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7 髪を弄る
8 たよりない笑顔だったから
11 密接空間
14 月を待たずに
15 長い睫毛
18 寂しいんだよ
22 ゲームのルールのような
24 待って
25 吹きやまない優しい風
26 空を見上げる二人
28 綺麗の秘密
29 鍵を探そう
6 捨てられた猫のような (第二十章あたりまで読了推奨)
 彼は背中を向けられるのが嫌いらしい。そう気づいたのはいつだっただろうか。
 そんなことを考えながら、レーナは盛大なため息を飲み込んだ。突然背後から抱きすくめられるのには慣れてしまったと言えば、おそらく青葉あたりに妙な視線を向けられることだろう。しかし事実なのだから仕方なかった。どうにも身動きのとれない状況で、彼女はかすかに首を傾ける。
「アース、あのなあ――」
 何をどう言えば解放してくれるのか。とりあえず話しかけてはみたが、回された腕に力が加わるばかりでいっこうに解決しそうにない。途方に暮れた気分で彼女は眉根を寄せた。
 転移を使えば逃げ出せるのだが、そこまでする理由もないし何よりやりたくない。かといってこのままでもいいと思えない。後で話がしたいというレンカの言葉を思い出しながら、彼女はひたすら打開策を考えた。
 そのためには、何故こんな状況に陥ったのかを考える必要がある。……ただ単に、部屋を出ようと立ち上がったら抱きしめられただけなのだが。
「えーっと、アース? その、離して欲しいんだが」
 反応をうかがいつつ、ともかくまずは要望を伝えてみる。しかし返ってきたのは無言の抵抗だけで、何の突破口も見いだせなかった。せめて顔でも見られれば手がかりがつかめるかもしれないのだが、彼の頭はちょうど真上にある。
 背中を向けたのがやはり最大の間違いだったのではないか。見慣れた部屋の床へと視線を落とし、彼女は自嘲を込めた笑みを浮かべた。
 ずっと逃げて避けてきた過去があるだけに、その点に関しては彼女は何も言うことができない。「一人で勝手に行くな」とも幾度となく言われた。だからいつも彼女はできる限り何も言わずに背を向けることがないよう、密かに気を遣ってきた。
 それでも時折不意に油断する。彼と二人の時は特に油断する。一番気をつけなければならない状況なのに、二人きりというだけで『レーナ』として築いてきたものが崩れやすくなる。
 進歩がないなと胸中で呟き、彼女は瞳を細めた。不安にさせているという単純なものではない。硬くて脆いこの鎖はいっこうに切れないのに、もがけばもがくほど体を傷つけていく。
「なあ、アース――」
「お前は何度同じことを言わせる気だ」
 三度目の試みは、彼の言葉により中断となった。頭上から直接身体に染み込むような声に、思わず彼女は固唾を呑む。耳元でなくてよかったと、半ば無意識に考えた。本格的に動けなくなりそうだ。
「あれだけのことをして全く休まず動く気か?」
「あれだけって……。いや、ちゃんと休んでるぞ? われは」
「どの辺がちゃんとなのか説明しろ」
「ほら、しばらくベッドに座ってたし。何もしてなかったし」
「それは休んだとは言わない」
 言い切られて彼女は閉口した。彼女の基準と彼の基準が違うというのは理解しているが、何度説明しても納得はしてくれないようだ。どれも彼の目には無理と映るらしい。何をどう言えばわかってくれるのかと首を捻ると、不意に彼の腕から力が抜けた。そして前触れもなく体を反転させられ、顔を覗き込まれる。
「それに、お前はまた魔族やらオリジナルのことを考えただろう?」
 問いかけているようでいて確信に満ちた言葉を、彼女は否定することができなかった。そもそも彼女はそのためにここにいる。休んでいてもいざという時のために気を探っているのは日常茶飯事で、特別な労力が必要なわけでもなかった。
 だが別の意味でも責められているような気がして、彼女は思わず目を逸らした。常に胸の内にある罪悪感が、傷をさらに抉っているかのようだ。考えていて何が悪いのかと、問い返す勇気はない。
「お前の意識はいつも休んでないな」
 掴まれた肩が痛い。部屋に満ちた空気は冬のそれのようだ。しかしこのままでは何も状況は変わらない。仕方がないと決意した彼女は、怖々と彼の顔を見た。不満を押し殺そうとして押し殺し切れていない彼の双眸を、真正面から見上げる。
「そりゃあ、そうい意味では休んではいないが――」
 彼の眉根が寄る。まさかこう返されるとは思っていなかったのか。そんな顔ばかりするから怖いなどと言われるのだと思いつつ、彼女はいつも通りの笑顔を心がけた。できる限り穏便にこの状況を打破しなければならない。そうでなければまた次も同じことが繰り返される。
