white mindsトップ
サイトトップ

7 髪を弄る
8 たよりない笑顔だったから
11 密接空間
14 月を待たずに
15 長い睫毛
18 寂しいんだよ
22 ゲームのルールのような
24 待って
25 吹きやまない優しい風
26 空を見上げる二人
28 綺麗の秘密
29 鍵を探そう
6 捕らえる一瞬 (第二十章あたりまで読了推奨)
 思わず漏らしかけたあくびを堪え、ごまかすように青葉は伸びをした。そろそろ日が昇ろうかという時刻。司令室で見張りについている者たちの意識も途切れがちになる頃だ。
 そういえば先ほどコーヒーを淹れに行ったよつきたちも戻ってきていないと、青葉はぼんやり考える。まさか食堂で眠っているわけではないだろうが、気になるところだった。彼らがサボるとも思えないのだが、何かあったのか。それとも談笑でもして眠気を追い払っているのか。
「なあ、梅花――」
 この疑問を話のネタにと振り返った青葉は、言葉を途切れさせて息を止めた。それから室内を見回し、もう一度梅花の方を見る。誰もが眠気と戦っているらしく、この異常事態に気づいている者はいないようだった。固唾を呑んだ彼は怖々と彼女の顔をのぞき込む。
「寝て……る?」
 まさかそんなはずはと思う。が、じっと見つめても無反応なのだから、ただ目を瞑っているだけではないだろう。椅子の背に右肩からもたれかかるようにして、彼女は静かに眠っていた。
 珍しいことだった。睡眠時間がやけに短い彼女が、今まで眠そうにしているところなどほとんど見たことがない。誰が誘惑に負けたとしても彼女だけは生き残っている。それが日常茶飯事だった。
 技使いが普段以上に睡眠を欲するのは、精神の回復を図る時だけ。そんな言葉が彼の脳裏をよぎる。できる限り気は遣っているつもりだったが、やはり疲労がたまっていたのだろうか。周囲に人がいればいるほどその『気』の影響を受けやすいのが、彼女の難点だ。
 本来なら起こすべきところだが声をかけることもできなくて、彼は息を潜めつつ彼女の寝顔を眺める。無愛想故の近寄りがたさもこの時ばかりは感じられず、手を伸ばしたくなる衝動と彼は戦った。きっと彼が負けた瞬間に彼女は目覚めるのだ。もしくはよつきたちが戻ってくるか。
 無機質な機械音が満ちる室内で、彼は聞き耳を立てる。彼女の穏やかな寝息は子どものものを連想させるが、軽く開かれた唇が目に入るとどうしても邪な考えが沸き起こる。だが指先で触れただけでも彼女は目を覚ますだろう。それをわかっていてやる程、彼も幼くはなかった。彼女がそれだけ疲れているのだから、できることならそっとしておいてやりたい。
 だから声をかけないのだ。決して寝顔を見ていたいわけではない。こんな機会は滅多にないなどという不純な動機からではない。自分でもよくわからない言い訳を胸中で呟き、彼は目を細めた。
 こういうささやかな幸せを噛み締めでもしなければ、いつか抑えが効かなくなるようなそんな気がして。彼はそっと長く息を吐き出す。こんなところを誰かに見られたら、また何か言われるのだろうが。
「アースの奴とかうるさいんだよなぁ。絶対同じようなことしてるくせに」
 ため息混じりにぼやくと、彼はまた周囲へと視線を巡らせた。ゲイニもミンヤもほぼ寝かけている。アサキはようをどうにか起こそうと必死で、こちらを振り返る気配もない。もうしばらくは大丈夫だ。
 青葉は椅子の背に軽く頬杖をついた。彼女の長い髪を一房手に取ることくらいなら許されるだろうか? それでも気づかれてしまうだろうか? 一本に結ばれた髪の一部が椅子の背を越えて、誘うように緩やかに揺れている。
 この瞬間を切り取って引き延ばしたいなどと、妙な考えが頭に浮かんだ。どうせなら抱きしめたいなどと思わないのは、そんなことをしても何も変わらないからだ。むしろその後が辛くなるだけ。こんなに近くにいるのに遠くて、いっこうに距離が縮まらない。レーナが現れてから、ますます拍車がかかっている気がした。彼は自嘲気味な笑みを浮かべる。
 不意に空気が揺れた。思わず変な声を漏らしそうになるのをすんでのところで飲み込み、彼はゆっくり瞬きをした。彼女の唇と睫毛がかすかに震え、重そうな瞼が持ち上がるのをただ黙って見つめる。ぼんやりとした視線を辺りに彷徨わせてから、彼女の双眸が彼の方へと向けられた。
 一瞬わけがわからなそうに、だがすぐに状況を把握したのか気まずげに目を逸らした彼女の頬は、かすかに朱に染まっていた。そんな珍しい表情を見たものだから、用意していた言葉がすぐには出てこなかった。吐息だけがこぼれ、喉が鳴る。そんな彼を、彼女は横目でうかがうように見上げてきた。
「寝てた……わよね?」
「――そうだな」
「起こしてくれればよかったのに」
 見つめていた理由については言及しないらしい。油断すると聞き逃してしまいそうな程か細い声で、彼女はそう言った。彼は首の後ろを掻きながら素早く周囲の様子を確認する。まだ注目はされていないようだ。屈託のない笑顔を心がけて彼は肩をすくめた。
「いや、疲れてるのかなぁって」
「別にそれほどじゃあないわ」
 案の定、彼女の口からは否定の言葉が飛び出した。だから気にするなということだろう。無論、はいそうですかと彼が頷くことなどないのだが、それでも彼女はいつもそう告げる。大丈夫だと、心配するなと、大したことではないのだと。彼女の基準ではそうなのだ。彼女の過去と比べれば事実なのだ。だから彼もそれを責めるつもりはない。
「……少しは甘えてくれてもいいのに」
 それでもぼやきたくなるのはどうしようもなくて。ついこぼした言葉にはっとなると、彼はおそるおそる彼女の様子をうかがった。余計なことだと呆れられるか心配性だと苦笑されるか、何にせよいい反応が返ってくるわけがない。今までそうだった。
 しかし予想は外れた。瞼を伏せた彼女は自嘲気味な笑みを浮かべていた。彼は固唾を呑むと、導かれるようにその手を伸ばす。そして頬へと落ちた彼女の髪を耳へとかけた。
「梅花」
 違うのかもしれない。距離が縮まっていないというのは、彼の勘違いなのかもしれない。その速度があまりにゆっくりなだけで、気づきにくいだけで、変化はしているのかもしれない。こうやって積み重ねてきた一瞬一瞬は、きっと確実に何かを動かしている。
「何?」
「無理にとは言わないけどさ」
「――うん」
 語尾は濁した。言わんとしたことを彼女がちゃんと理解しているのかどうか、今はどうでもよかった。たぶん伝わってはいるのだろう。それがいつしか何らかの変化に繋がるのならば、全ては無駄ではない。
 だから焦っては駄目だと胸中で呟き、彼は瞳を細めた。そして緩やかな時の流れを噛み締めるよう、そっと口の端を上げた。