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7 髪を弄る
8 たよりない笑顔だったから
11 密接空間
14 月を待たずに
15 長い睫毛
18 寂しいんだよ
22 ゲームのルールのような
24 待って
25 吹きやまない優しい風
26 空を見上げる二人
28 綺麗の秘密
29 鍵を探そう
27 約束した (第六章読了推奨)
 再び神魔世界へ足を踏み入れることになり、各々の心は動揺に揺れていた。二度と目にすることはないと思っていた大地を踏みしめることを、夢だと言い聞かせてきたことが実現することを、どう捉えるべきだろうか? 期待と不安が渦巻くのも仕方のないことだろう。そわそわしてしまうのも致し方ない。
 だが、よつきの心は予想していたよりずっと落ち着いていた。いつも通り掃除に励みいつも通り笑顔で挨拶を交わす。そんな何事もない日々が終わろうとしていた。普段のように。
「隊長は」
「はい?」
 門を閉めようと外へ出たよつきは、そこで呼び止められた。この声はジュリだ。不思議に思って振り返れば、扉を手で押さえたまま彼女が複雑そうな顔でたたずんでいる。ウェーブのかかった長い髪がそよ風に揺れていた。彼は瞳を瞬かせる。
「どうかしましたか?」
「隊長は、平気なんですね」
 その言葉をどう受け取って良いのか彼には判断しかねた。彼女が言わんとすることはすぐにわかる。突然故郷へ戻ることになったことに対するものだろう。けれどもそれを彼女が口にする理由がわからなかった。コスミやたくが尋ねてくるのならわかる。その後に続くのは、さすが隊長、といったところか。
「平気、と言われましても」
「隊長は、あの世界に罪を残してこなかったんですか?」
 その意図を読みとろうと言葉を続けても、さらに困惑が広がるばかりだった。罪。その単語が胸に突き刺さる。罪。重い言葉だ。彼女が容易に口にするとは思えない言葉。
「ジュリ?」
「嘘をつかずに、偽りを述べずに神技隊に選ばれたのですか? ここへ来たんですか?」
「え、ええっ?」
「私はつきました。帰れる可能性なんてほとんどゼロに等しいのに、それなのにまた会えるかもしれない、と。上の命令は絶対だけれど、もしかしたら戻ってこられるかもしれない、と」
 彼はじっと彼女の顔を見つめた。彼女が何を言いたいのかわらにわからなくなってきた。彼女が責めているのは彼なのか彼女自身なのか、それすらもわからない程に。
「わ、わたくしは――」
「だから私はもうこれ以上嘘を言いたくないんです。神魔世界へ戻るなら、きちんとこの家の方にお別れを言いたいんです。休暇だなんてごまかさずに。駄目ですか? 隊長」
 その唇がかすかに震えていることに、彼は気がついた。そしてようやく理解した。彼女が何について述べているのかを。
 突然神魔世界に戻ることになり、彼らは無理矢理理由をでっち上げて山田家から休暇をもらった。疑う心を持たないのかと不思議に思う程にあっさりともらうことができた。
 いつ戻ってくるのか、戻ってこられるのかもわからないのに。魔光弾の復活を阻止するなどという、未知の領域へ足を踏み入れるというのに。それなのに約束したのだ、帰ってくると。
「ジュリ……」
 彼は彼女の傍へと歩み寄り、強引にその腕を取った。唇を噛んでいた彼女は目を丸くして顔を上げる。彼はその手を引いて門の外へと向かった。慌てた声が背後から降りかかってくる。
「た、隊長っ!?」
「少し散歩しましょう」
「えっ、で、でも――」
「残りの仕事くらいコブシたちが片づけてくれますよ。今日はほとんど手に着いてなかったみたいですからね」
 彼女が押し黙ったのをいいことに、彼は歩調をゆるめながらも歩き続けた。やや冷たい風が吹き抜け、二人の間を擦り抜けていく。夜の道は驚く程人気がなかった。家々からもれる光だけが、そこに生があることを伝えてくる。
「あの、隊長」
 遠慮がちな彼女の声には答えず、彼はゆっくり進んだ。風が心地よい。夜の散歩は彼の趣味の一つだった。神魔世界に来てからは無論ほとんどできなかったのだが、このタイミングで実現するとは幸運だ。自然と口角が上がる。
「大丈夫です、わたくしたちはちゃんとここへ戻ってこられますよ」
 彼は肩越しに振り返った。戸惑いを含んだ瞳が向けられて、困惑気味にその小さな唇が動く。
「ですが……」
「だってまだ違法者はいるでしょう? 仕事がなくなったわけじゃありません。魔光弾というのがどんなものなのかはわかりませんが、そのために死んでなんてやれませんよ。わたくしたちの本来の仕事はこれなんですから」
 それに、と彼は付け足した。そして足を止めた。突然のことに反応しきれなかった彼女が軽く肩にぶつかってくる。彼はにこりと微笑んで頭を傾けた。二人での散歩も楽しいものだと、心の隅で考えながら。
