せな気配を体いっぱい受け取って、彼女はゆっくり瞼を閉じた。

 長い旅路は、まだまだ終わりそうにない。