「でもアースが傍にいたら休んでるも同然だし」
「……は?」
「精神回復って意味では。われの場合はアースが近くにいてくれるのが一番だから。ほら、そういう意味では休んでるだろう?」
 我ながら無理矢理な理由付けだと思いながらも、事実に反してはいないので訂正はしない。消耗が激しい場合は眠る必要があるが、そうでなければ彼が傍にいれば大概は大丈夫だ。
 理屈もなく安らぐ。安心してはいけなくとも安心する。少しばかりすり減った分ならばすぐに取り返すことができた。だからこの言葉に嘘偽りはない。
「な?」
 念を押してみるが、彼からの返答はなかった。何も言わずにただ見つめられて、彼女はそこはかとなく息苦しさを覚える。やはりこれでは通用しなかったのか。別の手を考えなければならないのか。
 しばらく部屋から出られないようであればレンカに謝らなければならない。そう頭の隅で考え、彼女は嘆息するのを堪えた。嫌ではないのに避けなければならない状況というのは非常に厄介だ。
 彼女がわずかに目を伏せた途端、彼の何とも言い難い吐息が部屋に染み込んだ。複雑な感情を押し込めたため息のようでいてもっと単純なようでもあるそれは、このタイミングでは予想外の反応であって。視線を上げた彼女は大きく瞬きをした。おもむろに肩から手を離し、彼はわずかに顔を背ける。
「――そうだな、お前はそういう奴だったな。すっかり忘れていた」
「え? ア、アース?」
「含意はないのだろう? 言葉通りの意味だろう? わかってる。当たり前のようにそういうことを口にする奴だってことは、身に染みてる」
 まるで自らに言い聞かせるかのように、彼は低い声でそう続けた。何かとてつもなくまずいことを言ってしまったらしいと察して、彼女は困惑する。どの辺りがどうまずかったのかわからない。含意という言葉からすると、別の意味を込めて欲しかったということなのか、違うのか。
「わかっているが、どうしようもないことってのもあるのだな」
 彼は、今度は盛大にため息をついた。そうしたいのは彼女も同様だったが、こう落ち込まれると何か言わなければいけない気がしてついおろおろとしてしまう。
 今は何を口にしても逆効果な気がするし、かといって黙っていることもできない。迷子にでもなった気分で途方に暮れ、彼女は首をすくめた。もう捕らえられてはいないのに逃げ出せない。どうしてこうなったのかと、何度目かの問いを自らに投げかけた。
「……悪い、別に気にするな。われが勝手に浮いたり沈んだりしているだけだ」
 しばらくまごついていると、彼はもう一度嘆息してからそう告げた。沈んでいるのはともかくとしていつ浮いたのかわからなかったが、気にするなと言われてはいそうですかと答えられるものでもない。彼女は眉尻を下げて視線を床の上で彷徨わせた。いたたまれなかった。
 二人きりになるとそれまで通りといかないのは相変わらずだ。ある意味では避け続けてきた問題と直面しているせいであり、また作り上げた殻が崩れるせいでもあり、甘えているせいもあるのだろう。そして何より、この中途半端な関係を続けているせいだ。はぐらかしながらも嘘を吐いていないせいだ。つまりは彼女の責任だと、そう自覚して納得する。ならばこうなるのも仕方がない。
「だからそんな顔をするな」
 不意に、頭に手が載せられた。そっと顔を上げると苦笑している彼と目が合い、さらに頭を撫でられる。胸の奥をぎゅっと掴まれたようで、彼女は唇を結んだ。
 やはり甘え過ぎなのだと思う。利用しているだけなのだろう。これ以上距離を縮めることも離れることもせずというのは卑怯だ。だがそれを自覚した上で共にいることを選択したのだから、何が起こっても受け入れる覚悟だけはしておこう。彼女が瞳を細めると、彼の指先がそっと頬へと下りた。
「お前が言う気になるまでは聞かない。だが、その、もう少しお手柔らかに頼みたいというか……」
「え? お手柔らか?」
「お前は期待をさせすぎる」
 指が離れると同時に彼は顔を背け、ついで踵を返した。あっという間のことだった。呼び止めるのもかまわず扉へと向かった彼は、取っ手を握ると肩越しに振り返る。不機嫌でも不満そうでもなくただ微苦笑を浮かべて、彼は肩をすくめた。
「これでも我慢しているんだ」
 囁くように言い残し、彼は部屋を出た。一人取り残された彼女は、立ち尽くしたまま頭を傾けて触れられた頬へと手を伸ばす。彼の指にいつも熱を感じるのは、痛みも伴うからなのだろうか。つい本気で名前を呼びたくなるのを堪えて、彼女はいつも通りの困ったような笑みを浮かべた。
「そんなこと言われると、ますます困るんだが……」
 何をどう我慢しているのかは尋ねないでおこう。そう決意した彼女は、今度は我慢せずに大きくため息を吐いた。