「何かあっても、ジュリが戻ってこられれば約束は果たされます。彼らが欲してるのはあなたですよ。だからジュリが死ななければいい話なんです。大丈夫、わたくしはそんなことさせませんから」
 真実を告げれば、心底彼女は傷ついた顔をした。実際彼女がいなければここで働くこともなかっただろう。もっと苦しい生活をしていたかもしれない。この優雅な数ヶ月はまさしく彼女のたまものだ。他の誰でもなく。
「隊長、それだと何だか私が誰かを犠牲にしなければならないみたいなんですが」
「あ、そう聞こえました? いや、そういうつもりじゃあないんですよ。ただわたくしが誰かを守らなければならないなら、それは他の誰でもなくジュリがいいですと言ってるだけで」
 さらに続ければ彼女は困惑に眉根を寄せた。うーんと小さな声がもれたので、彼は微笑しながらその唇が音を発するのを待つ。彼女は小首を傾げながら見上げてきた。喜怒哀楽のどれとも言い切れない複雑な表情を浮かべている。
「それ、何だか告白みたいに聞こえるんですが」
「あれ? そう聞こえましたか? すいません。感謝してるだけなんですけど」
「感謝ですか?」
「はい。この世界で今までやってこられたのは全部ジュリのおかげですからね。あの三人の期待に応えられたのも、こちらの生活に適応できたのも。わたくし一人では無理でした」
 それは本音だった。文化やら何やら様々なことを勉強してきたが、それでも実際生活するとなると話は違ってくる。頼れる者が一人もいなかったらおそらく潰れていただろう。傍に信頼できる者がいなければ、乗り越えてはこられなかったはずだ。
 彼女がいなければ、今の自分はいない。
「それは私も同じですよ」
 すると彼女は苦笑しながらもそう言った。彼の心はほんの一瞬だけ跳ねて、それから不自然な喜びに包まれる。今まで意識してきた類の感情とは別物だった。当たり前のようでいてそれが幸せなのだとわかっている時の、くすぐったい気恥ずかしさによく似ている。
「本当ですか? それなら嬉しいんですけどね。あ、そろそろ戻りましょうか。よく考えると戸締まりしないと危険でしたね。もう夜中ですから」
 彼はまたもと来た道を歩き出した。握ったままの手首はやや冷たくなっていて、まだまだ夜は冷えるのかなと胸中で少しだけ反省する。彼女は黙ってついてきた。それは行きと同じだった。ただかすかに足音が軽くなっている気がする。気のせいかもしれないが。
「そうそう、先ほどの答えですが」
「え?」
「わたくしも嘘はついてきましたよ。危ない仕事じゃないと、苦労なんてほとんどない仕事だと嘘をついてきました。母は心配性ですからね。不安要素はできる限り口にしたくなかったんです」
 彼は歩きながらそう告げた。見慣れた門が近づいてきて、自然と歩調が落ちていく。
「でもそんな嘘も必要だと思うんです。いや、嘘かどうかはやってみないとわかりませんしね。未来は予測できませんから。ほら、実際わたくしは危険な目にも遭ってませんし、ジュリのおかげで苦労もしてないですし」
 彼は門の内側に体を滑り込ませると、彼女の手首を解放した。それから門の鍵を閉めて満足げに笑う。妙なくらいに上機嫌だと自覚はしていた。どうしてこんなに心弾むのかわからない。明日あの大地へ足を踏み入れるというのに、妙な感慨も何もないのだ。
「それにジュリだって、明日には戻れるんですから何も問題ないじゃないですか。嘘なんてついてませんよ」
 自信満々にそう言うと、彼は空を見上げた。流れた雲の合間から月が顔を出し、柔らかに地上を照らしている。星の数は少ないが、この月の温かさだけは神魔世界もここも同じだった。双子の世界なのだと、どこかで耳にした言葉が不意に蘇ってくる。それもあながち嘘ではないのかもしれない。
「何だか都合のいい解釈ですね」
「そうですか? 口先だけのごまかしはこの通り得意ですから」
「それは私もです」
「似たもの同士かもしれませんねえ、わたくしたちは」
 そう言えば彼女は声をもらして笑った。横目にも揺れる長い髪が見えて、口角が上がる。少しでも気が楽になったのなら嬉しかった。彼自身はこうやって隣にいるだけで安心できるのだから、彼女だけが気に病んでいるのはどうにも耐え難い。
 だから、彼女の約束を守りたかった。その心がこれ以上痛まないように、できる限りのことをしたかった。
「何なんですかねえ、こういう気持ちって」
「え?」
「いや、何でもないです。さあ家に入りましょうか。きっとコブシたちの仕事は終わってませんよ。片づけをしないと」
 彼は手をひらりとさせると玄関へと向かって歩き出した。明日への不安は、やはり何もわき起こらない。
 小走りする足音を耳にしながら、彼はもう一度微笑した。